第20話

二〇


 桜の蕾がふくらみ始める頃、『プリシャス・テンプテーション』の第一巻が、ようやく店頭に並んだ。だが売上は、期待していたほど伸びなかった。ロイヤル・レコードは日出生たちを呼び出し、文句を言った。

「困るんですよね、数字が行かないと。私たちとしても」

「はい、それはもう。重々承知しておりまして」

 日出生はさっきから、頭を下げっぱなしだ。

「二巻はスケジュール上もう間に合わないとしても、三巻では方向性を変えてでも、なんとか挽回してもらわないと」

 入舩は、もともと大きな目をさらに大きく見開いた。

「でも、最初の企画段階では入舩さん、『これはぜったい売れる』みたいなことおっしゃってたじゃないですか」

 左文字が突っ込むと、入舩はあわてて顔を横に向けた。

「私は、そんなこと言ってませんよ」

「え? でも……」

 さらに追求しようとする左文字を、日出生が肱でつついて制した。その様子を見ていた出船が、批難めいたことを口にした。

「左文字さん。私たちはあなたの実績を見込んでお願いしてるんだから。この数字では、あなたとしても不本意でしょう? もっと面白いものを作ってもらわんと」

 左文字の顔が、険しくなった。

「だいたい私は、企画段階からあまり乗り気じゃなかったんだ」

 入舩の責任逃れの発言に、左文字の顔が朱に染まりはじめた。その気配を察した日出生が、あわてて間に入った。

「まあまあ。二巻はかなりいい内容ですし、三巻ではもっと驚きの展開になりますから。期待してくださいよ」

 日出生は左文字の腕を引っ張って立たせ、挨拶もそこそこにロイヤル・レコードを出た。


 銀色に塗られた恐ろしく高価そうな外国製スポーツカーが、派手なクラクションを鳴らしながら交差点に進入してきた。横断歩道に踏み出した日出生と左文字は、あわてて歩みを止めた。歩行者信号は、青だった。

「日本の道交法は、適用されないとでも思っているのか」

 日出生は、走り去るスポーツカーの後ろ姿を睨んでつぶやいた。そしておそるおそる横断歩道に足を出しながら、かたわらの左文字に話しかけた。

「了くん。やはり三巻は、そうとう内容を変えなきゃいかんかもしれんな」

 うつむいたまま、左文字は何も答えなかった。

「僕たちの仕事は、スポンサーがいてこそ成立する商売なんだ。そのスポンサーが内容の変更を要求しているからには……」

 日出生の言葉を遮るように、左文字がぼそりと言った。

「二巻だって、当初の内容からかなり変わってるんです。これ以上変えたら、『プリシャス・テンプテーション』じゃなくなっちゃう」

「それは、わかってる。わかってるけど」

「日出生さん。どうしてきちんとロイヤルに、『それはできません』って言わないんですか? 断るのも、プロデューサーの仕事でしょ?」

「それは、そうだけど」

「作品が、かわいくないんですか?」

「それとこれとは、関係ないだろう」

 日出生は、うんざりしたような顔をした。

「だったら……」

「レコード会社としては、どうしても数字を最優先にせざるを得ないんだよ」

「それはつまり、僕の仕事ではダメだっていうことなんでしょうか?」

「いや。そうじゃないって。飛躍するなよ。『ギルガメッシュ・ワン』での君の仕事は、みんな高く評価しているじゃないか」

「でも、ロイヤルは気に入ってないみたいですし」

「あそこが本格的にアニメ作るのは、今回が初めてだからさ。よく、わからないんだよ」

「でも、いまさら内容を大幅に変更するのは……」

「了君の気持ちは、わかる。わかるけど、ここはひとつ、受け入れてくれよ。せっかく動き始めた『プリテン』を、ここで止めるわけにはいかんだろう」

 日出生は、仲間うちで話す時はいつも、『プリシャス・テンプテーション』を『プリテン』と省略する癖がある。

「監督を、替えてもらえませんか」

 左文字の唐突な発言に、日出生は仰天した。

「何言ってるんだ。これは君にしかできない仕事だよ。俺は他のヤツに替える気はないし、君もそのつもりで最後までやってくれなきゃ困るよ」

「はあ」

「辞めるなんて、二度と言うなよ。これは、了君。君の仕事なんだからな」

「はあ」

「熊原君には、俺のほうから話しておくからさ」

「はあ」

 他に寄るところがあるからと言って、左文字は駅と反対の方向に歩いていった。日出生は立ち止まり、その後ろ姿が見えなくなるまで心配そうに見つめ続けた。


 心配は、現実のものとなった。翌日から、左文字が行方不明になった。SGTに顔を出さないばかりか、編集スタジオやその他の立ち回り先にもまったく連絡がない。自宅に電話しても、ずっと留守電になったままだ。

