第39話

 翌日。


「—————————」ず〜ん


 彼崎桂は出勤早々死んでいた。


「お疲れ桂。どうしたの?昨日は玲ちゃんの大学に行って可愛い女子大生たちとチヤホヤされて来たんでしょ?」

「浮かれているように見えます?」


 咲さんが資料を片手に僕のデスクに立ち寄り声を掛けてきた。僕はデスクに顔を伏せたまま咲さんの問いかけに答える。


「……。その様子だといろいろ大変だったみたいね」


 見えないけど咲さんが苦笑いしてることはなんとなくわかる。


「ま、なにがあったかはお昼の時にでも理乃ちゃんと一緒に聞かせてもらうとして。死んでないでちゃんと仕事してよ?」

「……了解です」


 重たい屍をなんとか起こしてキーボードを打ち始める。

 横目に社員連中が置き去った無造作に積み上げられた資料の山積みが映る。


「……っ。ちゃっちゃっと終わらせよう」


 さあ、今日からいつもの仕事に明け暮れる毎日にただいまだ。


「(ん? この資料、2年前の古いヤツじゃないか。これ用意した奴、ちゃんと確認せずに適当に持ってきたな?)」


 古い資料で間違った書類を提出すると後で怒られて作り直されるから、気づいた時はこっちが資料を収集し直さないといけないんだよな。


「はあ……。仕方がない。めんどくさいけど、資料室まで取りいくか」


 重い腰を上げて資料室に向かいドアを開けると、室内にはすでに先客がいた。


「桂先輩っ!」

「お!理乃さんじゃないか。お疲れ様」

「お疲れ様です。桂先輩も資料を探しに?」

「まあね。そういう理乃さんも?」

「はい。今度の会議に使う書類作成の資料を」

「そっか」


 軽い会話をしたのちに僕らは互いに資料探しに戻る。


 目的の資料を見つけ部屋を後にしようとした時だった。


「ん〜〜〜〜!ん〜〜〜〜!」

「ん?」


 声がする方に向かうと理乃さんが高い棚にある資料を取ろうと精一杯背伸びをして腕を伸ばしていた。


「…………(またなんとベタな)」


 理乃さんの背後に寄り、彼女が取ろうとしていた資料を手に取る。


「よっと」

「!!?」


 取った資料を理乃さんに手渡す。


「はい。これが欲しかったんだよね?」

「あっ…え、えと…すみません。ありがとう…ございます……っ!」

「どういたしまして」


 桂から資料を受け取り顔を真っ赤にする理乃。


「それじゃあ先に戻ってるね」


 と言い残し資料室を出ようとしたその時だった。


「ガチャ」


 ドアが開いたかと思うと、部屋に男女2人が駆け込むように室内に入ってきた。

 そして反射的に僕と理乃さんは逃げるように室内奥の2人がようやく入る小さいスペースに隠れしまった。

 体を寄せて隠れたことで、僕が壁側に沿って理乃さんが僕に背中を密着した体勢になった。


「(つい桂先輩と隠れちゃったっ!!!しかも桂先輩とこんなにくっ付いて!!!)」

「(思わず理乃さんと隠れてしまった……。どうしよう。出ていくタイミングを完全に見失った!どうする!?)」


 室内に入ってきた男女の話し声が耳に入る。


「ねえ。こんなところでするの〜ぉ?」

「ここしかなかったんだよ」


 おい?おいちょっと待て?

 あの二人、なにしようとしてる???


 こんな薄暗い資料室で男女二人が密着してすることっていえば……


「チュ……、んっ……チュ」


「(おっぱじめやがったぁぁぁぁぁぁぁああああああ!!!!????)」


 おいおいおい嘘だろ嘘だろ!?冗談だろ!?

 接吻し始めたぞあの男女!いやカップルか。

 マジか!マジなのか!?

 すごい。まるで海外ドラマのラブシーンみたいだ。


「(まさか自分の会社で目の当たりするとは……)」


 ——————はっ!関心してる場合か!

 そうだ、理乃さんにこの光景は刺激が強過ぎる!

 テレビでたまたま放送されている洋画で突然のラブシーンでドキドキするが、これは流石に別物だ!

 しかも相手の男女は何度も顔を合わせる同じ会社の社員だ!理乃さんに見せてはいかん!

