第18話
一八
スタジオSGTの窓から、智子の私物が次々に外へ投げ出されていた。投げているのは、萩原の夫だ。窓の下には軽トラックが停まっていて、もう一人の男が投げ出されてくる私物を受け止めては荷台に並べていた。屋根葺き職人の二人は毎日瓦でも投げあっているのだろうか、息の合った見事な連携プレイだった。三〇分ほどで作業を終えると、大男は挨拶もせずに帰って行った。
「やれやれ。絵の具も、ほとんど持っていっちまったよ。けっこう高いんだけどな」
日出生が、ため息をついた。
「どうするんですか。智子さんの代わりは?」
ふく子が聞くと、日出生は逆に尋ねた。
「ふく子。誰か、知らない?」
「さあ。心当たり、ありませんけど」
「そぉかぁ。困ったなあ」
「薫子さんは? やっぱ、知るわけないよねえ。この世界、入ってまだ日が浅いし。聞いてもムダだったな」
知らぬふりをしようと思っていたのだが、そう言われてしまうと、つい言い返したくなる。悪い癖が出た。
「知ってますよ」
言ってから「しまった」と思ったが、もう遅い。
「え、知ってるの?」
「はい」
もう、後にはひけない。
「出渕さんて、いうんですけど」
「へえ。誰、それ」
「あすなろプロの良太くん、いえ、小椋さんの知り合いです」
「へえ、あすなろさんの関係か。それなら大丈夫かな。薫子さん、ちょっとその人、紹介してもらってくれる?」
「わかりました」
薫子が電話をかけ終わると、日出生が何かを思い出したように付け加えた。
「あ、それから」
「はい?」
「今まで智子が編集の立ち会いに行ってたんだけど、これから加代子に行かせることにしたから。でも薫子さん、今日だけサポートで行ってくれるかな?」
「それは、かまいませんけど。編集って、何ですか?」
「編集ってのはね」
できあがった部分部分の映像をつなげていって一本のフィルムにする作業だ、と日出生は説明した。『プリシャス・テンプテーション』の第一巻は映像がほぼ完成し、編集の段階に進んでいた。
「加代子が行きたいって言うから行かせてるけど、加代子はちょっとアレだから」
アレとは何なのか。日出生は、はっきり言わなかった。だがそれは、新宿にある編集スタジオに足を踏み入れた瞬間に明らかになった。
スタジオ内は、大混乱に陥っていた。スタジオ内にいる全員が首をひねりながら、「なぜだ」「わからん」などと個々にうめき声を発していた。
「どうしたんですか?」
薫子は、近くにいた左文字に小声で聞いた。
「尺が、合わないんだよ」
「尺?」
「全体の長さのこと。おっかしいなあ。何でだ?」
頭を抱える男たちの中に、平然とした顔で加代子が座っていた。
「加代子さん。悪いけどもう一回、計算してみてよ。間違ってないとは思うけど」
「何回やっても、同じですよう」
加代子は、手もとの紙の上でめんどくさそうに鉛筆を走らせた。シーンごとの秒数を合算して、全体の尺を算出しているらしい。
「ほらあ。やっぱり七分ぐらい少ないんですよう」
「ううーん。どうしてなんだ」
「七分も少ないわけは、ないんだがなあ」
『プリシャス・テンプテーション』は、一巻につき六〇分を目安に制作されている。話を聞いていた薫子には、ピンと来るものがあった。
「ちょっと、貸して」
加代子から紙を奪い取ると、自分で計算をし直した。
「五九分三二秒ですね」
「え?」
「合ってるじゃん。何で?」
「加代子さん。一分は、何秒?」
薫子は、以前加代子が「一年は一〇〇日だ」と言っていたことを思い出し、念のために聞いてみた。
「え? 一〇〇秒でしょ?」
きょとんとする加代子以外の全員が、激しい脱力感に襲われた。
「あのねえ、加代子さん」
左文字が、諭すように語りかけた。
「一分は、六〇秒なんだよ」
「ウソ! あたし、学校で一分は一〇〇秒だって教わったよう」
「どこの学校だよ、それはっ」
怒りかけるスタジオのスタッフを、左文字が手で制した。
「学校でどう習ったかは知らないけど、昔からこの地球上では、一分は六〇秒ということになってるんだ」
「えー。ヘンなの」
「これからは、一分六〇秒で計算してね。お願いだから」
加代子は頬をふくらませて、プイと横を向いた。日出生の言っていたアレとは、これのことだった。
編集の立ち会いといっても、薫子や加代子が実際に手を下す作業はない。ただ見ているだけでその日は終わり、肩や首にどんよりとした疲れが残った。
夜の九時過ぎにSGTに戻ると日出生がいたので、今日のことを報告した。
「なので、加代子さんには計算をさせる仕事は荷が重いんじゃないですか?」
