魔王領の日々
魔王領で過ごした日々は、今までの私の生涯からすれば、そんなに長い時間ではなかったと言える。
それでも、後の私を形成する上で、あの場所での経験が、欠かせないものになっていることは、間違いない。
それまで、誰かの助けなしでは生きていけなかった私を、変えてくれた場所。
あの場所を訪れることは、きっともうないだろうが、あそこは、私にとって、とても思い出深い場所だった。
「こいつを持ってみろ」
そう言って、ネモから渡されたのは、鉄の剣だった。
城の中庭で、私の最初の訓練は始まった。
鞘に入ったままのそれを受け取った時点で、私にはもう重い。
抜いてみるよう指示される。訓練用に刃は潰してあると言われた。
たどたどしい動作で、剣を鞘から引き抜く。
片手では、まともに持っていられない。
引き抜くと同時に取り落とし、慌てて両手で拾いなおした。
両手で持っても重い。
この時の私には、剣の柄を両手で持って、引きずるのが精一杯だった。
「しっかり構えろ」
ネモは、怒鳴るでもなく、淡々と指示する。
言うとおりにしないと、殴りつけられるかもしれない。
兄の下で、そうやって育ってきた私は、ここでもその恐怖から、なんとか、必死に剣を構えようとした。
だが、刃が持ち上がらない。
しばらく、声を上げながら、柄を引っ張り続けていたが、結局は持ち上がらず、剣を落として、その場にへたり込んだ。
「……持てないか」
寄ってきて、剣を拾い上げるネモ。
肩で息をしている私に、向ける目は無表情で、感情は読めない。
「私……やっぱり、戦うなんて向いてないよね……?」
恐る恐る尋ねる。
怒っているのか、呆れているのか。
どうせ、私にこんなことをやらせても意味などない。
始めからわかっていたことだ。
とにかくこの苦行から、早く解放されたいと、思った。
「それ以前の問題だ。剣が振れなければ、何も見られない」
落胆するでもなく、怒るでもなく、やはり淡々とネモは言った。
こいつを使ってみろ、と少し短めの剣を渡された。
「このショートソードなら持てるだろう」
元々最初の剣を、お前の細腕でまともに扱えるとは思っていない、と彼は言う。
「訓練では、実戦よりも重い剣で体を慣らす。だが、流石に持つことさえできない剣では、訓練にならん」
渡されたショートソードは、それでも、私には重かった。
なんとか、切っ先を胸の高さまで持ち上げた。
姿勢を維持するだけで辛い。腕が振るえている。
「振ってみろ」
振れるわけがない、持っているだけで辛いのだ。
だが彼は、振ってみろ、と今度は睨みながら、もう一度言った。
必死に剣を頭の高さまで持ち上げ、ぎこちない動作で振り下ろす。
2回、3回、と振ったところで遂に剣を落とし、へたり込んだ。
「お前に足りないのは、筋力と体力だ。まずは、その剣を楽に振れるようになることだ」
ネモのその言葉には、呆れも怒りもない。
早々に見限られると思っていた、いや、見限られて楽になりたいと思っていた私にとって、その言葉は意外だった。
こうしてこの日より、私の訓練の日々は始まった。
それから、一週間ほど経っただろうか?
城の中庭の隅で、私はネモに言われるまま、素振りをしていた。
振っているのは、あの時のショートソードより、さらに短い短剣だった。
慣れたら、元の剣に戻すと言われている。
訓練が始まったあの日から、実戦での戦い方などは、一切教わっていない。
ただ素振りと、走り込みと、筋力鍛錬だけが続く日々だった。
始めのうちは、疲れてすぐ休もうとする私を、ネモは叱りつけた。
毎日へとへとになるまで、訓練は続く。
常に見張られ、勝手に休むことは許されない。
いつも訓練が終わって部屋に戻ると、あったはずの明日への不安などは何もかも忘れて、ただ眠った。
訓練開始から数日が経過すると、私の方も少しずつ弱音も減り、勝手に休むこともなくなってきた。
そして昨日あたりから、ネモは訓練内容のみ告げて、しばしば席を外すようになった。
ずっと監視していなくても大丈夫だと、判断されたのだろう。
今日も同じように、日課の素振りをこなしていたのだったが、
「おい」
この日は、突然声をかけられた。
ネモの声ではなかった。
手を止めて振り返ると、皮鎧を身に着けた男が立っていた。
身長は兄と同じくらい、ここ魔王領では平均的な体つきの男だった。
「な、なんでしょう……?」
「お前、スーディの娘なんだってな? あの裏切り者の」
男の顔に浮かんでいたのは、嘲りの笑い。
昔、治安の悪い街の裏路地で、こういう顔をした少年たちに絡まれたことを思い出した。
「魔王様も身内には甘いよなあ。スーディの裏切りで、魔王様ご自身が負傷して、退却せざるをえなくなったのによ」
初めて聞く話だった。
父は、魔王領の人たちにも激しく恨まれているのだと感じた。
「お前も、そんなチンタラやってても訓練になんねえだろ? 俺が手伝ってやるよ」
言うなり、彼は腰の剣を引き抜いた。
それは訓練用の剣ではなく、真剣だった。
それを躊躇いなく、こちらに振り下ろす。
「ひっ!?」
私は持っていた短剣で、なんとかそれを弾いた。
後ろにのけぞった後、倒れないよう踏ん張る。
なんなの、この人!?
