魔王山

 私が魔王領に来てから、もう、1ヶ月以上が経過していた。

 あれから、毎日のようにネモの訓練は続いた。

 今のところ、私は、ネモに見限られることはなく、なんとか訓練を続けていた。

 だが、決して楽な日々ではない。

 訓練メニューに私が少しでも慣れると、その度に彼はさらに過酷な内容を追加した。

 やっぱり私は恨まれているんだろう、とあらためて思った。

 訓練に慣れたことを悟らせないように手を抜けるほど、私は器用ではなかった。

 だから、必死に毎日の訓練メニューをこなすしかない。

 確かに彼からは、見限りの言葉こそ聞いていなかったが、褒められたことも一度もなかった。

 そしてあの男、ルンフェスに絡まれたのは、あの一度きりだけだった。

 たまに城内ですれ違うこともあるが、舌打ちをされるだけで、特に直接手を出されてはいない。


「次に同じ目に遭いそうになったら、城内に逃げろ。人目のある場所にいれば、あいつも無茶はやるまい」


 ネモからは、そう言われていた。

 ルンフェス以外にも、この城や街に住む人々の、私へ向ける目は、あまり好意的とは言えなかった。

 青い肌を持つ父が、ここを離れて暮らしていた時そうだったように、この場所で暮らす私も、ここでは浮いた存在だった。

 特に街には、私の事情──魔王の血族であるということを知らない人たちも多い。

 1人では絶対に街に出ることのないよう、ネモからはきつく釘を刺されている。

 1ヶ月以上経った今でも私は、ネモ以外とは殆ど口を利いていなかった。




 その日私は、山の麓に1人で立っていた。

 魔王山まおうざんと呼ばれる、山である。

 魔王城から見て、私が馬車で下ってきた山とは反対側にある。

 歴代の魔王が、己を鍛えるために使った場所だと言われているが、真偽のほどは定かではない。

 険しい岩肌の道。危険な獣も生息している。

 皮鎧を身に着けた私の腰には、一振りのショートソードがある。

 最初にネモに渡された時、振ることさえままならなかった、あの剣である。

 今の私は、軽々、とはいかないが、これを片手で振るうことができるほどになっていた。

 これを持つようになったのは、まだほんの数日前である。

 この剣は、ネモの指示ではなく、私が自主的に持ったものだった。

 今日までのネモの訓練は、確かに的確で、私は日に日に自分の成長を実感できていた。

 それは、かつてない充実感を、私に与えてくれていた。

 だが、ネモが私の成長を褒めてくれたことは一度もない。

 成果を報告しても、


「わかった、明日からの訓練メニューを増やしておく」


 そんな、淡白な反応が返ってくるだけだった。

 恨まれているのだから仕方ない。

 そう割り切ろうとして、どうしても割り切れなかった。

 だから、数日前の剣の稽古の時、いつも使っている短剣ではなく、以前、まともに振るえなかったショートソードを持っていったのである。

 そして、いつもの短剣と変わらぬ動作でそれを振るい、稽古を最後までこなして見せた。

 褒めてほしかった。驚いてほしかった。

 よくやった、とその一言が欲しかっただけなのだ。

 だが、その時の彼は、


「よし、明日からの訓練ではそれを使え」


 いつもと変わらぬ口調で、ただそう言っただけだった。

 悔しかった。

 彼に、どうしても認められたかった。認めさせたかった。

 だから私は、たった1人でこの山──魔王山に来たのだ。

 この山には、一週間ほど前に、一度、挑んでいた。

 その時は、ネモに連れられ、訓練の一環として、ここを登ったのだ。

 私は、山の中腹辺りまで登ったところで、音を上げた。

 ネモも、始めから頂上まで行く気はなかったようで、あっさり引き返すことを決めた。


「俺自身も、仲間数人を伴って登り切ったことがあるだけで、1人で頂上まで辿り着いたことはない」


 彼はそう言った。

 この山に来るのは、それ以来である。

 昨日、私はネモに向かって、1人で魔王山に挑みたいと願い出た。

 ネモは最初は、その提案に中々首を縦に振らなかったが、しつこく食い下がる私に、最終的には折れた。


「無理だと思ったら、すぐ引き返せ。日没までには、必ず麓に戻るようにしろ」


 彼は、そう釘を刺した。

 この魔王山の頂上には、辿り着いた者達が、証として名前を刻んだ大岩があるらしいと聞いている。

 ネモは、私が頂上に辿り着けるなどと、微塵も考えていないだろう。

 私が1人で、頂上の岩に名前を刻んで来れば、彼を驚かせること、彼の鼻を明かすことはできると考えた。

 もし、彼がそれを信じなければ、後に頂上まで引っ張って行って、見せつけてやればいい。

