第25話

二五


 日出生は翌日も、その翌日も、事務所に姿をあらわさなかった。自宅に何度電話を入れても、そのたびに呼び出し音が空しく鳴るだけだった。立ち寄りそうなところへ片端から電話したが、誰も行き先を知らなかった。

 三日目の夜になって、ふく子が自宅へ様子を見に行った。家の中には電気が点いておらず、いくら呼び鈴を鳴らしても誰も出ないと言う。薫子が電気のメーターを確かめるように言うと、ゆっくりと廻っていると報告していきた。

「何か、急な不幸でもあったんでしょうか?」

「それにしても、連絡ぐらいしてきても良さそうなものだけど」

 薫子たちが首をかしげている間に、一週間が経ってしまった。その間も『プリシャス・テンプテーション』の制作は進められたが、さすがに一週間も責任者が不在になると、いろいろと問題が生じてくる。やがて日出生の失踪は、ロイヤル・レコードの出船の耳にも届いた。

 出船は、薫子と左文字を呼び出した。

「日出生さん、どうしたの? 連絡がとれないんだけど」

「それが……」

 薫子は、韓国の一件を出船に話した。

「うーん。韓国で監禁されたのが、よっぽどショックだったのかねえ」

「それだけじゃなくて」

「他にも、何かあるの?」

「その一週間前に、社長、離婚したらしいんです」

「へえ、そうだったの」

「どうしたらいいでしょう?」

「聞きたいのは、こっちだよ。『プリシャス・テンプテーション』、どうするんだい? 途中でほったらかして」

「何とか、制作を続けさせてもらえないでしょうか」

 左文字が懇願した。

「そう言われてもねえ。製作者であるSGTが、こんな状態ではねえ」

「何とか、お願いします」

 頭を下げる左文字に、出船は結論を濁した。

「まあ、ちょっとウチでも考えてみるから。あんたたちも、何か方法を考えてよ」

「はあ」

 方法と言われても、どうすればいいのだろうか。方法は、何も思いつかなかった。


 だが、数日後に出船が出した結論は、製作打ち切りだった。『プリシャス・テンプテーション』もSGTも、命脈が尽きる時がやってきた。

 電話を受けた薫子は、その場にいたスタッフたちに、結論だけを簡潔に伝えた。

「製作、打ち切りだって」

 左文字、ふく子、加代子、遼太郎、出渕は一様にショックを受け、うなだれた。

「みんな、手分けして下請けさんに説明に行ってくれる?」

 そう指示し、自分もあすなろプロに向かった。

 良太たちを前に薫子は事情を説明した。

「というわけで、『プリシャス・テンプテーション』は製作打ち切りになりました。本当にごめんなさい」

 頭を下げる薫子に、良太たちは無言で顔を見合わせた。

「本当に、もうダメなんですか?」

 泣きそうな顔で見つめる良太の目を、薫子は正視できなかった。うつむき、小さな声で答えた。

「ごめんなさい。あたしには、どうすることもできないの」

 長くなった夕日が、ガラス窓を通して室内に明るく射し込んでいた。そのオレンジ色の日だまりの中で、四人の男と一人の女は、押し黙り、長い時間ずっと同じ姿勢で座り込んだままだった。

 薫子は、悔しかった。それは、こうした報告を良太たちにしなければならなかったことでも、日出生が失踪したことでもない。今まで携わってきた『プリシャス・テンプテーション』を途中で放り出さなければならないことが、たまらなく悔しかった。

 これまで自分は、アニメに対してそれほど深い思い入れがあるとは思っていなかった。実際、今でもあるとは思えないのだが、こうして製作打ち切りという現実を突き付けられると、悔しくててたまらないのだ。頭で考えれば、薫子に状況を変える力などないことは明白なのだが、心の奥深いところで、何か割り切れないものが残っている。SGTなんかいつでも辞めてやると思っていた薫子は、そんな感情が自分の中に湧き起こっていることに、ちょっとびっくりした。


 駅への戻り道を、薫子は自分の中の複雑な感情を整理できないまま歩いていた。ふと見ると、ほとんどの店がシャッターを降ろしているなかで、あの定食屋がまだ開いている。中を覗いてみると、他に客はいなかった。

