第24話

二四


 比較的、静かな午後だった。事務所の中には薫子とふく子、それに出渕の三人しかいなかった。日出生は、また韓国へ出張していた。

 部屋の隅で、ファックスが腹具合の悪いトンビの鳴き声のような音を出した。その音に続いて、三枚ほどの紙が吐き出されてきた。ふく子が立ち上がってその紙を手に取ると、首をかしげた。

「薫子さん」

「何?」

 薫子は、目の前のチェックリストから顔を上げずに答えた。

「これ、読めます?」

 ふく子に渡された紙には、丸やら四角やらでできた文字がマジックペンらしきものでなぐり書きされていた。文字面から書き手の怒りが伝わってくるような、荒っぽい筆致だった。

「これって、ハングルよね」

 そういう薫子にも、自信があるわけではなかった。

「なんて書いてあるんでしょう?」

「さあ」

「どれ。見してみ」

 後ろから手を伸ばしてきたのは、出渕だった。

「出渕さん、韓国語、わかるですか?」

「うん。ちょっとは」

 出渕は、三枚のファックスに次々に目を通した。

「ありゃあ、これは……」

「どうしたんですか? 何が書いてあるんですか?」

 ふく子が、心配そうな顔をした。

「日出生さんを、人質にしたって書いてある」

「人質ぃ?」

 薫子とふく子の声が、重なった。

「人質って、どういうことですか?」

「韓国に、セル画の色塗りを下請けに出してるの?」

「はい。それで今、社長が行ってるんです」

「そこの労組が、賃上げを要求してるんだ。賃金を上げなきゃ、解放しないって」

「でも、それってヘンじゃないですか?」

 薫子は、疑問に思ったことを口にした。

「だって、賃金アップの要求なら、自分の会社に対してすればいいじゃないですか。なんで、仕事を出しているウチの社長が人質にならなきゃいけないんですか?」

「そうだけど、それは俺に言われても」

 出渕は、もう一度ファックスを読み直した。

「解放してほしければ、絵の具を持ってこいって書いてある」

「絵の具? どういう意味ですか?」

「わからん」

「聞いてみてくださいよ」

「え、俺が?」

「だって、韓国語わかるのって、出渕さんしかいないんですよ」

 出渕はしぶしぶ電話器を取り上げ、ふく子に聞いた番号に国際電話をかけた。たどたどしい韓国語で三〇分ほどやりとりを続けた後、出渕は電話を切った。

「どうでした?」

「それがさ、俺にもちょっと責任があるみたいなんだ」

 というのも、セル画用の絵の具には「太平洋絵の具」と「煙突ペイント」の二つのメーカーがあり、色彩設定者によって好みが分かれているという。

「俺は煙突ペイント専門なんだけど、前の人は太平洋の絵の具を使ってたみたいだな」

 太平洋絵の具と煙突ペイントでは、それぞれの絵の具の色につけられている番号がまったく違い、これを混同するととんでもないことになる。そのとんでもないことが、実際に韓国で起こったらしい。

 色彩設定が萩原智子から出渕に替わり、それにともなって絵の具も太平洋から煙突に替わったのだが、現場ではそれが徹底されぬままに作業が進み、大混乱に陥っているという。渡韓した日出生が現場で色彩がおかしいのを指摘すると、労働者たちは「我々の責任ではない」と激昂し、やがて労働争議にまで発展する騒ぎになってしまった。

「向こうの話では、賃金のことは我々でなんとかするから、とにかく煙突の絵の具を急いで持ってきてくれって言うんだ」

「じゃあ、出渕さん。お願いします。韓国に行ってきてください」

「え? 俺? 俺はダメだよ」

「何言ってるんですか。原因を作ったのは、あなたじゃないですか」

「だって、俺が行っちゃったら、誰が野菜の世話をするんだよ」

「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ」

「それに、誰が色の指定するんだよ。ただでさえ、スケジュールがきついのに」

「じゃ、誰が行くんですか?」

「奥さんは?」

「離婚して、子どもを連れて出て行っちゃいました」

 一週間ほど前に、邦子は日出生と離婚していた。

「じゃあ、あんただ」

 出渕が指をさすので後ろを向くと、いつのまにか、ふく子の姿が消えていた。話の雲行きが怪しくなりそうなのを敏感に察知して、逃げたらしい。薫子は、改めて出渕の指の先がさすほうをたどった。