「困ったなあ。この忙しい時に何やってるんだ、アイツは」

 日出生は、苛立たしげに時計を見た。成田に行く時間が迫っていた。韓国に、セル画を受け取りに行く予定になっているのだ。

「私たちで探しておきますから、社長は行っちゃってくださいよう」

 加代子が、日出生を促した。

「そうか? じゃ、後は頼んだよ」

 日出生はそう言い残すと、大きな荷物を持ってあわただしげにドアから出ていった。

「私たちで探すって、加代子さん。あなた、心当たりあるの?」

 日出生が出ていくのを不安げに見送ったふく子が、加代子に聞いた。

「ううん、ぜんぜん」

 悪びれる様子もなく、加代子はあっけらかんと言い放った。

「じゃ、何であんなこと言うのよっ」

「だってぇ」

「左文字さんのこと、いちばん詳しいのは社長なんだからねっ。行かせちゃって、どうすんのよっ」

「でもぉ」

「呼び戻してらっしゃいよっ」

 見かねて、薫子が間に入った。

「ふく子さん。今からじゃもう、間に合わないわよ」

「まったくもう。よけいなことばっかりして。ただでさえ忙しいのに、結局、私たちで探すしかないじゃない」

 ふく子は、遼太郎のほうに振り向いた。

「遼太郎。あんた、監督とは仲良しでしょ? どこか、監督が行きそうなところ、教えなさいよっ」

 その顔が恐ろしかったのか、遼太郎は怯えて薫子の陰に隠れた。薫子は後ろを向き、遼太郎の両腕をとって優しく声をかけた。良太から遼太郎の一件を聞いて以来、薫子はなるべく優しく話しかけるようにしていた。

「遼太郎くん。どこでもいいのよ。何か思い出せない? いっしょに行った呑み屋とか喫茶店とか」

「いっしょに、そういうところに行ったこと、ない」

「じゃあ、監督の好きなものって、何?」

 遼太郎は、しばらく考えてから答えた。

「飛行機!」

「飛行機?」

「うん」

「飛行機って、あの、空を飛ぶ飛行機?」

「水の中を進む飛行機って、ありませんよう」

 まぜっかえす加代子を、ふく子が睨みつけた。

「暇な時はよく、飛行機を見に行ってた」

「どこ? 羽田? 成田?」

「ううん。入間」

「入間?」

「そう。自衛隊の基地があるの」

 自衛隊から脱走してきた左文字が、入間にちょくちょく飛行機を見に行っていたとは。自分で捕まりに行くようなものではないか。薫子は呆れた。今もそんなところへ行っているとは思えないが、とりあえず手がかりは、それしかない。

「ふく子さん。あたし、ちょっと入間に行ってくるわ。あと、お願い」

 薫子はバッグを掴むと、急ぎ足で事務所の階段を降りた。


 茶色と緑色の迷彩色に塗られた大型の輸送機が、轟音をたてて着地した。胴体の下の車輪から白煙があがると、輸送機は急速にスピードを落とした。空を飛ぶ巨鳥が、一瞬にして地上を這う熊に変身したように見えた。

 春が近いとはいえ、まだ日は短い。まだ四時前だというのに、すでにあたりは夕暮れの色合いが濃くなりつつあった。薫子は遼太郎に教えられたとおりに西武新宿線の狭山市駅で降り、基地のまわりを捜しまわった。一時間ほど、基地の周囲にはり巡らされた金網づたいに歩くと、一人の背の高い男がポケットに手を突っ込んで、じっと基地内を見つめているのが見えた。左文字だった。

