第6話 大転移の爪痕


 異世界に心躍らせる少女がいる一方、憂いに沈む人々もいた。


 鼻腔くすぐる清涼な潮風。

 陽光にきらめく大海。

 港に帆を張る数多の漁船と、白亜の家屋。


 異世界の調査に飛び出したアニラは、首都ルーノンの西にある港町アトールに来ていた。

 アトールは水産業で栄えた街で、市場にはいつだってにぎわいの声が響いた。


 しかし、今アトールにその活気は感じ取れない。

 市場は開かれず、普段は陽気な住民たちもどこか暗い。

 アトールの街全体を不穏の影が覆う。


 海を渡る前の腹ごしらえをするべく、アニラはとある魚料理店に立ち寄る。

 木造二階建てのその店はカウンター席の正面がそのまま調理場となっており、時には魚の解体ショーも披露する。

 観光客に人気なその店も今だけは客がまばらで、聞こえる話し声もわずかだ。


 カウンターを挟んで調理する女店主に、アニラは聞き込みをする。


「なんだか街全体が暗いですね。例の異変からなにかあったのですか?」

「あったとも、大いにね」


 茶色の髪を後ろで一結びにした店主は、魚を捌く手を止めずに『大転移』後の港町について語る。


「もしかしたら、この街は終わりかもしれんねぇ。なにせ陸地から向こう、海の方はなんもかも変わっちまったんだから」

「西の大陸のことですか?」


 対策会議の報告をアニラは思い出す。


「もとあったのとは別の陸地が見えるっていう」


 どんぶりにライスをよそう店主は溜め息をこぼす。


「それもだけどね……ここで重要なのは海の方さ」

「海……そっか」


 一瞬の思考を挟み、アニラは気づく。


「生息する魚も変わったんですね?」


 当然の話だった。

 対策会議にて魔導士たちが出した結論通りならここは異世界で、なおかつ海もまた別物にすり替わっているはずなのだ。


「嬢ちゃんの言う通りさ。今海で獲れるのは見たこともない種類ばかり……」


 店主は包丁の腹に魚の切り身を乗せ、ライスに盛り付けていく。


「漁業に支えられたアトールにとっちゃ大問題さ。なにせ食えるかも分かんねーんだから」

「それはたしかに、深刻ですね……」


 異世界に転移したことを前向きにとらえていたアニラとは裏腹に、港町の人間にとっては死活問題であった。


(きっと、他にも困ってる人が大勢いるんだろうな……)


 ヴィストニアはこれから先、異世界の環境との折り合いに苦労するだろうと、アニラは予感する。


「他にも、あの異変の前に海へ出てったやつらが帰ってきてないしねぇ。いったいなにが起きてるんだか」

「そうなんですか?」


 これもまたアニラには初耳であった。


「ああ、そん時は海が荒れてたんで出てたのも数隻だったんだけど……どうなっちまったのやら」


(『大転移』に取り残された人たちがいたんだ。その人たちは、今も元の世界に?)