「え? あたし?」

「他に、誰がいるんだよ」

「だって、あたし韓国語しゃべれませんよ」

「向こうは、絵の具だけ持ってきてくれればいいって言ってるんだから、あんたでも大丈夫だよ」

「そんな、無責任な」

 その日の夜には、出渕が注文した煙突ペイントの絵の具が大量に届いた。薫子は、それを台所の片隅にうち捨ててあった登山用のリュックサックにぎゅうぎゅうと詰め込んだ。かついでみると、重さで後ろに倒れそうになった。あわてて机のへりを掴み、平衡を保った。


 翌日の午前中には、ほぼ出発の準備が整った。パスポートは、去年、貴和子と海外旅行に行こうと約束した時にとってあった。航空券は、熊原がスチュワーデスの彼女に頼んで都合してくれた。

 留守中のことをふく子と遼太郎の三人で相談していると、電話が次々にかかってきた。左文字やあすなろプロ、その他の下請けからだった。内容は、スニーカーや背広、マッコリなどを買ってきてほしいという依頼だった。その頃、韓国の物価は日本の五分の一程度だった。貧乏な彼らの頼みを、無下に断ることはできなかった。

 それだけではなかった。スタジオSGTの同業者だという男が、どこから聞きつけたのか知らないが、薫子が韓国へ行くと聞いて、大量のセル画を運んでくれるように頼んできた。その同業者も、同じ韓国の会社に色塗りの下請けに出していたのだ。

「じゃあ、お願いします」

 そう言うと同業者は薫子にセル画の束を押し付け、逃げるように帰っていった。

 パンパンにふくれあがった汚いリュックを背中に背負い、両手にセル画がいっぱいに詰まった紙袋を下げた薫子は、立っているのがやっとだった。

「まるで、難民みたいですよう」

 おかしそうに笑う加代子を、薫子は睨みつけた。


 ゴールデンウィーク真っ最中の成田空港は、図体のでかい国内外の高級車がひっきりなしに出入りしていた。そのなかで、ふく子の運転するボロボロのライトバンは、ひときわ目立つ存在だった。そして、そのボロ車から降り立った薫子も、車に負けないくらい目立っていた。

 普段着のままで大きなリュックを背中に背負い、両手に紙袋をぶら下げ、倒れないように平衡を保ちながら、そろりそろりと航空会社のカウンターに向かう姿は、どう見ても難民そのものだった。派手なリゾートウェアに、高価そうなアクセサリーをふんだんに身に着けた観光客たちは、薫子の姿を見ると、あんぐりと口を開けて見つめ、それから声をひそめて囁きあった。

「薫子さーん! 気をつけていってらっしゃーい」

 能天気なふく子の声に、薫子はゆっくりと後ろを振り向いた。バランスを保つのにせいいっぱいで、返事どころではなかった。


 翌日。薫子は、出発した時とほぼ同じ恰好で、再び成田空港に降り立った。違っていたのは、リュックと紙袋の中身、そして日出生をともなっていることだけだった。リュックの中身は、左文字や良太たちに頼まれたスニーカーや背広、酒、食料などの買い出し品だった。そして紙袋の中身は、塗りあがったセル画だった。持っていったものと引き換えに、渡されたものだ。二日間の苦行で、肩や首筋の筋肉は悲鳴をあげ、足腰は忍耐の限界が近かった。

 だが隣にいる日出生は、さらに悲惨なことになっていた。暴行こそ受けなかったものの、数日間にわたる監禁は、日出生の肉体だけでなく精神にも深い傷を残しているようだった。

「おかえりなさーい」

 昨日にも劣らない、能天気な声が響いた。ふく子が迎えに来ていた。

 ライトバンの荷台にリュックと紙袋を押し込み、薫子はようやく息をついた。

「はあ。しんどかった」

「よく、こんな重いものを持てましたね。ダイエットにいいですね」

 荷台に積むのを手伝ったふく子は、無邪気に笑っている。それを無視して、薫子は、少し離れたところに立っている日出生に声をかけた。

「社長。乗ってください。帰りますよ」

 日出生の様子が、おかしかった。何かを考えるでもなく、虚ろな目でぼうっとつっ立っている。

「社長?」

 もう一度声をかけると、ようやく薫子に気がついた。

「あ? ああ。僕はちょっと疲れたから、このまま電車で家に帰るよ」

 日出生の家は、千葉にある。西麻布の事務所に戻ると、遠回りになるのだ。

「そうですか。わかりました。明日は、事務所に来られますよね?」

「あ? うん。そうだね……」

 日出生の返事は、あいまいだった。

「じゃ、失礼します」

 ライトバンのバックミラーごしに薫子が覗くと、日出生は同じ場所にずっとそのまま立ったままだった。そしてそれが、薫子が日出生を見た最後の姿になった。

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