 理乃さんに目の前の光景を見ないよう注意しようと彼女に視線を向けると


「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!!!!!」


 理乃さんは声を出さまいと両手で口元を抑え目の前の光景をガン見していた。


「(すでに手遅れだったぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!)」


 彼女は微動だにせず耳を真っ赤にしながら只々目の前の男女の濃厚な抱擁と接吻を目の当たりしている。

 背後からでは彼女の表情は確認できない。一体、彼女はどのような表情でこのディープな光景を見つめているのだろうか。


「(嘘……っ。あれって同じ部署の岡田さんと西本さんっ!?あの二人ってそういう関係だったの! わぁ……、あんな——————)」


 きっと理乃さんは動揺しているはずだ。

 見たくないけど一度見てしまったらもう目を逸らせないだろう。


「(どうするどうする!? 早くなんとかしないと!このままだと理乃さんに変なトラウマを植え付けてしまう!何か手を打たなくては!!)」


 僕は咄嗟に理乃さんの両腕を掴んだ。


「(理乃さんゴメン!)」

「(ふぇっ!? け、桂先輩!?)」


 彼女の体を180度回転させて僕の正面を向けさせる。


「!!!!!!(え、え!? け、桂先輩? 一体なにを??)」

「(よし。まずは視界は遮った。あとは—————)」


 更に両手で彼女の両耳を塞いだ。


「(これで理乃さんに二人の接吻を聞かせずに済む。辛い思いをするのは僕だけで十分だ!)」

「………………っ」


 向こうの二人はこちらの事もお構いなしに尚も互いに愛を囁きながら抱擁と接吻を繰り返す。


「(ささっと終わってくれぇぇぇぇ!!!!!)」


 ギュ


「ん?」


 感覚で彼女が僕の白シャツを軽く握っているのがわかる。

 理乃さんも早く終わってほしいと思っているのだろう。この部屋を一刻も出たい筈だ。僕もそうだ。だが、今はそのタイミングが図れない。

 あの二人が満足するまでこの状態からは脱せられない。とんだ災難だ。


 だけどもし、僕が資料を取りに此処に来なかったらこの光景を理乃さんだけが見ることになっていたかもしれなかったのだ。そう考えると、僕が此処に来て理乃さんの視界と耳を塞いで彼女の精神的ショックを軽減させたのは不幸中の幸いといえるだろう。古い資料を持ってきた奴に感謝だな。


「ンチュ……ねえ。そろそろ行かないと。怪しまれちゃう……」

「そうだな。それじゃあ、続きは後で……」

「続くのぉ?」

「いや?」

「ううんっ♪」


 二人は資料室を去っていった。


「ごめん理乃さん!勝手に触って!」


 僕は理乃さんの耳から手を離した。

 緊急だからといって女の子の身体に安易に許可もなしに触れてしまった。

 理乃さんはカップルが去ったのにも関わらず、掴んでいるシャツから手を離さず俯いたままだ。


「い、いえ……。私のため、なんですよね……っ」


 しばらくの沈黙の後に理乃さんは掴んだシャツから手を離し一歩後ろに下がると、資料を抱えてこちらに目も合わせずに「失礼します!」と頭を下げて逃げるように資料室を出ていった。


「理乃さん!!」


 引き止められなかった。

 これ、完全に嫌われたよね。後輩に嫌われちゃったよね!


