第19話

一九


 足を組んでふんぞり返り、傲慢な態度で煙草をふかしているのは、良太に紹介してももらった出渕という男だった。

「で、その『プリシャス』なんとかって話、どういう話?」

 天井に向けて煙を吐き出しながら、出渕は面倒くさそうに聞いた。左文字がストーリーをかいつまんで話しはじめると、一分も経たないうちに出渕がそれをさえぎった。

「ああ、わかった。だいたい、わかった」

 左文字がなおも話を続けようとすると、出渕は左手を上げて制した。

「オレはもう、気に入った仕事しかしないから。アニメで喰おうなんて思っちゃいないから。オレの仕事は、今は農業だから」

 そう言うと。右手に持った煙草をガラスの灰皿に押し付け、組んだ足を床に降ろして立ち上がりかけた。

「どうも、これ、オレのやる仕事じゃなさそうだな。悪いけど、他をあたってよ。なんせ今、オレ、とても忙しいのよ。トマトがさあ、白い粉吹いたみたいになっちゃってさあ。何なんだろうね?」

 何なんだろうねと聞かれても、左文字には答えようがない。薫子はそれまでおとなしくしていたが、出渕という男の態度のでかさが、いいかげん腹に据えかねた。

「うどんこ病ですね。それ、たぶん。ほっとくと、全滅しますよ」

 かつて嫁いでいた広島の農家では、トマトも作っていた。

「うどんこ病?」

「はい。連作、してませんか?」

「あ、してるしてる」

「それと、水、やりすぎてませんか?」

「そうかもしんない」

「今年はもう諦めて、全部抜いて処分したほうがいいです」

「え? もったいねえよ。ここまで育ったのに」

「もう今年は、ちゃんとしたトマトはできないと思ったほうがいいです。今のうちになんとかしないと、畑そのものがダメになるかもしれませんよ」

「ええっ、ほんとうかい? それにしても、アンタ、詳しいな」

「農家、やってましたから」

 薫子は、胸をそらせた。ほんとうは思い出したくもない過去なのだが、出渕の傲慢な態度を見かねて、ついつい横から口を出してしまった。

「へえ。田舎の出身かあ」

「違いますっ」

 薫子は強く否定したが、出渕は薫子を農家の娘と信じ込んだようだった。

「気に入った。気に入ったよ。オレ、やるよ。この仕事」

 それから出渕は、農作物の栽培法について、機関銃のように質問を浴びせはじめた。仕事があるから次の機会にしてくれと薫子がいくら頼んでも、聞く耳を持たなかった。結局質問は数時間にわたり、薫子はそれに答えるだけでヘトヘトになった。


 家に帰ると、何となくいつもと様子が違っていた。父と母が「話があるから」と言って薫子を居間に呼び寄せた。ただでさえ腹立たしい男から、イヤな想い出がたっぷりとつまった農業の話を根掘り葉掘り聞き出され、気分がささくれていた。

「何? 疲れてるから、早く寝たいんだけど」

 ひとつ咳ばらいをした父は、真剣な顔になった。

「今日、伊東さんがウチに見えたんだ」

「え? 何しに?」

 思いがけない話題に、薫子は驚いた。

「伊東さんがな、正式にお前をもらいたいと言ってきた」

「はあ?」

「父さんは、いい話だと思う。で、お前はどうなんだ?」

 母も、同じことを聞いた。

「そうよ、カーすけ。どうなの?」

 どうなのと言われても、困る。だいいち仕事が忙しくて、そんなことを考える暇もなかった。それに、このところ会っていなかったとはいえ、自分に一言も相談もなく両親に結婚を申し込まれたことに、薫子は腹が立った。

「いつまでも、子どもの漫画でもあるまい。そんなものは、まともな仕事とは言えんぞ。そろそろ……」

 その一言は、薫子の安全装置を外すのに十分だった。自分でもびっくりするぐらいの大声が出た。

「何よ、『子どもの漫画』って。アニメには、人生賭けている人だっているんだからねっ」

 以前と比べても、アニメに対する思い入れが深くなったというわけではない。貧乏してまでやりたいと思う良太やふく子たちの気持ちは、今でもよくわからない。だが薫子は、彼らが自分たちの仕事に誇りを持っていることだけは、この数カ月でよく理解できた。父の言葉は、その誇りを傷つけるものだった。

「『まともな仕事じゃない』って、どういうことよっ。よく知りもしないくせに、よけいなこと言わないでよっ」

 憤然として席を立ち、薫子は自分の部屋に駆け込んだ。頭から蒲団をかぶった。悔しかった。なんで悔しいのかはよくわからなかったが、自分がけなされたような気がした。しばらく蒲団の中でじっとしていたが、胸の中の怒りは、なかなか消えなかった。


 翌日。昼休みの時間を狙って伊東に電話を入れ、いきなり用件を切り出した。

「亮介さん。勝手なこと、しないでくれる?」

「昨日のこと?」

「他に、何があるのよ」

「いけなかったかな」

「当たり前でしょ。何、考えてるのよ」

「でもさ」

「何よ」

「俺、薫子さんの事が本当に好きなんだよ。いっしょに暮らしたいんだよ」

 ずるい。そう言われたら、何も言えなくなるではないか。沈黙する薫子に、伊東が追い討ちをかけた。

「薫子さん。結婚しよう」

「ちょっと待ってよ。そういう話じゃないでしょ」

「薫子さん、今の仕事が好きなの?」

「え?」

 いきなり核心を突かれ、薫子は少し動揺した。

「俺には、そういうふうには見えないんだけどな」

「……」

「好きでもないのに、なんであんな大変な仕事を続けているのか、わからないんだ。なあ、結婚しようよ。もし続けたいっていうのなら、今の仕事を続けてもかまわないからさ」

 伊東の言うとおりだった。自分はなぜ、この仕事を続けているのだろう。給料を得るためだろうか? SGTの人々に頼られているからだろうか? それとも、もしかして……。薫子は、混乱した。

