胡坐驕誇
町野 交差点
胡坐驕誇
秋 九月二十二日
穏やかな陽光を背景に、秋の虫が鳴いている。
コオロギだろうか、鈴虫だろうか。幼い頃から「虫の声」というものに興味のなかった私は、それぞれに特徴のあるはずの虫の声を聞いていても、それと判別することが出来ない。本来夕刻に鳴くはずの彼らが奏でる歌声を日中に聞くことによって、秋が深まった事を知るのみである。
つい先日までは夏の暑さに辟易としていた。それも、ただの暑さではなかった。殺人的な、歴史上希にみる猛暑である。しかしその猛暑も、いつの間にか忽然と姿を消した。あるいは猛烈な台風が、彼らを攫っていたのかもしれない。兎に角、夏は慌ただしく去り、唐突に秋はやってきた。
思えば、昨今は気候が極端である。そして移り変わりが早い。日本は二季であると言うような冗談も、もはや冗談とは聞こえない。春や秋に一息つき、花見や月見を楽しむというような暇も、もはや中々ないのである。
秋ちかくなるしるしにや玉だれのこすの間とほし風のすずしき
実朝の抱いたこのような感慨も、何れ我々現代日本人には無縁のものとなるのかもしれない。
思えば、古来秋というものは、日本人にとって特別な季節であった。蒸し暑く寝苦しい夏から逃れ、厳しい冬に備えて休息を取る。その様な生物的本能が感ずる以上の意義が、秋という季節にはあったはずである。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる
この藤原敏行の歌などは、その秋というものを如実に表しているのではあるまいか。秋の訪れは目には見えない、しかしそれは確かに風の音の内に秘められている。どれだけ猛烈な暑気や寒気に晒されようとも、その風の内に秘められた秋の気配を察する感性だけは、守り通さねばならないのである。
秋の夜に雨と聞こえて降りつるは風にみだるる紅葉なりけり
この紀貫之の歌を公任が拾ったとき、果たして彼はどのような感慨に打たれたであろうか。きっと打ち震えんばかりの感動を覚えたに違いない。何より、私はこの歌が好きである。秋を歌った和歌の中で一番、この歌が好きである。確かに直截的すぎる感はあるが、それが下品でない。杯を片手に虚空へと耳を澄ます貫之の姿が眼前にありありと想起せらる。その様が、筆舌に尽くしがたいほどに美しいのである。
昨今の秋と言えば、紅葉や焼き芋、松茸などがその代名詞であるかのように語られる。しかし、本当の秋というものは、その様なものの内には存在しない。秋は風の内にある。あるいは、夜に紅葉が降り落ちる、その音の内にある。秋というものは本来、そのように目に見えぬものなのではあるまいか。
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