 麓から山を見上げ、私はそう思った。


 私は、岩肌の山道を速足で登っていった。

 ここは、山としては、それほど大きいものではなく、標高だけで見れば、一日で頂上まで辿り着けるものだった。

 だが、多くの難所が、簡単にそれをさせてくれない。

 今も、まだ麓からそう離れていないというのに、早速、霧が濃くなってきていた。

 私の手元には、ネモから受け取ったコンパスがある。

 頂上に近づくほど激しい霧に覆われている魔王山に挑むには、必須の道具だった。

 この山も、魔王領周辺の地形と同じく、殆どが岩肌で、木々が少ない。

 それゆえ、空気が薄く、平地よりも遥かに早く体力を奪われるのだ。

 前回の中腹辺りまで辿り着いた時は、表面上は、いつもの訓練のように、激しい鍛錬を行っているわけでもないのに、あっという間に息が上がっていたことに驚いた。

 なるほど、訓練になるわけだ、と私は思った。

 ──と、私は足を止めた。

 危ない……。

 ほっ、と息をつく。

 霧で見え辛くなっているが、数メートル先は崖だった。

 私は、汗を拭い、道を曲がった。

 腕試しと訓練以外で登る理由がない場所なので、道もほとんど整備されておらず、崖も多い。

 ネモから受け取った地図を確認する。

 これは、彼が、以前に頂上に登った時に作り、ルートを記したものだと聞いていた。

 真の強者は、自ら登る道を探り当て、あるいは険しい崖さえも登り、頂上を目指すのだという。

 それを聞いていたので、私は、最初、地図の携帯を断った。

 だが、彼はそれを許さなかった。


「お前の身は、魔王様よりお預かりしている。勝手に死なれては責任問題になる」


 結局、それなのか。

 この人には、自身の気持ちよりも、魔王の命令の方が大事なのだろう。


「地図を持っていかないのなら、魔王山に挑むことは許可できない」


 そう言われては、断ることはできなかった。

 前回、彼もこの地図を見て、ルートを決めていた。

 私は、その後ろをついて進んだだけである。

 今、1人で進むと、この山の危険さを、改めて認識する。

 私が、地図とコンパスなしで、手探りで進もうものなら、道に迷った拍子に、崖から転落していてもおかしくはないと思えた。

 なだらかな道の先に現れたのは、殆ど壁のような崖。

 地図上のルートでは、ここを登ることになっている

 出っ張った石に手を掛けながら、なんとかよじ登り、次の道に出る。

 地図通りに進むルートも、決して楽ではない。

 登る前は、わざと地図から外れた、険しい道を選んでやろうかとも思っていたのだが、自分には無理だろうということを、思い知る。

 地図に沿って進んでも、単身で頂上まで辿り着けば、ネモを驚かすには充分なはずだと、私は思いなおすことにした。

 まだ、先は長そうだ。

 私は、気を引き締めて進んだ。




「ふう……」


 見覚えのある景色が見えた。

 前回、ネモと訪れて、引き返した場所だった。

 あの時は、ここに着いた時、私はヘトヘトだったはずだ。

 少々疲労してはいるが、まだまだ歩けることを確認する。

 前とは違う自分を確信して、希望が湧いてきた。

 意気揚々と、前に踏み出そうとしたその時、前方から近づいてくる、何かの気配がした。

 私は、気配のする方に注意を向け、ショートソードに手を掛けた。

 霧のせいで、まだ姿ははっきりと捉えられない。

 だが、シルエットから、それが、人ではなく、獣のようだということは、わかった。

 ここに来るまでに、青い狼3匹、紫の猪1匹に遭遇し、なんとかやり過ごすことができている。

 どれも、私が住んでいた土地では目にしたことがない見た目をしていたが、訓練の成果か、正面から戦っても対処できた。

 魔王領周辺に棲む獣は、私の知るそれらと見た目は似ていても、実は遥かに凶暴なのだが、元いた土地では戦いとは無縁だったこの時の私は、それに気づかない。

 そして、緊張する私の前に、次に姿を現したのは、熊のような体躯を持った、真っ黒な狼だった。

 なんて大きさなの……!?

 それは、ヘルハウンド、別名"地獄の番犬"と呼ばれる、魔王領周辺に生息する特に凶暴な肉食獣だったが、この時の私はそんなことは知らなかった。

 ヘルハウンドは、こちらを見つけると足を止めて、じっと睨みつけてきた。

 重く感じていたショートソードが、恐ろしく頼りない。

 ヘルハウンドが吼えた。

 それは狼のものではなく、獅子のような咆哮。

 体が震えあがる。

 だが、勇気を振り絞って、私は構えた。

 睨み合いが続くかと思われたが、次の瞬間、ヘルハウンドが動いた。

 来る……!?