 元の世界では逆にヴィストニアがまるごと消失してしまっているはずだ。

 向こうは向こうで大騒ぎになっているだろうと、アニラは遠い故郷を想う。

 そんな具合に思案していると、彼女の前に注文の料理が置かれる。


「ヘイお待ち! 当店自慢、贅沢七種の海鮮丼だ!」


 赤、ピンク、白の切り身がたっぷりと盛られた海鮮丼だ。

 ライスの上に海鮮七種を乗せ、そこに秘伝のタレをかけたこの逸品は店の名物料理として知られている。


「わぁ、いただきまーす!」


 フォークを手にアニラは食事に取り掛かる。

 ぷりぷりの切り身と、甘辛いタレがたまらない。


「元からある魚もいつかは尽きるからね、大事に食いなよ!」

「ふぁーい」


 アニラは口に飯を含んだまま返事する。

 そんな少女をほほえましく見守りながら、今度は女店主が尋ねる。


「嬢ちゃんは恰好からして、魔導士なんだろ?」


 アニラの羽織るローブと、横に置かれたとんがり帽子を指す。


「はい、魔導士のアニラ・リア・フルルータといいます」

「一つ星! 若いのにすごいねぇ」


 その称賛に気をよくしたアニラは「ふふんっ」と胸を張る。


「そーなんです、私って実はすごいんです!」

「いいねぇ、私なんかは魔導適正がないからさ……」


 齢三十を過ぎた女店主は遠い目をする。


「昔はあこがれたもんだよ」


 マナを知覚する素質、魔導適正。

 これがなければ魔導士になることはできず、そして魔導適正の有無は生まれつき決まっている。

 ヴィストニアではおよそ半数の国民が非適正者とされており、女店主もその一人であった。


「アニラちゃん……いや失礼、フルルータ嬢だね」

「いえアニラで構いませんよー」

「ならアニラちゃん……ここが異世界だってのは本当かい?」


『大転移』によってヴィストニアが国ごと異世界に転移した、という仮説はまだ公布されていない。

 これ以上の混乱を避けるための措置だったが、すでに噂は流れてしまっているようだ。


 少女の逡巡はわずか。

 アニラは一人の魔導士として、それに頷く。


「はい、私たち魔導士はそう考えています」


 自分たちが異世界にいる。

 その突拍子もない事実に女店主は息をのみ、そして大きく溜め息をつく。


「異世界かぁ……驚くべきか呆れるべきか、迷っちゃうね」

「不安ですか?」

「そりゃね。外になにがいるかもわかったもんじゃないし」


 彼女の危惧は正しいといえた。

 天空に大地が浮かび、海を泳ぐ魚でさえ異なるこの異世界、どんな危険が跋扈していても不思議ではない。

『二人目の識魔導士』による内乱を除けば、およそ千年にわたってヴィストニアは戦争を経験していない。

 住民の恐怖と不安は着実に根を伸ばしていた。


「大丈夫ですよ」


 だが、アニラは断言する。

 顔を上げ、澄んだ瞳で正面を見据える。


「きっとこの世界との出会いは素敵なものです」


 あの浮遊大陸を目にしたときの感動と昂揚を、アニラは信じる。


「困難があるなら、私たちが乗り越えてみせます」


 かつて少女だったころ、魔導士にあこがれた女性にアニラは宣言する。


「人のため、夢を叶える――」


 アニラは杖を模した人差し指をまっすぐ伸ばし、それを自分の額から口、そして胸の順で触れさせる。

 それは魔導士の礼と誓いの作法。

 知恵持ち言葉操る者の、心からの敬意。


「それが、魔導士の使命ですから」


 若い少女が示した魔導士としての矜持に、女店主は微笑む。


「なら頼んだよ、小さな魔導士さん」

「……背はこれから伸びますもん」


 アニラはわずかにむっとする。

 身長の伸び悩みこそ彼女最大のコンプレックスなのだ。

 そんなアニラに女店主は笑って謝る。


「あはは、ごめんごめん……っと、ん?」

「お?」


 二人して背後の入り口へ振り向く。

 なにやら、店の外がにわかに騒がしくなったのだ。


(事件の予感!)


 直感に従い、アニラは急いで飯をかっ込んでいく。


「なにかあったのかね?」

「きっと、たぶん!」


 すさまじい勢いで海鮮丼をたいらげたアニラは代金をカウンターに置く。


「ごちそーさま! おいしかったです!」

「あいよ、気を付けるんだよ!」


 女店主の激励を背に受け、アニラは店を出ていく。

 弾む心を胸に、軽快な足取りで。


 ふと少女は、いち早く異世界へ旅立ったあの室長の言葉を思い出す。

 青く澄んだ異世界の空の下、アニラはそれを口ずさむ。


「世界が私を待っている……!」


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