第2話



2.





企画部に中途採用されたKは上品で、優しい笑顔が魅力的な若者だった。



彼の初出勤日、社内がざわめいた。





彼の息は常にマウスウォッシュをしているかのように香る。



女性職員たちは定例会議に期待し待ちわびている雰囲気だった。


僕は、表面上は平静を装っていたが、内心は密かにときめきを感じていた。




そして、皆が期待していた彼との初シンクロ。


予想通りであった。



会議に参加したすべての人は性別や年齢に関係なく、彼に惚れてしまった。


彼とのシンクロは魅惑的だった。


彼が部長をはじめ、周りの仲間とシンクロをすると、彼とのキスが終わった者たちは皆、深い沈黙に沈んだ。



僕の番がきた。



彼は僕の前に立った。すでに部長や数人の唇を経て、僕の前に来た。


彼はハンカチを取り出して自分の口を拭き、小さなマウススプレーを口にスプレーしてから、僕に近づいてきた。



「では、よろしくお願いします。」



優しくて温かい彼の唇がスローモーションのように僕の唇をそっと覆った。


誰かのようにむやみに口の中に舌を入れ込んでかき回したりはしなかった。


この汚い儀式を、まるで宗教的な信念でも持っているかのように神聖さをもって執り行った。


堕落した俗世で唯一の高潔な正義の法執行官のように、彼のキスは美しかった。


彼の唇を通して、中年のじじいたちの唾液と口臭まで感じられたが、そんな事は全然気にならなかった。





それは他者を慰めるキスだった。





組織がいくら機械的な共感を無理に強要してきても、僕達はその機械の部品とはならず、人間的な連帯感を保ちたいという彼の誠実な心情が伝わってきた。


彼の感情と煩悩、暖かい懇願が目に見えるような気がした。


それは完全に僕の心でもあった。







僕たちはシンクロした。







やがて僕はゆっくりと目を開いた。



周囲の人々が私たちをじっと見ていた。



僕の後ろに立っていたG次長が僕の腕を掴んで横に押しのけ、Kを奪うように連れて行った。


性別や年齢、地位に関係なく、参加者は皆、Kとのシンクロを通してとろけるような経験をしたようだった。


ハゲ部長、おとなしい課長、派遣社員など区別はなかった。


僕はKとキスを終えて余韻に浸っているグループの中に混じって、皆と同じように恍惚とした表情を浮かべた。



普段なら、周囲の2~3人と行うだけだが、その場にいた全員がKとキスをしたがったため、それに伴い、全員が熱にうかされたようにキスをしあって、やっと会議は終わった。






「あまりにも優しくて甘かったわ。」




「本当に変だよ。私、泣きそうになったの。」





会議室を出ると、まず女性陣が口ぐちにささやいた。




トイレで口をすすぎながら、更にお互いの経験を語り合うだろう。



不思議と、私も吐き気を催さなかった。







その後、Kの一挙手一投足について社内の噂は絶えなかった。



モデルみたいな彼女と歩いているのを見たという噂、ゲイだという噂、意外に私生活は冷血漢だろうという推測など、いろんな話が広がった。


僕は、そんな彼に個人的な関心を抱かないよう努力したが、同僚たちの雑談の中でKの名前が聞こえると、思わず緊張して耳を傾けた。



徐々に、僕は彼とビジネスのみのシンクロではなく、プライベートなシンクロをすることはできないかと思い始めた。



時々彼を盗み見ながら、高望みだろうと思いながら。






*********************************





Kが入社して一ヵ月ほど経った頃、Kを中心にしたその周囲に様々な勢力図が描かれた。



若い独身女性のグループは、積極的にKに話しかけたりプレゼントを贈ったりと、何かとKに纏わりついた。


3~5人ぐらいのグループが、常にKの動向をチェックして騒いでおり、いつも賑やかだった。


それより少し年上の女性陣や、既婚女性達は、自分なんかKに釣り合わない等と言いながらも、容姿に自信がある者は露骨にKに誘いをかけていた。


男性陣の中でも、若い同性愛者の連中は、Kが同性愛者かもしれないと思い、なにかと口実をつけてはKに近づいた。


異性愛者たちは、Kの見た目とイメージの良さに敵わないとみて、不平を言いながらも反感を持てず、Kに対して距離をとった。




この、「シンクロ」が始まってから、世の中全体に言える事だったが、男女問わず、性の垣根は低くなっていた。



部長が仕事のためのシンクロの機会という理由で、Kを頻繁に飲み会に誘っていたが、Kは全部断っているようだった。




飲み会を断る、という点に共通点を見つけた僕は、少しKと距離が縮まった気がしたが、僕のほうから強く誘いをかけることはためらわれた。






Kと「シンクロ」した者は皆思っただろうが、聡明で爽やかな彼の思考が頭に流れ込んできた時、救われた、と思った。誰もがもっとその心に触れていたい、と思った。





だが、結局僕には、定例会議後の「シンクロ」以外、Kと接触する機会はなかった。


僕は成す術なく、Kにまつわるウワサを耳にするだけだった。


職場のアイドル的存在の女性3人が、次々とKに振られたらしい。


Kを出世させて広報担当の責任者にして、取引先の会社を増やそうと考えている計画があるらしい。


等々・・・・・。





Kはいつもウワサの的だったが、K自身は社内で孤独な様子だった。