「あら?」

 女店主が、薫子に気づいた。

「もう、終わりですか?」

「終わりなんだけど、有り物でよければ、何か食べる?」

「はい」

 薫子がカウンターに座ると、女店主はお茶漬けを作ってくれた。お茶ではなく出し汁がかかったそれは、空っぽの胃を優しく満たした。

「ああ、美味しかった。ごちそうさま」

「はい、お粗末さま」

「ねえ」

「はい?」

「この前のこと、考えてくれた?」

「え?」

「ほら、いっしょにこの定食屋、やろうって言ったこと」

「あ……」

 どうやら女店主は、本気だったようだ

「いつまでもアダルトビデオなんか、やってられないでしょ? 今日も撮影だったの?」

「あ、いえ、それが」

 薫子の表情が暗いことに、女店主は気がついた。

「何か、あったの?」

「それが、会社が潰れるみたいで」

「そうなの。それじゃ、よけいいいタイミングじゃない。やろうよ、いっしょに」

「でも……」

「でも?」

「何かこう、ここに引っ掛かっちゃってて」

 自分の胸に、薫子は手を当てた。

「やり残したことがあるの?」

「あるような、ないような」

「そう、それは」

 女店主は、顔をずいと薫子に近づけた。

「ちゃんとやっておいたほうがいいわね。どうせ最後なんだから、大股開いて派手に見せちゃいなさいよ」

「いや、だから、見せるとかそういうことでは」

「そのはじけ加減が、次につながるのよ」

「え?」

「私だって、夫との思い出がいっぱい詰まったあの店、売りたくなかったわ。だけど、思い切って売って、今は良かったと思ってるわよ。人生、思い切りも大切よ」

「はあ」

 女店主なりに励ましてくれたのだろうが、薫子には何をどう思い切ればいいのか、見当もつかなかった。頭の中に、いろいろなことがシャボン玉のように浮かんでは消え、また浮かんでは消えていった。感情も思考も、まったく整理がつかなかった。こんな日は、誰かに甘えたくなる。薫子は、無性に伊東に会いたくなった。駅前の公衆電話でSGTまで迎えに来てくれるように頼むと、伊東は二つ返事で承知した。


 SGTに戻ると、出かける前と同じメンバーが揃っていた。

「あれ、みんな。もう、下請けさんのところに行ってきたの?」

 左文字、ふく子、加代子、遼太郎、出渕がじっと薫子を見つめている。その視線の強さに、薫子はたじろいだ。左文字が一歩、進み出た。

「あれからみんなで相談したんだけど……」

 左文字の目は、真剣だった。

「薫子さん、SGTを引き継いでくれないかな」

「何それ? どういうこと?」

 薫子は、左文字の言うことが理解できなかった。

「薫子さんしか、いないんだ。SGTを引き継いで、『プリシャス・テンプテーション』を完成させられるのは。頼むよ」

 頭を下げる左文字に続いて、ふく子、加代子、遼太郎、出渕もいっせいに頭を下げた。唐突な依頼に、薫子は狼狽した。

「ちょっと待ってよ。そんなこと、できるわけないでしょ! あたしは経営なんかしたことないし、だいいち、あたしはアニメなんか……」

 好きじゃないと言おうとして、薫子は口ごもった。以前のように、アニメなんか好きじゃないと言下に否定することはできない。だが、だからといってSGTを引き継いでやるほどの覚悟もない。

 薫子は、左文字たちの顔を順番に見た。真剣な表情をたたえる左文字、いつものしらけた態度が見えないふく子、泣きベソをかきそうな加代子、捨てないでと哀願する子犬のような顔の遼太郎、そして微笑みながらうなずく出渕。薫子の脳裏に、さきほどの良太の泣きそうな顔が浮かんだ。