「やってしまった……」



 お昼時間。

 休憩室にて。


「それでどうだったの?玲ちゃんの大学は?やっぱり可愛い子いた?」

「そうですね。いましたね……」


 咲さんのからかい混じりの質問に僕は正気が抜けたかのように当たり障りのない返事を返す。


「え、なに、どうしたの?」


 咲さんが不思議そうにしてる中、僕とテーブルを挟んで座っている理乃さんとの間に気まずい空気が充満していた。


「……………」

「……………」


 ふと互いに顔を上げて目が合うと、あの時の資料室の出来事が鮮明にフラッシュバックして顔を赤め顔を逸らし合ってしまう。


「「——————っ!」」


「ん? 二人ともどうしたの?なんかあった?」

「い、いえ。なにも……」

「はい……。なんでもありません」

「ん〜???」ぱく


 この時の昼食時間はいつものお昼時間よりもとても長く感じた。


 休憩時間が終わった後も、僕と理乃さんは目が合う度に逸らし、声を掛けるのも躊躇ってしまっていた。

 僕と理乃さんの様子に勘付いたのか、仕事中に咲さんに呼び出された。


「桂」

「はい。なんでしょうか?」

「ちょっと来て」


 オフィスの廊下の端に連れてこられる。


「なにがあったのか説明してくれる?」

「なにがでしょうか」

「とぼけないで。理乃ちゃんとなにがあったの?二人って喧嘩なんてするような仲じゃないでしょ」

「喧嘩ではないです!」

「ならなに?」

「えと……、それはその……」

「私には言いずらいこと?」

「少々デリケートなことでして」

「セクハラなことでも言った?」

「言ってませんよ!」

「じゃあなに?」


 咲さんは腕組みをして僕を問いただす。僕が答えるまで帰してはくれなさそうだ。

 だけど、これは非常にセクシャル的デリケートな個人情報。たとえ咲さんであってもこれは言えない。言っちゃいけない。


「すみません。言えません」

「どうして?」

「すみません。言えない理由も、言えません」


 肩を竦める咲さん。


「ふん……っ。もしかしなくても、理乃ちゃんから事情を聞いてもダメなんだ?」

「ダメです。理乃さんの為にも言うことはできません!」

「!!」


 桂の揺るがない真剣な顔に少し驚く咲。そしてしばらくの考えたのちに咲は諦めたかの様にゆっくりと口を開く。


「……そう。わかった。理乃ちゃんのために言えないってことね?」

「はい」

「はあぁ……。わかった。じゃあもうなにも訊かない」

「ありがとうございます。すみません」

「いいのいいの。よっぽどの事情があるんでしょ?」

「はい」

「なら、それでいい。桂はたとえ私相手だろうと人の秘密とか隠したい事を平気で喋るようなヤツじゃないしね」

「咲さん……」

「もういいよ。自分のデクスに戻って」

「はい。失礼します」


 僕は咲さんに深く頭を下げてデスクに戻った。



                ❇︎



「ひと休憩するか……」


 仕事をある程度のところで切り上げ、僕は自販機が並んでいる休憩スペースでいつもの様に一息ついていると


「あ」

「あ」


 理乃さんが休憩スペースに入ってきた。

 すぐにが脳裏を過ぎる。

 僕は何事も無かったかのように平然を装い彼女に声を掛けた。


「お、お疲れ様……」

「お疲れ様です……」

「…………」

「…………」


 気まずい!!

 理乃さんは自販機で飲み物を買うと僕から距離を置いて壁側のベンチに座り缶蓋に手をかけずにジッとしている。


「(やっぱり嫌われたかな?でも、普通嫌っている相手なら同じ場所に居たくない筈。なんでわざわざ離れた位置に座ってまでしてここに?どうする?ここは気を遣って僕がこの場を離れた方がいいのかな?)」


 遠くのベンチに座る理乃さんは何かを言いたそうな思い詰めた表情だった。

 彼女にどう声を掛けるべきかどうか悩んでいると、なんと彼女の方から勇気を振り絞るように自分に声を掛けてきたのだ。


「あ、あの!」

「へ? あ、はい!」


 よもやよもや、彼女方から声を掛けてくるなんて思わなかった。もう2度と口を聞いてもらえないかと思っていた。

 予想もしないことに驚いておもわず缶コーヒー落としそうになった。


「ごめんなさい。私、逃げるようにあの場を出て行って……」

「いや、あれは僕が勝手なことをした所為で理乃さんはなにも非はないよ!」

「むしろ御礼を言うべきだったのに……私、あの時気持ちが動揺して」

「あんな光景を見たら誰だってそうなるさ」


 本来は「見るべきではないもの」だった。あれは事故だ。

 当事者以外誰しも知り得ない〝男女の秘密〟を不可抗力の事故だとしても盗み見てしまった。それが彼女にとっては衝撃的でショックだった。

 恋愛経験の乏しい彼女にとっては意識してしまうのは当然だ。


 理乃さんはゆっくりと俯いた顔を上げて緩い和やかな表情を僕に向けた。


「桂先輩は私があれ以上あの光景を見聞きしないようにんですよね?」

「うん。まあ……」

「ありがとう、ございます。……んふ」


 よかった。嫌われてはなかったようだ。安心した。


「……咲さんに訊かれたよ。僕らのこと」

「え?」

「僕と理乃さんの様子がおかしいことに気付いてね」

「そうだったんですか……」

「なにも答えなかった」

「え!? どうして……」

「たとえ信頼できる咲さんであっても、コレは言えない。いや、そう安易に人に話しちゃいけないことだ。あくまでもコレは個人のプライベートに関わることだ」

「桂先輩……」

「咲さんも分かってくれたよ」


 理乃さんの頬が緩む。


「そう、だったんですね……」

「だから、このことは僕らの胸にそっと閉まっておこう」

「そうですね。————んふ。私と桂先輩だけの内緒ですね」


 そう言って人差し指を口の前に立てて可笑そうに微笑む彼女。


「それと理乃さん」

「はい?」

「気持ちが落ち着くまでの間は資料室に取りに行きたい時は僕を頼ってほしい」

「桂先輩……」

「今日だけでも、あそこに行くのは躊躇うというか、意識しちゃうでしょ?」


 彼女も最初は遠慮していたが、少しの間を置いて上目遣いで僕に問いかける。


「でも私のためにそんな!————————っ。いいん、ですか?」

「もちろん!」

「っ! んふ。ありがとうございます」


 彼女は穏やかに笑顔を見せた。


「でも————」

「ん?」


「あの瞬間《とき》、ほんのちょっとだけ、嫌じゃ……なかったんですっ」


「それってどういう————」

「あっ! 私そろそろ戻らないと! それじゃあ桂先輩またっっ!」


 彼女は早歩きで顔を真っ赤にしながら手を振って去っていった。


「え、あ、うん。お疲れさま!……なんだったんだ?今の?」


 そのころ理乃は頬に手を当てながら


「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!(私なに言ってるんだろぉぉぉぉぉ!!!??)」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る