 薫子は疲れた体を励ましながら、左文字のもとに駆け寄った。

「監督」

 左文字は、ゆっくりと声のしたほうに顔を向けた。

「あ……」

「飛行機、お好きなんですか?」

「うん」

「あたしも」

「君も?」

「あたし、外国って行ったことないんです。監督は?」

「僕も、ない」

「飛行機を見てると、いつか自分もあれに乗って外国にいけるかなあって、思うんですよ」

 先ほどの輸送機よりはるかに小さな双発機が、ライトをこうこうと照らして空中に舞い上がった。その轟音が、二人の会話をしばらく途切らせた。

「僕は、飛行機をいじりたかったんだ」

「それで、自衛隊に?」

 左文字は一瞬ぎくりとして、薫子の顔を見た。

「無量小路さんは、知ってたんだったね」

「監督。寒いから、どこかに入りませんか? それに、見つかるとヤバイし」

 薫子が促すと、左文字はおとなしくついてきた。


 とりあえず基地からできるだけ遠ざかろうと電車に乗り、二人は新宿まで戻った。薫子は、結婚する前のOL時代に通ったおでん屋に、左文字を連れていった。

 さっきからずっと押し黙ったままの左文字に、薫子は酒を注いでやった。

「さ。とりあえず、飲みましょ」

 盃を挙げて、中身を飲み干した。冷えた体に、熱燗が浸みわたった。

「くぅー、うまい」

 思わず声を出した薫子に、左文字が笑った。

「無量小路さんは、お酒が好きそうだね」

「はい。これで失敗することも多いですが」

「僕も、もう少し飲めたらと、思うことがあるよ」

「え? 監督、お酒、ダメなんですか?」

「ほとんど、飲めないんだ」

「ごめんなさい。知らずに、こんなところに誘っちゃって」

「いや、いいんだ。今日は、ちょっと飲んでみたい気分だったから」

 左文字は盃を持ち上げると、ちょっと口に含んだ。

「どうですか?」

「うん。うまい」

「おでんも、美味しいですよ」

 薫子は真っ黒に煮えたはんぺんを箸で切り、口に放り込んだ。強いダシの香りが、鼻を抜けた。

「さ、監督も食べてみて」

「無量小路さんは、どうしてこの仕事しているの?」

「え?」

 予期しない質問に、薫子はむせかけた。

「あ、あたしは……」

「気を悪くしたら、ごめんよ。でも僕には、無量小路さんがそれほどアニメ好きのようには見えないんだけど」

 どう答えようかと考えていると、左文字は独り言のように語りはじめた。

「僕は子どもの頃から飛行機が好きで、ずっと飛行機の仕事がしたいと思ってたんだ」

 薫子は、うなずきながら左文字の顔を見た。

「でも視力が弱かったし、頭もそんなによくないし。パイロットは無理だと思ったから、せめて飛行機に触れていられる仕事はないかと思って、自衛隊をめざしたんだ」

「はい」

「でも、高校の教師がいいかげんなヤツで。そいつのミスで、航空自衛隊じゃなくて陸上自衛隊に入ることになっちゃって。訓練があまりに辛くて、逃げ出したんだ」

「そうだったんですか。それで、アニメの世界に?」

「うん。アニメも好きだったからね。飛行機のアニメを作りたくて、今までやってきたんだけど……」

 左文字は薫子の顔から視線を外して、宙を見つめた。

「飛行機のアニメ、いいですね」

「え?」

「飛行機のアニメ、作りましょうよ。監督」

「そりゃ、作りたいけど。もう、僕は」

「何か、あったんですか?」

「ロイヤルが『プリテン』を気に入ってないみたいで、僕の力が足りないみたいなことを言われちゃって」

 なんだ。失踪の原因は、そんなことだったのか。薫子は、少し安心した。盃の酒をぐいと飲み干し、新しいお銚子を注文してから、左文字に顔を近付けた。

「監督は、どう思ってるんです?」

「どう思ってるって?」

「自分では、『プリテン』の出来は、どう思ってるかってことです」

「そりゃ、自信があるさ」

「それなら、ぜんぜん問題ないじゃないですか。あたし、この世界に入ってまだ日が浅いから詳しいことはわかりませんけど、作る人が面白いと思わないものを、見る人が面白いと思うわけがないじゃないですか」

 左文字は、薫子の顔をぽかんとした表情で見つめた。薫子はさらに盃を呷り、続けた。

「ロイヤルが何と言おうと、自分が面白いと信じることをやればいいんですよ。まわりでいろいろ言うヤツがいるかもしれないけど、結局最後は自分を信じるしかないんですよ。流されちゃ、ダメなんだから」

 薫子はお店からコップをもらい、それに酒をどくどくと注いで呷った。

「いいですか、監督。監督の夢は飛行機のアニメを作ることなんでしょ? それは、今すぐには実現しないかもしれないけど、必ず将来、チャンスが来ますよ。そのためにも、今やるべきことをやっておかなきゃ」

「無量小路さん、ちょっとピッチが……」

 左文字はコップ酒をぐいぐいと呷る薫子を、呆れたように眺めた。

「ああ? なんらって?」

「ちょっと、飲み過ぎじゃ……」

「左文字了! 今お前がやるべきことは何ら? 言ってみろ」

 薫子の目が、すわっている。

「それは、その」

「『プリテン』をめひゃくひゃ面白い作品にひへ、ホイヤルを見返してやるほとらろ」

 ろれつも、怪しくなってきた。

「左文字了! ☆#¥∝▲*〓♀£≧●%!」

 薫子は意味不明の言葉を発すると、うひゃひゃひゃひゃと笑い、テーブルに突っ伏した。


 呼び込みの声が交錯し、酔客が行き交う夜の新宿を、左文字は薫子を背中におぶってゆっくりと歩いていた。

 薫子は左文字の背中にいるとも知らず、幸せな夢を見ていた。伊東と、飛行機に乗って外国旅行に出かける夢だった。横に座る伊東が薫子の耳に手を伸ばし、イヤリングに触れた。それはいつぞやの晩に、伊東がくれたものだった。それからおもむろに肩に手をまわし、キスを求めてきた。薫子は軽く目を閉じ、それを受け入れた。

「りょう……」

 左文字は、耳もとでいきなり自分の名前を呼ばれたうえに後ろからきつくしがみつかれ、ひどく狼狽した。よもや薫子が自分に対してそんな気持ちを持っているとは、想像もしていなかった。なるほど、先ほどのおでん屋での激励も、そう考えれば納得がいく。左文字は、妙に心が浮き立ってくるのを感じた。そんな感覚は、中学時代の初恋以来だった。

 だが左文字は、薫子が「りょう」のあとにかすかな声で「すけさん」と言ったのは、聞き取ることができなかった。

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