 巨体とは思えないスピードで跳び上がり、前足の爪を振り下ろしてくる。

 それをなんとかかわして、すれ違う。

 ヘルハウンドは、すぐに向き直り、第2撃目を加えてきた。

 今度は、カウンターを狙う。

 私は、振り上げられた前足に、ショートソードの斬撃を合わせにいった。

 前足を封じられれば、逃げ切ることもできるという判断だった。

 ゴスッ、と鈍い音がして、刃と前足がぶつかる。

 衝撃で、手首が壊れてしまうのではないかと思えるほどの重量が、襲い掛かってきた。

 固い……!?

 爪ではない場所を狙ったはずなのに、皮膚が固く、刃が通らない。

 このままでは押しつぶされると判断し、急いで剣を引いて、後方に避ける。

 だが、反動で地面に転がってしまう。

 なんとか、握った剣は放さない。

 が、体勢の崩れたそこに、ヘルハウンドの第3撃目が来た。

 まずい!?

 必死に、体勢を立て直して後ろに跳ぶ。避けきれない。

 ヘルハウンドの鋭い爪が、着ていた皮鎧の胸元に食い込んだ。


「!?」


 それは、心臓を抉り取るような一撃だった。

 死に物狂いで、顔面に剣の一撃を加えて、わずかに怯んだところで、一気に距離を取った。

 肩で息をしながら、胸元を確かめると、皮鎧が腰の辺りまで、完全に裂けていた。

 即座に後ろに跳んだおかげか、辛うじて、傷は皮膚までは届いていない。

 運が良かった。

 第4撃目はすぐには来なかった。相手もこちらを睨んでいる。

 今の自分では、とても勝てない。

 それは理解できた。

 だが、この獣と追いかけっこをして逃げ切れるだろうか?

 獣の足は速い。とても、逃げ切れるとは思えなかった。

 冷静に、手段を探している自分に少し驚く。

 昔の自分なら、何も考えず背を向けて逃げただけだろう。

 そして、背中からあの爪を受けて、あっさり死んでしまっていたはずだ。

 この時、実戦は殆ど初めてのはずなのに、あの訓練の日々は、私の精神面までも、鍛えてくれていたようだった。

 しかし、冷静に判断しても、今のこの状況は絶望的だ。

 やはり……なんとか逃げるしかない。

 霧に紛れて、相手がこちらを見失ってくれることを祈る。

 私に出せた結論は、そんなものでしかなかった。

 悠長にはしていられない。

 私は、ショートソードとは逆の腰に付けた予備の武器、短剣に手を掛けた。

 こんなもので、まともに傷つけられる相手ではない。

 それでも、一瞬でも隙を作れれば、それでいい。

 私は、ヘルハウンドの眉間に狙いを定めて、短剣を投げつけ、そして、命中を確認せずに、一気に後ろに駆け出した。

 相手が少しでも怯んでいる間に、一気に距離を取らなければならない。

 とにかく、全力で駆けた。

 必死に走りながら、後方を確認すると、ヘルハウンドは、しっかり後を追いかけてきていた。

 短剣が当たらなかったのか、あるいは、結局、皮膚で刃が弾かれて、意味をなさなかったのか。

 追いつかれれば、今度こそ殺される。

 まだ、死にたくはない、と強く思った。

 しばらく前まで、いっそ殺してほしいと思っていた自分が嘘のように。

 なぜだろうか?

 ネモとの訓練の日々は辛かったはずなのに、それでも、それ以前までの、ただ流されるだけの人生とは明らかに違っていた。

 生きている実感を、目標を与えてくれた。

 彼──ネモにとっては、ただ魔王の指示だったとしても、その日々は、本当に私の心を満たしてくれていたのである。

 だから、まだ死にたくはない。

 どうして、止める彼を振り切って、意地を張って、こんなところまで来てしまったのか。

 だが今は、後悔している場合ではない。

 もう一度、後ろを振り返る。

 ヘルハウンドとの距離はさらに縮まっていた。

 このままでは、追いつかれる。

 なんとか、あの獣の足を止めなければ。

 そう思った瞬間──。

 景色が傾いた。

 視界の悪いここで、後ろを気にして走っていた私は、道を踏み外していた。

 しまった……!?

 思った時には、もう遅かった。

 急斜面に足を取られて、私の体は滑り落ちていく。

 踏ん張ろうとしても、落ちていくのを止められない。

 掴まる場所もない。

 崖のような坂を、私はどこまでも転げ落ちていった。

 私は知らなかった。

 襲ってきた獣──ヘルハウンドが、この周辺では殆ど絶滅している種だということを。

 そして、それが現在、魔王領内で軍用として飼われている獣だということを。

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