「とにかく、今後いっさい、こういうことはしないでください」

 一方的に会話を断ち切り、電話器を置いた。だが、受話器を置いても、アニメの仕事を続けている理由はわからなかった。薫子は、そのことを振り払うかのように頭を強く振った。


 帰宅してから薫子は、貴和子に電話した。伊東のことを相談しようと思ったのだ。だが、電話はつながらなかった。以前はほぼ毎日のように電話をかけあっていたのだが、気がつくと、ここ数週間は一回も電話で話していない。薫子が忙しくなったせいもあったが、よく考えると、貴和子のほうからもかけてこなくなっていた。気になったが、まあ、明日もう一度電話しようと思い直し、電話器を置いた。


 目のまわるような忙しさだった。日中は作画スタッフを廻って原画を回収し、その合間にSGTに戻れば出渕の農業談義に付き合わされ、夜は夜で編集やMAに立ち会い、家に帰るのはいつも日付けが変わってからだった。

 父とはあれ以来、気まずくなったままだった。会えばケンカになるのはわかっているので、顔を合わせないで済むのは、むしろ好都合だった。

 その日も新宿の編集スタジオから直帰すると、家の前に見慣れぬトラックが停まっているのが見えた。荷台には、伊東酒店と書いてある。運転席に人影が見えた。薫子の予想したとおり、それは伊東だった。薫子は大きくため息をひとつつき、何かを決心した様子で助手席側のガラス窓を叩いた。

 運転席の伊東はすぐに気づき、ドアのロックをはずした。薫子はドアを開け、助手席に体を滑り込ませた。

「やあ」

「どうしたの。こんな時間に」

「こうでもしないと、会えないからさ」

「ごめんなさい」

 なんで私が謝らなければならないのか、とも思ったが、伊東をないがしろにしているのは事実だった。

「これ」

 伊東は、小さな包みを薫子に差し出した。

「何、これ?」

「開けてみて」

 薫子は、リボンを解いて包みを開けた。中の箱には、真珠をあしらったイヤリングが入っていた。

「この前の、お詫び」

 伊東は、前を向いたまま言った。

「この前は、ゴメン。勝手なことして」

 イヤリングの入った箱を両手で膝の上にかかえ、薫子はゆっくり鼻から息を吐き出しながら、天井を見た。当分電話もかかってこないだろうし、悪くすれば、あのままケンカ別れになるだろう。そうなってもしかたがないと思っていた。伊東の思いがけない反応に、薫子の胸に驚きと安堵感がないまぜになった暖かい感情が湧き上がった。だが薫子は、その感情をストレートに出すことをためらった。そうすると、幸せが逃げていくような気がしたのだ。

「あたしなんかの、どこがいいのかしら」

 薫子は、独り言のように言った。

「なあ、いっしょに暮らさないか。今すぐとは、言わないから」

「……」

 すぐに「はい」と答えることは、できなかった。前から気になっていたことを、この際に聞いてみることにした。

「その前に、ひとつだけ、教えて」

「なに?」

「前の奥さんとは、なんで別れたの?」

 伊東はひと呼吸置いてから、ぼそりと言った。

「カネ遣いの荒い女だったんだ」

 トラックのハンドルに両手を置き、その上にかぶさるような姿勢で、ゆっくりとした口調で話しはじめた。

「初めは普通だったんだけど、そのうち誰の影響なのか、株をやりはじめちゃってさ。はじめは自分の貯金で小金を稼ぐ程度だったんだけど、そのうち『ぜったい儲かるから』とか言って、俺や兄貴に内緒で家や店を担保にカネ借りて突っ込みはじめて。もう、こりゃダメだ、ということで別れたんだ。家や店を取り戻すのに、裁判までしてさ」

「ふうん」

「ま、今から考えると、彼女も寂しかったのかもしれないな。忙しくて、あまりかまってやらなかったから」

「奥さんは、外で働く気はなかったの?」

「働きたがったけど、俺はそういうの、イヤなんだ」

「なぜ?」

「嫁さんには、いつも家にいてほしいんだよ」

「働くぐらい、いいじゃない?」

「ダメだ。俺は、許さない」

 そう言うと伊東は、薫子に向き直った。

「だからさ。今度はそんな失敗しないように、薫子さんとは、なるべくいっしょにいる時間を多く持ちたいんだよ。だから……」

 伊東の目は、真剣だった。薫子はなんと返事してよいものか、迷った。ここで伊東の求愛を受け入れるのは簡単だ。薫子にも、そういう願望はある。だが、専業主婦にこだわる言葉が少し気にかかった。それに、『プリシャス・テンプテーション』はどうなるのか。自分が抜けたら、後に残されるメンバーだけでは大混乱になるのは目に見えている。スタジオSGTなんか、いつでも辞めてもかまわないと思っていたはずなのに、どうしてこんなに迷うのだろうか。

「ごめんなさい、伊東さん。もう少し、待って。お願い」

「もう少しって、いつまで?」

「せめて、今作ってる作品ができるまで」

「それって……」

 薫子はみなまで言わせずに、伊東の口を自分の唇でふさいだ。

「おやすみ!」

 そう言うと薫子はドアを開けてトラックから降り、家に向かって駆け出した。伊東は薫子の思いがけない行動に、思考が停止した。そして後ろ姿を見送りながらゆっくりと右手を唇に当て、そこに残った薫子の柔らかな感触の余韻を味わった。

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