そして、季節が変わる頃、Kは目に見えて憔悴していった。




ある日の定例会議後のシンクロで、Kとディープキスをしている時だった。



会議の情報の理解の交換のあと、突然Kから静かに深い悲しみが伝わり、僕の心いっぱいに広がった。


Kから伝わる悲しみは、以前と同じ広く深い爽やかな愛情と共にやって来る。


Kは以前と変わらず穏やかで愛情深い精神を持つ人間だが、Kの優しさと愛情に付け込んで、Kを利用しようと困らせている人間がいるようだった。




言いたいけれど言えない。


知りたくもない事をたくさん知ってしまった。


苦しくて苦しくてたまらない。


そんなKの苦しい心が流れ込んでくる。





僕は「心配している。」「大丈夫か?」と心の中で繰り返すことしかできなかった。




優しい人間は、常に他人に付け込まれる。


他の人間を、アイテムのように数値化し、利害関係でしか人間関係を考えられない人間ばかりの間で、Kの精神は純粋すぎた。




すると、少しだけ光を感じ、キスを終えてお互いの顔を離すと、Kが少し微笑んで僕の目を見つめていた。



僕は照れて何も言えず、そっとその場を離れた。



何か話すべきだと感じたが、なんと言えばいいのかわからない。



いつも疲れた様子を見せるようになったKの事を、皆が遠巻きに心配していた。







僕もそうだった。




遠くから眺めていただけだ。









やがて、社員のSNSでのつぶやきから、徐々にKの事が世の中に知られるようになった。


「T商事に天使がいるらしい。」という話は瞬く間にインターネット上に溢れかえる事になった。


Kを隠し撮りした写真も上げられ、その見た目の良さから、ファンが飛びついた。


彼が出社する様子を盗撮した、ただ歩いているだけの動画の再生回数が、1週間で100万回を突破した。




「彼とシンクロすると、魂が洗われる。」



「彼のシンクロは心を救う。」



「私は彼とのシンクロで自殺を止めた。」




等々、Kのシンクロの事が様々な形容で紹介されている。


勝手に彼を教祖とした団体のホームページまで立ち上がった。ファンの集まるページ、興味本位のまとめサイト、アンチのまとめサイトまでできる始末だった。




そして、やはりというか、雑誌やテレビからわが社に問い合わせが来るようになった。





会社は、PRの絶好の機会だとテレビの取材をいくつか引き受けたようだった。


Kは広報担当に異動させられた。


実質的にKが会社の顔としてメディアに出なければいけなくなった。


そしてすぐ、テレビ局の取材が決まった。







********************************







取材日当日、社内はちょっとしたお祭り騒ぎだった。


社員、派遣社員、アルバイトの人達も、朝からずっとそわそわしていた。


僕も駆り出され、テレビ局の取材陣を駐車場で待ち、案内する係の一人に任命された。


やって来たのは、バラエティ番組でよく見る女性のアナウンサーと、寡黙で僕の事を平気で無視する男性カメラマン、自分の知りたいことだけ話してこちらの質問には一切答えてくれない女性プロデューサー、やたらと忙しそうな若い女性音声係など、14名ほどの集団だった。




僕は、挨拶もそこそこに一次待機室まで案内する間、色々と質問したが、わかった事といえば夜11時のニュースの今日の特集コーナーで使われるらしい、という事だけだった。




女性アナウンサーは、いくらか緊張している様子で、近寄らせてもらえなかった。


あからさまに邪魔者扱いされたので、部屋まで案内して早々に僕はKの様子を見に行った。





Kはずっと小会議室の一つで控えていた。


社員の多くがその会議室を取り巻いていた。


ハゲ部長や常務、社長やヨボヨボの会長までが、その間を縫ってKの控え室に出たり入ったりし、社のPRのため、ということで「シンクロ」を繰り返していたようだ。




そこに、さっきのプロデューサーが入っていった。


今日のインタビューの打ち合わせだろう、早口でまくし立てる声が聞こえた。


僕は、他の社員たちの群れの中に混ざって、成り行きを見ることにした。





Kのファンの多くは、Kが、今日メディアデビューすることで社会的に有名になり、手の届かない存在になる、と思っているようだ。



中にはKが何か意識革命のようなことをしてくれると考え、感動で涙ぐんでいる者もいた。






やがて、会社の広い1Fロビーにみんなゾロゾロと移動していった。



そこでKにアナウンサーがインタビューをするらしいのだ。


Kとアナウンサーを中心に、カメラマンやディレクターが陣取り、他のスタッフが様々な機材を調節している。



その集団から数メートル距離を取って、社員たちがその様子を見守る、という状態だった。


みんな仕事を放りだして集まっているわけだが、会長以下役員達まで集まってきているため、問題にならなかった。



やがて、撮影クルーたちの緊張感が高まり、それに合わせて社員達のざわめきも静かになっていった。




「はい、今日は、T商事という会社にお邪魔しています。」




急に女子アナウンサーがカメラに向かって元気に話し始めた。



「こちらに今話題の人物がいらっしゃるということで、T商事さんへ問い合わせをいたしましたところ、本日お時間をいただいてお話しを伺わせていただける、ということでしたのでこうして参ったわけです。」




「こちらのイケメンさんが今話題の『T商事の天使』、Kさんです。」




Kの方へ手を動かし、アナウンサーが紹介すると、Kはペコリと軽く挨拶をした。


同時に周囲の社員達がわっと歓声をあげ、拍手を送った。



Kのキレイな頬が桃のように赤く染まった。



「Kさん、初めまして、私ZKテレビアナウンサー、Y申します。」



「あ、Kです。」



「Kさんは、ご自身が『T商事の天使』と呼ばれていることはご存知ですか?」



「は・・・、はい、一応。」



「そのことについてどう思います?」



「僕は天使ではありません。何かの間違いだと思ってます。」




「大変謙虚な方ですね。

ただ、本日私が参りましたのはですね、私自信がKさんと「シンクロ」をして、事の真贋を確かめるためなんです。」



「はい・・・・。」



若いKのファンの女性達の間から「やだー」とか「マジー?」という声があがった。



Kは前持って聞かされていたのか、少し青ざめた顔で緊張した面持ちだった。




「Kさん、あなたの「シンンクロ」が本当に特別なのか、私が検証します。


私も職業柄、色んな人と「シンクロ」してきました。


あなたが評判だけのただのイケメンならすぐにわかります。


いいですね?」




「・・・・・・はい。」



「では!」



アナウンサーの方がガバっと動き、Kに抱き着いた。


おもむろにKに顔を近づけ、ブチュっと音をたてて勢いよくキスをした。


Kは驚いた様子で少し体を引いたが、そっとアナウンサーを抱きとめると、ゆっくりとそのキスを受け入れた。


周囲で「おおおー」「きゃー」と声が上がった。


アナウンサーの方から積極的に舌を入れているようで、Kはそれに静かに対応しているようだ。


ピチャ、チャプっと派手な音がしていたが、アナウンサーの動きがまるで電気にでも打たれたようにピタっと止まった。




Kは優しくキスを返している。


まるで怒った子供をなだめているようだ。


アナウンサーは小刻みに震え始めた。


周囲の皆は物音ひとつたてず、固唾を飲んで見守った。


Kは優しく慰めるようにキスをしている。



アナウンサーの閉じられた目がブルブル震え、見開かれた時に、ドっと涙がこぼれ出た。



と、またアナウンサーはガバっと身を引き、「シンクロ」は終了した。



アナウンサーの顔はぐしゃぐしゃに引きつった泣き顔のままだった。



「わかりました!わかりました!あなたは本物!特別な「シンクロ」のできる天使です!勘弁して!もう無理!」



女性ディレクターが慌てた様子で立ち上がった。


ディレクターに向き直って、アナウンサーがまくしたててる。




「もういいでしょ!こんなの耐えられない!私だって事情があるのよ!


なんでこんな自己嫌悪に落ちる仕事やらなきゃならないのよ!


私だって・・・私だって好きでこんな人間になったんじゃない!」




ダっと走りだしたアナウンサーを追いかけてスタッフ数人が走り出した。


ディレクターが慌ててマイクを手にし、カメラの後ろからKに話かけた。




「今のはいったい、どういう事なんですか?あなたは何を彼女に伝えたんでしょうか?」



「特に何も・・・・」



「しかしですね、彼女のうろたえ方は異常です!


彼女もプロなんですから、カメラの前であんなに取り乱すなんてありえないことです。


あなた、何か猥褻な事でもささやいたんじゃないんですか?」



「いえ・・・まさかそんな・・・・・」



Kの顔は青ざめて苦しそうだった。


精神的なショックだけではなさそうだ。


本当に体調が悪いみたいだった。




「ちゃんと答えてくださいよ!


彼女の誠意ある挑戦に応えるのが面倒になったんじゃないんですか?」



「すみません・・・・気分・・・・気分が悪いので・・・・・。」



Kはふらつき、2~3度左右に身体を揺らすと、前のめりに倒れてしまった。




そこからは騒然となった。




救急車を呼ぶ者、Kに駆け寄り脈を診る者、TV取材陣に罵声を浴びせる者、大騒ぎになり、TVの収録も中止になってしまった。


女性社員の多くが、女性ディレクターを汚い物でも見るような目で睨み付けていた。



「帰んなさいよ!」


「K君になんてこと言うんだよ!」


「ふざけんな!ババア!」


口ぐちに悪口雑言が飛びかった。


やがて、「かえれ!」「かえれ!」の大合唱が始まり、取材陣もスゴスゴ撤収してしまった。


僕は、ざわめきの余韻が残る広いロビーで、ポツンと立ち尽くしていた。



今、目の前で一体何があったのだろうと考えながら・・・・。




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