 感情に押しながされて思わず「やります」と言いそうになったが、すんでのところで理性が勝った。断わりの言葉が、口から出かかった。

「ごめん……」

「ごめんください」

 男の声が重なって、薫子の声をかき消した。ドアから顔をのぞかせたのは、伊東だった。

「亮介さん。どうしたの?」

「下で待ってたんだけど、あんまり遅いから」

「あ、ごめん。ちょっと取り込んじゃってて……」

「でも、もう会社はダメなんでしょ? 何をそんなに相談することがあるの?」

「それが……」

 薫子は、状況をかいつまんで説明した。それを聞くと伊東は、腹を立てた。

「なんで、アニメなんか好きでもない薫子さんに、そういうことを押し付けるかな」

 アニメなんかという言い方に、薫子は引っ掛かった。

「だいいち薫子さんは、俺と結婚するんだから」

 それを聞いた左文字が、突然大声を出した。

「ちょっと待ってくれ。そんなこと、誰が決めた!」

「誰がって、俺はもう、ご両親の承諾を得ているんだ」

「薫子さん、本当か?」

 左文字の顔が、朱く染まりつつある。

「え? えーと、それは、その」

 嘘ではなかった。だが、なぜ左文字がこれほど感情をむき出しするのかがわからなかった。

「薫子さん。じゃあ、あの新宿でのことは何だったんだ!」

「新宿?」

「新宿で、薫子さんが酔っぱらっておんぶして帰った時に、俺のことを好きだって……」

「へ?」

 薫子には、まったく覚えがなかった。

「薫子さん。それは、本当なのか?」

 伊東が薫子に詰め寄った。

「ち、違う。あたし、そんなこと言ってない」

「じゃ、何だってあんなことを言ったんだ」

 左文字も、薫子に詰め寄った。その様子を見た遼太郎が、間に割って入った。

「僕の薫子さんを、いじめるな!」

「僕の?」

 左文字と伊東が、顔を見合わせた。

「薫子さん、君はこいつともつきあっていたのか?」

「ち、違います! 遼太郎っ、何言ってんのよ! あたしはあんたのガールフレンドじゃないんだからねっ」

 その言葉にショックを受け、遼太郎は泣きながら事務所の外に駆け出していった。

「あ、ちょっと。遼太郎くんっ。待って!」

 ああもう、どうしてこうなるんだろう。薫子は、自分が泣きたい思いだった。

「左文字さん。新宿で何があったか覚えてないけど、それはたぶん、思い違いだから。ゴメンだけど」

「思い違い? だけど、俺のことを好きだって」

「ホントに、あたしがそう言ったの?」

「いや。正確には、後ろから抱きついて『りょう』って」

「それって、たぶん、『亮介さん』って言ったんだと思う」

「え……」

 左文字は、とても納得しがたいという顔をした。

「そうだろう、そうだろう。薫子さんが俺以外の男になびくわけがないんだ」

 自信ありげに、伊東がうなずいた。

「そうなのか」

 ひどくがっかりした様子で、左文字は肩を落とした。

「ごめんなさい。誤解させちゃって」

「まあ、それならそれで仕方がないけど。でも、SGTは引き継いでやってくれるよね?」

 そちらのほうだけでも引き受けてほしいと、左文字は食い下がった。

「それは……」

 煮え切らない様子の薫子に、伊東はまた腹を立てた。

「薫子さん。俺とアニメと、いったいどっちが大切なんだ?」

「ちょっと待ってよ。亮介さん」

「こんな潰れた会社、引き継ぐなんておかしいよ。たかがアニメじゃないか。そんなものが一本や二本完成しなかったからって、社会的にはぜんぜん影響がないよ」

 その一言で薫子は、自分の中でわだかまっていたものが何だったのかが、理解できた。

「亮介さん」

 薫子は、まっすぐに伊東の目を見つめた。その奥に込められた静かな怒りの深さに、伊東はたじろいだ。

「あたし、気がついたわ」

「そうだろ。アニメなんかやめて、早く結婚しよう」

「違うの」

「違うって?」

「あたし、アニメが好きなの。いや、そうじゃないな。アニメを作っている人たちの一途さが、好きなの」

「まだ言ってるのか。いい加減にしろよ」

「いい加減にしてほしいのは、あなただわ。亮介さん」

「え? 何のこと?」

「あたし、『プリシャス・テンプテーション』を完成させるわ。それが、みんなの思いだから」

「だからって、薫子さんがやる必要はないだろう?」

「みんなが、あたしに期待してるの。それに応えたいの」

「女一人に、何ができるっていうんだ」

 薫子の安全弁が、いくつか吹き飛んだ。

「何ができるか、これからご覧に入れるわ」

「薫子さん、目を覚ませよ」

「ようやく目が覚めたわ。あなたのおかげよ、亮介さん」

「なあ、薫子さん。もう夢見るお年頃でもないだろう? アニメづくりと結婚、どっちが現実として望ましいか、わからない年齢じゃあるまい」

 伊東は、じれたようにまくしたてた。

「あなたの欲しいのは奥さんであって、それは、あたしじゃなくてもいいんじゃないの?」

「え?」

「前に、奥さんと別れた理由を聞いたよね? あたし、その時は気がつかなかったけど、今、気がついたわ。あなた、独占欲が強すぎて、奥さんを外に出すのもイヤなんでしょ? 家に縛り付けて、愛情と称して自分の一方的な気持ちをぶつけたいだけなんでしょ?」

「なに言ってるんだっ それが愛ってもんだろうっ」

 伊東の顔が、だんだんどす黒く変色してきた。

「あたしの考える愛は、違うわ」

「どんなのが、愛だってんだよ」

「お互いの立場を尊重して、サポートしあうのが愛だと思うの」

「バカ言ってんじゃないよ。カネは、誰が稼いでくると思ってるんだ」

「妻だって、働けば稼げるわ」

「夫が外で稼いで、妻が家を守る。それが夫婦ってもんだ」

「それじゃあ、対等の夫婦じゃないじゃない」

「もともと夫婦が、対等であるわけないだろう」

 これ以上話しても、お互いが歩み寄ることはできないだろう。薫子は、対話を諦めた。

「あなたって、戦前に生まれていればよかったのにね」

「ちっ。少女趣味が」

「さよなら、亮介さん。いままで、ありがとう」

 伊東は顔を引きつらせながら薫子に背を向け、ドアをたたきつけるように閉めて出ていった。衝撃で、事務所全体が揺れたような気がした。階下から、トラックがエンジンを吹かして走り去る音が聞こえた。

「薫子さん……」

 ふく子が、目に涙をためている。

「さ。そうと決めたからには、いろいろ考えなくちゃね」

 薫子はいったん事務所の階段を降り、外で泣いていた遼太郎の手を引いて連れ帰ってきた。

「薫子さん、ここにいるよね。ずっと、いるよね」

「うん。いるよ。大丈夫だから、もう泣かないで」

 遼太郎が薫子に抱きついたのきっかけに、加代子、ふく子、左文字、出渕が、さまざまな方向から薫子に抱きついた。その輪の中心で薫子は、みんなの体をポンポンと叩いて励ました。

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