第32話 人の世界にて


「――アリオンには、『人界回帰』という教えがあってね」


 アニラに缶飲料を差し入れされ、それを手のなかで転がすことしばし。

 エステラはふと、故郷の教えについて話しだした。


「昨日話した通り、僕らは魔界にいた。天地は穢れ、おぞましい魔族が支配する、人外魔境の世界だ。そんな場所で生きてきた僕らにとって、人の世界――『人界』こそが理想郷だったんだ」

「人界? それは天国みたいなとこなの?」


 隣に座って話を聞いていたアニラは、首をかしげて尋ねる。


「天国とはまた別の世界さ。ヴィストニアではどうか知らないけど、アリオンだとその二つははっきり区別されてるんだ。天国が神の楽園なら、人界は人の楽園なんだ」

「人の楽園……」

「そう。魔族がいないから怯えることもない、人の世界だから手を取り合える。そんな楽園が存在するはずだって……そう信じて戦ってきた。でも、この国は違った」


 エステラは厳しい目つきをして、缶飲料を握る。


「人の世界であるはずのファルデンでは、人間こそが最大の敵だった。同じ種族で争い、奪い、支配する。そんな業に満ちた世界が、人の世だというじゃないか。到底認めたくはないけど、でももしこれが人界の理だというのなら、それは………あまりに無残だ」


 そう言って彼女は目をひそめ、唇を真一文字に結ぶ。

 世の理不尽を糾弾するその言葉は、怒りというよりはやはり哀しみの色を帯びていた。ちょうど、独房で話した時のように。

 そしてエステラは一つ息を吸って吐くと、苦しげな顔で告げる。


「だからアニラ……僕にはやはり、この国を受け入れられそうにない」

「エステラさん……」

「君の厚意を無下にはしたくない。けど、ファルデンの在り方を認めてしまえば、それはアリオンの教理を否定することに繋がる。僕らや祖先が何代にもわたって信じ求めた理想が、所詮夢物語でしかなかったということになってしまう。……アリオンの民として、そこだけは譲れないんだ」


 当初アニラは、「互いに理解し合えば不和も解消される」と考えていた。

 しかし現実はそれほど単純ではなかった。

 他者への理解を深めることはつまり、互いの差異や溝を明確にする行為でもあったのだ。


 ファルデンはエステラの言う「人の世界」であるにも関わらず、アリオンの理想とは対照的な在り方を示した。

 これを認めることはすなわち、彼女の属する世界観――教理や価値観――を否定することになりかねないのだ。

 世界と世界の狭間で苦悩するエステラを通して、アニラは一つの理解を得る。


(そっか、そうだよね……アリオンは神様と宗教の国だもんね。教えを大事にするのは、当たり前だよね)

(教えから外れた世界の在り方があると知れば、ショックだよね……)


 教理に殉じる者にとって、理想の否定とはすなわち、自身の存在基盤を揺るがすことに他ならない。

 楽園を信じる者が恐れる最悪の事態とは、楽園に行けないことでも、ましてや地獄に落ちることでもない。

「楽園の不在」――それこそが彼らにとっては、地獄をも超える恐怖なのだ。


 ゆえに、異なる世界観を前にしたエステラは今、カルチャーショックのより深刻な形――信仰危機フェイスクライシスに陥りかけている。

 そしてそれを回避するために、彼女は融和よりも自国の教理を優先しなくてはならないのだった。

 負い目からか目を伏せるエステラを見て、アニラは自問する。


(どうすればいいんだろう……?)


 戦争を否定したアリオンと、戦争を肯定してきたファルデン。

 相反する世界観を持つ両者を繋ぎとめるという難題。

 これを解決する糸口を見つけるべく、アニラは思考を重ねる。


(もっともっとファルデンの良さを知ってもらう、とか?)

(……ううん、ダメだよ。私だってそんなに詳しくないし、それに本質からずれてる気がする)

(じゃあ、「戦争は仕方のないことなんだよ」って説得するのは?)

(……そんなことしたくない。私も戦争は恐いし、それが正しいとは思えないもん)


 ああでもない、こうでもないと頭を抱えるアニラだったが、ひとしきり悩み終えると、顔をぱっと上げる。


(うん、やっぱり頭で考えても仕方ないや!)

(相手に妥協してもらうのを期待するような、そんな大人の真似っこじゃエステラさんの心には響かないもん!)

(今の私にできることは一つだけ。自分の気持ちを言葉にする……それだけだよ!)


