シンクロ
@yumeto-ri
第1話
シンクロ
いつもの形式的な口頭による定例会議が終わった。
ハゲ部長はわざらしい優しい声で、舌なめずりをしながら、参加者全員を見渡して言った。
「じゃあ、早速「シンクロ」を始めようかな?」
参加者は立全員立ち上がり、部長の前に順番に並んだ。
部長は、歯の間に挟まった食べカスをチッチッと吸って、順番に参加者とディープキスを始めた。
内蔵から腐った匂いが上がってくる好色漢の50代男性。
吐き気がする口付けだった。
参加者は、部長とディープキスを終えた後、近くの席の同僚三、四人とも口付けした。
部長の唾液がいろんな人の口臭と混ざって会議室中の人々に均等に分配された。
誰かの逆流したすっぱい胃酸までも混ざって来た。
他人の汚い唾液を、参加者は公平に分かち合った。
「シンクロ」、この儀式は同僚と上司との認識を合わせるための非常に重要な企業文化だった。
「これで大体のコンセンサスを取ったと思う。
では、プロジェクト完成までつっ走ってみようぜ!
それと新入社員たちも今日の飲み会を忘れずにね。
雰囲気を盛り上げて、もう一度深くシンクロ合わせ
る重要な場だからね。」
僕は表情に表れないように吐き気を無理やり我慢して、会議が終わるやいなや男子トイレに駆込んだ。
トイレの水を繰り返して流しながら吐き続け、おさまると、常備しているマウスウォッシュで何度も口をすすいだ。
同僚達も口ぐちに不満を漏らす。
「あの野郎、舌をめっちゃ入れてきやがって、息が詰まりそうだったよ。」
「こんなことまで耐えないと給料をもらえないなんて、ホントクソくらえだな。」
「K係長、あの野郎、一体お昼に何を食べたんだ?!滅茶苦茶吐いちゃったよ。」
一方、女子トイレからは他の部署の女性社員の不満が聞こえてきた。
「今回、部長になった企画室のあの無能おやじがいるじゃない?
あの人がね、今回可愛くて若い子ばっかり採用したのよ。
キャリアも実力も何もない新人たちを。
自分がディープキスしたい人だけを選んだわけよ。」
「もー、汚くて嫌だねー。
私も部長になりたいわ。
若いイケメンばかり選んで定例会議で女王になりた
いわ。」
「ところで、うちの係長、最近の上司からめっちゃ怒られて、ストレスがひどいみたいね。
口臭がうちの猫のトイレの臭いよりもひどかったよ。」
***********************
舌の付け根に小さな送受信機を埋め込み、他人とのディープキスを通して他人の情緒や思考を非言語的な方法で交感する行為が社会に広まって3年が経った。
埋め込みは簡単な手術で済み、苦痛もなくすぐに終わる。
そして、ディープキスは愛する人との間だけのコミュニケーションの方法として限定されず、目礼や握手、ハグのように日常の社会的なコミュニケーションの方法として定着した。
認識の「シンクロ」を合わせるという名分で行われたこの行為は、実際に効果があった。
整理整頓された言語表現で伝達される情報が10とすると、ディープキスの情報量と伝達の範囲は、10倍以上、すなわち100の効果があった。
3年前まで、あらゆる場面で社会的な誤解や情報の不平等が絶えず、業務を効率的に進めるとは難題だった。
しかし、大きく複雑なプロジェクトの場合、部署全員の理解と協力が欠かせない。
同じ組織の中でも仕事の理解度の格差が大きくては、業務上大変な問題だ。
「シンクロ」は、この現状を打開するために、企業を中心に広がった文化であった。
ディープキスを通して、互いの情報や感情を共有する。
それは実際に資料が伝える文脈を越えて、相手の心理的に微妙な部分までも伝えることが可だった。
そのため、深い共感を通じてチームワークの向上をもたらし、無駄な衝突を無くし仕事の効率化を飛躍的に促進させた。
いくら嫌な上司や同僚であっても、一度ディープキスをすれば、相手の複雑な事情を理解し、相手の弱さに同情するようになる。
相手の疲れた心や、家庭や社会で尊重されたい思い、些細な欲望にさえ共感するようになる。
「コンセンサスを取り、皆の認識を平等に共有する重要な方法です。」
「週1回定例会議の「シンクロ」は必須です。
コーヒータイム、ティータイムと同じく、頻繁に、ごく自然な形で同僚との間にシンクロタイムを取ってください。
報告、連絡、相談、このような業務の基本要素の一つとして「シンクロ」を同一線上で受け入れなければなりません。」
入社オリエンテーションの時、身だしなみの整った人事担当者が社内で行われている「シンクロ」についてこう説明した。
その時正直、少しときめきも感じた。
実際の現場でディープキスをしなければならない相手が汚いエロじじいだということを知っていれば、そのオリエンテーションの時に逃げ出したはずだ。
しかし、他の会社にも口臭がひどく、キスしたくない相手がいない保証はない。
耐えて耐えて、耐えきれなくても、また耐える。という生活がもう4年目に入った。
実際、僕はよく辛抱してきた。