戸惑う私に、彼は容赦なく追い打ちをかけてきた。
2撃目も何とか弾く。
受け損なえば、怪我ではすまない。
だが相手は、そんなことは気にも留めていないようだった。
もしネモから訓練を受けていなければ、最初の一撃の時点でとっくに短剣を弾き飛ばされていたはずだったが、この時の私はそんなことには気づかなかった。
「おらおら、どうした? 反撃してみろよ!」
身を守るので精一杯なのだ。
反撃する余裕などあるはずがない。
攻撃を受け止めるたびに、腕が痺れ、追い詰められていく。
もう何度、それを受け止めたかわからない。
最後の一撃を受けて城壁に叩きつけられた私は、遂に短剣を落とし、その場に倒れこんだ。
「弱え、弱すぎんぞ!」
倒れたままでいると、今度は腹を蹴られた。
激しくむせ返ると、次は顔を踏んづけられた。
「立てよ! 寝るのは早えぞ! おい」
そんな風にされたら、立ちたくても立ち上がれない。
苦しむ私の顔を、彼は何度も踏みつけた。
殺すつもりはないのだろう。
この人は、ただ私をいたぶって楽しんでいる。
私は踏みつけられながら、兄の暴力に耐えていた日々を思い出してしまっていた。
あの暴力から逃れて1年以上が経っている。
無縁でいたかったあの場所に、結局戻ってきてしまった。
ここ魔王領にも、私の居場所なんてなかった。
どこにいてもこんな目に遭うのなら、どうせ逃れられないのなら、もういっそ、殺してほしいと、そう思った。
「何をしている!」
声のした方を見ると、ネモが立っていた。
男の方もそれに気づいて、そちらを振り向く。
「なんだよ、そんな睨むなよネモ。ちょっと新入りに、魔王軍の流儀を教えてやってただけだぜ、俺は」
言いながら、彼は足を退けた。
「新人いびりが魔王軍の流儀か? 魔王様には、とても聞かせられないな、ルンフェス」
「裏切り者がどういう目に遭うか、教えてやってただけだろうが!」
ルンフェスと呼ばれた男は、平然と言い返した。
「ネモ、これでも、お前には同情してんだぜ? 自分の親の仇の娘を、面倒見ろなんてよ。魔王様も酷えよな」
親の仇? どういうことだろう?
ルンフェスは、今度は私に向き直って言った。
「知ってるか? お前の親父、スーディが裏切った時、ネモの親は魔王様の護衛隊長だったんだぜ? その時、スーディに殺されたんだよ」
気の毒になあ、と彼は続けた。
「しかもあの時、魔王様が負傷したのは、こいつの親父が不甲斐なかったせいだ、とそんなことを言う心無い奴まで出てきてなあ。死屍に鞭打つって奴か?」
私は、少なからず、衝撃を受けていた。
ルンフェスが言ったことが事実なら、私はネモに恨まれても仕方ない。
ここでは、一番身近にいる相手からも疎まれている。
それでは、ここに私の居場所など、あるはずがない。
「ネモ、本当はお前も、こいつを殺したいんだろ? 代わりに俺が、手を汚してやってんだよ」
言いながら、彼は私の肩を蹴った。
「魔王様は、そいつを鍛えることを望んでいる。もし殺せば、お前が罰を受けることになるぞ」
ネモはあくまで冷静に、そう返した。
この人には、そんなに魔王の命令が大事なのだろうか?
憎い相手に無理して向き合わなければ、いけないほどに。
「クールだな、ネモよお……。お前、あんまり調子に乗ってんじゃねえぞ」
それまで、人を小馬鹿にするように喋っていた、ルンフェスの口調が変わった。
「お前が面倒を見た連中が、偶然手柄を立てただけのくせに、勘違いしてんじゃねえよ」
彼が本当に気に入らなかったのは、ネモだった。
私のことなど、実際はどうでも良いのだろう。
この時、初めて気づく。
「その通りだな。あいつらの手柄は、あいつらの努力によるものだ。俺の手柄じゃない」
「スカしてんじゃねえよ! お前自身は弱っちいくせにな!」
ルンフェスは、剣の切っ先をネモに向けた。
「抜けよ。俺が身の程を教えてやる」
だが、ネモは剣を抜かない。
「魔王領内での私闘は禁じられている」
気が付けば城内の兵士数人が、何事か、と様子を見ていた。
ルンフェスも、それに気づいて舌打ちすると、剣を収めた。
「腰抜けが、命拾いしたな」
最後にそう言い捨てて、城内へと消えていった。
「立てるか?」
倒れている私に、ネモがそう声をかけてきた。
「……うん」
答えて、ゆっくり体を起こす。
立ち上がる時に、彼は手を貸してくれた。
「その様子なら、歩けるな? 付いてこい、手当てしてやる」
その言葉が思いのほか優しかったので、私は少し面食らった。
ネモは、私を恨んでいるの?
聞きたくて、でも結局聞けないまま、手当ては終わった。
「手当てが済んだら、訓練を再開するぞ」
あんな目に遭ったのに、今日はもう休んでいい、とは言ってくれなかった。
優しさを感じたのは僅かの間だけ、彼はどこまでも厳しい。
やはり、私は恨まれているのかもしれない。そう思った。
実際は、彼は職務と私怨を混同するような人ではないのだが、この時の私はまだそれを知らなかった。
その日も、後に続く訓練は厳しく、疲れ果てた私は、悩むことも忘れて眠りについた。
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