 自分の中で納得いく答えを出せたのか、アニラは「よしっ」とうなずく。

 そして一つ深呼吸をすると、隣の少女にこう語りかけた。


「エステラさん、私ね……『在り方』って一つじゃないと思うんだ」


 お腹のあたりでそっと手を重ねながら、アニラは言う。


「生きた世界が違えば、いろんなことが変わるはずなの。歴史に文化、言葉や考え方なんかも。世界の数だけ在り方があって……そこにはきっと、絶対的な正解なんてないんじゃないかな」

「だからファルデンを認めろって?」


 黄水晶シトリンの瞳がアニラに向けられる。


「国を挙げて戦争を肯定するような、そんな人殺しの世界を?」

「ううん、そうじゃないの」


 アニラはエステラの目をまっすぐ見て、言葉を紡ぐ。


「許せなくてもいいの。受け入れられなくてもいいの。ただ『在り方が違う』って理由だけで全てを否定しちゃわないで。世界と向き合うことを諦めないで」


 アニラは立ち上がり、エステラに訴えかける。


「『大転移』をきっかけにして私たちは出会った。世界が繋がった。それぞれの世界がどんな関係を結んで、なにが起きるか……未来の形は、私たちの決断一つ一つにかかってるんだから。だってね」


 アニラは一度言葉を区切り、深呼吸をする。

 そして少女は意を決し、口を開く。


「さっき、ファルデンが人殺しの国だって言ったけど、それね……実はヴィストニアもなんだ」


 アニラの言葉に、エステラは驚きの色を見せる。

 目の前の少女に嫌われ、軽蔑されることも覚悟して、アニラは言葉を重ねていく。


「私の国もね、千年前まではたくさん戦争してたの。昔の魔導士は探求者じゃなく人間兵器として扱われてて、魔導の本質は『いかに多くの敵を倒せるか』にあったんだって……。外国はもちろん、ヴィストニアでもたくさんの人が命を落としたって、そう教わった」

「ヴィストニアまで………人の世では、それが当たり前のことなの……?」

「当たり前ってことはないだろうけど……人間だからさ。どうしても過ちを犯しちゃうんだよ……」


 でもそれが全てじゃないんだよ、と言ってアニラは続ける。


「ある時を境に、ヴィストニアから戦争がなくなったの。大きな内乱が起きたのを最後に、以降千年も平和の時代が続いたんだよ。これってたぶん、誰かがヴィストニアの在り方を変えたからなんじゃないかな?」


 アニラは目を閉じると胸の前で手を重ねて、祈るように語る。


「世界を変えたい、幸せな未来を残したい……そう願った人たちが行動したから、今の世界がある。いつか誰かの希望が、未来の世界を形作る――世界の仕組みってそういうものだと、私は思うんだ」

「……世界の行く末は、僕たちの振る舞いで左右されかねない……そういうこと?」

「うん、世界の形は私たち次第。世界にどんな未来を残すかは、今ここにいる私たちが決めることなの。世界から背を向けちゃいけないの」


 そうしてアニラは、エステラに問いかける。


「だから教えてエステラさん。あなたが望む世界は、どんな形?」

「……それは―――」


 答えを探るようにしてエステラが呟いた、その時。

 少女を呼ぶ声がロビーに響いた。


「フルルータ嬢!」


 反応して見てみればそこには、早足で駆け寄るセオの姿があった。

 ただ事ではない様子の彼に、アニラたちの心がざわつく。


「ローウェルさん? なにかあったんですか?」


 二人の傍で立ち止まると彼は二人の無事を確認し、端的に要件を伝える。


「危険が迫っています。ただちに避難を――」


 だが、彼の言葉は続かない。

 空気を突き破るような破裂音が、その場からすべての音を奪ったからだ。

 階下からはさらなる破裂音と、そして悲鳴が響く。


(え、え――――?)


 少女の手元から落ちる缶飲料。

 突然の出来事に、アニラの身体は痺れ、すくんでしまう。

 エステラもまたなにかを感じたのか、ソファーから立ち上がり身構える。

 そんな二人の手を取って、セオが走り出す。


「――こっちへ」

「あの、今、なにが……?」


 事態を飲み込めないアニラの質問に、セオは短く答える。


「テロだ。ここは戦場になる」


 少女たちに、過酷な試練が迫ろうとしていた。





―――――――――――――――――――――――――――


作者より



お待たせしました!

予想外の難産でしたが、なんとか七月中に更新できました!


次回第33話更新は、もう少しお時間を下さい

目の前のことをやるのに手いっぱいで、なかなか筆を取れていない状況でして……

物語の続きのアイデアや、キャラ・ガジェットなどは順調に構想できているので、いずれお見せできればと思います……!


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