だが、最近、僕は社内でだんだん周囲についていけなくなっていた。
定例会議だけでなく、毎週のように開かれる飲み会の席でも、頻繁に行われる「シンクロ」を回避してきたのが最大の原因だ。
自分でもこれをよく自覚している。
しかし、原因を知っていることと行動に移すことは全く別々のことだ。
何よりも僕には少し潔癖症の気がある。
他の人が少しでも口つけた食べ物には一切手をつけない。
飲み物の回し飲みなどできないし、一つの鍋をみんなでつつく事もできない。
しかし、組織はそんな個人的で些細な理由なんて配慮してくれない。
過去3年間、私は骨を折るほど苦労して一生懸命だった。
まずは嗅覚を麻痺させる鼻の手術を敢行した。
さらに、自費で潔癖症を治療する心療クリニックも通った。
心理カウンセリングを受けたり、催眠療法を受けたり、山を登ったり滝に打たれたりする克己訓練も受けた。
誰よりも必死だった。
最終的に、「シンクロ」後にトイレで嘔吐をするとしても、「シンクロ」自体を耐えられるほどにはなった。
目覚しい成長だと主張したい。
しかし、僕が会社生活を通じて成長したいと期待していたのはこんな事ではなかった・・・・。
「ああ、いつまでこんな生活を続けなければいけないんだろう・・・・・。」
僕は、他人と軽いスキンシップもできないほど私生活に多大な影響を受けていた。
この気持ちを訴えようにも、訴える先はない。
結局は、僕があまりにも敏感で、精神疾患があり、僕自身に問題があるという結論に至るのが目に見えているからだ。
僕は徐々に、鬱の状態に入り込んで抜け出せなくなっていた。
***********************
「シンクロ」は、瞬く間に社会全体に広がった。
最初に導入された時は、敬虔で厳粛な生活を重視する人、そして同性間の性的関係を思わせる行為を容認しない宗教家や異性愛中心主義者の激しい反発があった。
これを解消したのは、ローマ教皇が男性の一般信徒と交わした模範的なディープキスだった。
当時、これはセンセーショナルだった。
「教皇とのディープキス」というタイトルの本が各国の言語に翻訳され、「シンクロ」の経緯、効果が事細かく記載されたこの本は、「シンクロ」の大衆化に大きく貢献した。
すべての人間関係で行われる濃密なコミュニケーションが社会全体にどれほど価値があるかを世界中の人々に説く教科書になった。
やがて人々はコミュニケーションの誤解で発生する社会的コストを最小限にした。
各国の首脳は、握手の代わりにディープキスで最初の挨拶を交わした。
ビジネスの打ち合わせもディープキスで始まった。
受刑者の間のディープキスは反響が大きかった。
お互いの過去を客観的に理解し、自分を振り返ってみることになって、再犯率が低くなったという報告もあった。
ただ、小さな犯罪で捕まっていた者が、他の犯罪者の知識と経験を手に入れ、大規模な組織犯罪者になる、といったこともあるにはあった。
しかし、概ねその結果は良い事が多く、業務効率だけでなく創造性を高めたり、芸術の才能を開花させたりする効果も報告された。
専門家はこのような現象を見て、人の情緒と親密感を表わす原初的な行為が生産性に及ぼす社会的影響を、人類の歴史は見逃してきたと説いた。
本来、愛する関係、生命を生み育む相手とだけの行為であった口付け。
それを、濃密な関係以外の他人とすることで、日常の生活全体に様々な意味の生命力を生み出した。
実際、その後の科学的経済的文化的な発展は目覚ましい物があった。
そうして、「シンクロ」は「文明進歩の起爆剤」とまで呼ばれた。
僕もそのような影響力に対しては肯定するが、そもそも、個人的に僕はディープキスがなくても、相手の気持ちや心情に敏感で、他人の気持ちをよく察する方だった。
僕は、ここまで強制的にすべての人と密接な関係を持たなければ、会社生活ができない状況については懐疑的だった。
しかし、それは僕だけではなかった。
シンクロが果たして業務効率全般に肯定的な影響を与えるのかについて、疑問を持つ人も多かったし、明らかに問題もあった。
社会的に重要なコミュニケーションとしてではなく、単に性的遊戯として、その行為を楽しむ人も多かった。
その妙な快感は公共の場でセックスをするのと似てると言われ、そのスリルを楽しむ人もいる。
さらにそれを積極的に出世のため用いる人も増えた。
シンクロが、本当に有効的な社会的コミュニケーションであるかを客観的に評価するための統計データは、まだ足りなかった。
今のところ、統計は生産性の向上という結果だけを語っている。
しかし、この行為に耐えられなくて組織を離れた人は統計に入っていない。
私たちは、新しく始まったこの現象の中で実験動物のように、ただ与えられたルールを繰り返すために存在した。
それがいつも僕を憂鬱にさせた。
だが、そんなある日、Kが現れた。
彼のキスはとても優しかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます