第21話
二一
家から持参した弁当を広げる薫子の横で、遼太郎がカップ麺をすすっていた。このところ、薫子がSGTでお昼を食べる時は、いつも横に来ていっしょに何かを食べている。別に迷惑でもないので、したいようにさせていたのだが、来る日も来る日もカップ麺ばかり食べていることがだんだんに気になってきた。
とうとう見かねて、弁当箱の蓋に煮物を少しばかり乗せて遼太郎のほうに押しやった。
「少しは、野菜も食べたほうがいいわよ」
遼太郎は、それまで見せたことのないような笑顔を見せ、大事そうにそれを食べた。その様子を見ていたふく子が、くっくっと笑った。
「なんか、恋人どうしみたい」
「やめてよ」
薫子がふく子を睨みつけると、電話が鳴った。
「はい。スタジオSGTです」
ふく子が元気のいい声で、電話に出た。だが、その声がすぐに低くなった。
「薫子さん」
「何?」
「銀行からなんですけど、不渡りがどうのこうのって」
「不渡り?」
社長は韓国に出張中で、加代子も外出中だった。薫子は、ふく子から電話器を受け取った。
「はい、お電話代わりました。社長はあいにく、海外出張中なんですが」
電話の内容は、今日が支払日になっているSGT振り出しの手形があるのだが、当座預金に決裁資金が足りない。午後四時までに入金してもらわないと、不渡りになるというものだった。
「いくら、足りないんですか?」
不足金額は、約二〇万円とのことだった。
「それぐらいだったら、普通口座から振り替えてもらえませんか?」
薫子はOLだった頃に得た知識を思い出して、聞いてみた。だが普通口座には、数万円しか入っていないという。
突然、訪れた危機だった。韓国にいる日出生とは連絡がとれないし、加代子はどこかへ行ったまま帰ってこない。まあ、いたところで小払い資金の出し入れしかしていない加代子では、何の役にも立ちそうもないが。
薫子は、日出生の妻の邦子に電話した。
「あのう、お金が足りないんです」
「またあ? いいかげんにしてほしいわ」
資金のショートは、今回が初めてではないらしい。
「どうしましょう? 四時までに入金しないと不渡りになるそうですが」
「そういうことは、日出生に言えばいいでしょ」
「いま、いないんです」
「どこに行ってるの?」
「えっと、それが……」
薫子は少し迷った末に、本当のことを言うことにした。
「韓国です」
「韓国? 何で私に言わないのよ」
口止め料をもらっているからとは、言えなかった。
「何しに行ってるの?」
「セル画を回収しに行ってます」
「本当かしら? また愛人を見つけに行ってるんじゃないの?」
全面的に否定する自信がない薫子は、沈黙した。
「いくら、足りないの?」
「二〇万円だそうです」
「そんなお金、ないわ」
「そんな……」
「いっそのこと、不渡りにしちゃったら?」
邦子の不誠実な態度に、薫子の安全装置がはずれかかった。
「そういう言い方は、ないんじゃありませんか?」
「潰れればいいのよ、あんな会社。もう私、ほとほとイヤになったわ。いっそのこと、日出生も事故か何かで死んでくれれば保険金が入るのに」
邦子は、投げやりに言い放った。日出生との仲は、そうとう冷え込んでいるようだった。
「社長との間に何があったのかは存じませんが、それとこれとは別の問題じゃありませんか? 会社が潰れれば、あなただって困るんじゃありませんか?」
「困らないわよ。もう、離婚することに決めたから」
そう言うと邦子は、一方的に電話を切った。
一回目の不渡りで、会社が潰れることはない。だが資金繰りが相当悪化する上に、銀行は融資の回収を始める。下請けがこれを耳にすれば、すぐに代金の支払を求めてくるだろう。いずれにせよ、この程度の会社では早晩行き詰まることは目に見えている。薫子は、自分にできる対策を考えた。答えは、ひとつしかなかった。
「ふく子さん。あたし、横浜へ行ってくるわ」
「横浜? 何しに?」
不安そうな顔をするふく子を残し、薫子は事務所を飛び出した。
古ぼけたビルの階段を、駆け上がった。日之出興業と書かれたドアは、数カ月前に訪れた時とまったく変わらぬたたずまいで、そこにあった。
「ごめんください」
「だれじゃい」
頭をパンチパーマにし、派手な紫色の背広を着た年輩の男がソファから立ち上がった。そして薫子を見ると、とたんに嬉しそうな顔をした。
「姉さん。こりゃまた、突然のお越しで。どうぞ、こちらへ。汚いとこだけど」
男が指し示す革の破れたソファに、薫子は腰を下ろした。
「ところで、今日はどういうご用件で?」
「お願いがあります」
「お願い?」
薫子は、パンチパーマの男に切々と窮状を訴えた。黙って聞いていた男は全てを聞き終えると、力強くうなずいた。
「いいだろう。ほかならぬ姉さんの頼みだ。ハンコも何もいらねえ。返済も、いつでもかまわねえ。持って行けや」
男はそう言うと、金庫から封帯の巻かれた札束を三つ出してきて薫子の前に置いた。
「さあ、いくらでも好きなだけ」
「そんなに要りません。二〇万円でいいんです」
薫子は、札束から二〇枚の一万円札を数えて抜き出した。
「日出生が帰ったら、必ずすぐにお返ししますから」
「姉さん。俺は、姉さんの女っぷりに惚れてんだ。その姉さんが困ってるってんだから、放っとくわけにはいかねえ。俺も、この世界では鬼の
「ありがとうございます」
「またいつか、あのスカッとする啖呵、聞かせてくれや」
薫子は感謝しつつも、気になることがあった。前回来た時は、男の言葉はたしか広島弁だったような気がする。
「あの?」
「なんでい?」
「前に来た時は、広島弁でしたよね?」
「あれは、営業用だ。俺は、日本橋生まれの横浜育ちだ。だけど、人には言うなよ。睨みが効かなくなるからよ」
そう言って、鬼の諒二はニヤッと笑った。
薫子は挨拶もそこそこに日之出興業を飛び出し、銀行に電話を入れてから電車に飛び乗った。銀行のある六本木まではギリギリの時間しか残っていなかった。東横線の急行電車から、地下鉄日比谷線に乗り継いだ。一駅一駅、丹念に停車しながら走る電車が恨めしかった。なぜ地下鉄には急行がないのかと呪った。
六本木駅に着くと、ドアを押し開けるように電車を飛び下りて階段を駆け昇った。足が滑り、膝をコンクリートの階段にしたたか打ちつけた。近くにいた若い男が差し伸べる手を振り払うようにして立ち上がり、また走った。
銀行の裏口のインターホンで名前を告げると、ドアが空いて中年の行員が顔を出した。
「これ」
薫子が二〇万円の入った封筒を差し出すと、行員は苦笑した。
「どうぞ、こちらへ」
行員について店内を歩いていても、自然と早足になった。引き合わされた係員に二〇万円を渡すと同時に、薫子は全身の力が抜けてその場にへたりこんだ。時刻は、三時五六分になっていた。
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