薫子は、言葉の裏に、加代子にこのまま任せておいて大丈夫なのかという批判を含ませた。
「加代子は、十進法なら大丈夫なんだよ」
日出生の答えは、説得力がなかった。
「でも、時間は六十進法ですよ」
「現場の仕事をやりたがってたから、やらせてみたけど。うーん。やっぱり、無理だったかなあ」
「スタジオのみなさん、怒ってましたよ。時間がムダになったって」
「そうだよなあ」
日出生は腕を組み、しばらく考えていた。
「じゃあさ。編集とかMAの立ち会いは、これから薫子さんが行ってくれるかな。加代子には、僕のほうから言っておくからさ」
「はあ? あたしがですか?」
これ以上、よけいな仕事が増えてはたまらない。薫子は不満そうな声を出した。その様子を見て、日出生は加代子の生い立ちを語りはじめた。
「あいつは、かわいそうな奴なんだよ」
加代子は歌手になるという夢の風船をふくらませ過ぎ、それに引きづられて一五歳で家を飛び出した。そして横浜の焼肉屋で住み込みをしながらチャンスを待ったが、それは一八歳になっても来なかった。
焦燥と絶望の間ををいったり来たりする日々のなかで出会ったのは、新興宗教だった。いつのまにか歌や踊りのレッスンより宗教活動のほうが生活の中心となり、その姿がやがて宗教団体の上層部の目に止まってニュージャージーの支部預かりという形で留学することになった。
新たな希望が開けたと、加代子は喜んだ。だが、それもつかのまの喜びだった。慣れない土地での無理がたたって、病に倒れたのだ。志も虚しく帰国し、宗教団体の紹介でちっぽけな法律事務所に職を得た。だが、中学もろくに出ていない加代子に安心して任せられる仕事は少なく、事務所のほうももてあまし気味だった。そこへたまたまやって来た日出生が加代子の身の上を聞き、いたく同情して自分の会社に引き取ったという。
「そういう子だからさ。暖かく見守ってやってよ」
「はあ」
まあ、日出生がそう言うならしかたがないか。また、伊東に会う時間が少なくなるな。薫子は、ちょっと肩をすくめた。
翌日の午前中、加代子は日出生に呼ばれ、何やらこんこんと諭されていた。だが応接室から出てきた加代子の顔は、薫子の予想とは裏腹に、嬉しそうに輝いていた。
その理由がわかったのは、その日の夜だった。
「みんな、食堂に集まってくださいよう。早くぅ」
加代子の強引な呼び掛けに、薫子、ふく子、遼太郎の三人は、その意図をはかりかねて首をひねりながら食堂に集合した。
「さ。じゃ、今からレッスンを始めますよう」
それぞれの前に、加代子はコピーを配った。何やらイラストと英語のようなものが書いてある。
「何なのよ、レッスンって。私、帰って寝たいのよ」
ふく子が不満をぶつけた。
「英語のレッスンよう」
「何で、そんなことしなきゃいけないのよっ」
ふく子の声が、怒気を含みはじめた。
「リーダーのあたしが、決めたのよう。リーダーの決定には従ってくださいよう」
「リーダー? 誰が?」
「あたしよう。英語のレッスンが終わったら、エアロビクスのレッスンもやりますよう」
「ふざけたこと言ってるんじゃないわよっ」
もう完全に、ケンカ腰だ。加代子とふく子が睨み合い、遼太郎が泣き顔になりかけているところに、外出から帰ってきた日出生が顔を出した。
「あれ? お前ら、何やってんの?」
「社長。加代子さんが発狂しました」
憤然とした様子で、ふく子が加代子をなじった。
「発狂?」
「突然、英語やらエアロビクスやらのレッスンをやるとか言い出したんです」
「え?」
薫子は、午前中に日出生が加代子と話し合っていたことを思い出した。
「社長。午前中、加代子さんに何て言ったんですか?」
「何てって。加代子はみんなの中でいちばん古いんだから、リーダーシップをとって、大きな視点でみんなのまとめ役や相談役になってくれって」
ようするに現場にタッチするなということを婉曲に言い渡したわけだが、そんな回りくどい言い方は加代子には通じなかった。加代子は三人のリーダーになったつもりであれこれ考えた末、社員教育をしようとしたらしかった。
「加代子……」
日出生は、自分の言ったことが通じていなかったとわかって、がっくりと肩を落とした。
「帰っていいですか」
ふく子は日出生の返事も聞かずに、不機嫌そうに食堂を出て行った。薫子と遼太郎も、その後に続いた。後には、無言のまま佇む加代子と日出生が残された。
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