第17話

一七


 ノックもなく突然ドアが開き、身長一八〇センチを超える大男が乱入してきた。

「社長は、てめえか!」

 社長と間違えられて大男に詰め寄られた遼太郎は、椅子から落ちて腰を抜かし、「ひいい」と情けない悲鳴をあげた。

「た、助けて!」

 大男は、四つん這いで逃げようとする遼太郎の首根っこを軽々と捕まえた。遼太郎の着ていたTシャツが、びりびりと破れた。頭を丸刈りにしたその男の目は真っ赤に血走り、内部で燃え盛る怒りが目から噴き出しているように見える。荒い息づかいをする口からは、強い酒の匂いがこぼれ落ちるように吐き出されてくる。

「社長は、どこだ!」

 遼太郎は、震える指で応接室のドアを指さした。大男は遼太郎を放し、大股で応接室に近づいた。そしてドアノブに触れようとする瞬間、ドアが開き、日出生が顔を出した。

「何? 誰が怒鳴ってんの?」

「てめえか、社長は!」

 いきなり大男に襟首をつかまれ、日出生は喉の奥からひゅうという音を出した。

「な、何するんだ。あんた、誰だ」

 空中に浮かんだ足が、地面を求めてばたばたと動いた。

「俺は萩原智子の夫だ。社長の日出生ってのは、てめえか」

「そ、そうだけど。な、何の用だ」

「きさま。よくも智子を、あんなになるまで働かせやがって」

 男は、日出生をさらに締め上げた。めりめりというイヤな音がした。その様子を見ていたふく子が、薫子の耳もとで囁いた。

「このままほっとくと、社長、死んじゃいませんか?」

「そうかもね」

「死んじゃうと、私、困るんですけど」

「だから、何?」

「止めてくださいよ」

「イヤよ。この前みたいに、とばっちり喰いたくないもの」

 薫子は、日出生の愛人に電話器で殴られて失神したことを思い出した。

「でも、このままだと、本当にヤバそうですよ」

「こういう時は、男の出番でしょ?」

「でも……」

 ふく子は、机の下でがたがたと震えている遼太郎を目で示した。とうてい、役に立ちそうもなかった。あいにく、左文字監督も外出中だった。

「しようがないなあ」

 薫子は外出中の加代子の机の上から小壜を取り上げると、それを持って台所に行った。しばらくすると、薫子はお盆にコップを乗せて戻ってきた。

「あのー、お取り込み中、すみません」

「なんだ!」

 日出生を締めあげて怒鳴りつけていた大男は、鬼のような形相で薫子を睨みつけた。

「一息入れませんか? 喉、乾いたでしょ?」

 大男は差し出されたコップを一息で飲み干し、再び日出生を怒鳴りつけはじめた。だが一分もしないうちに、大男のろれつが怪しくなってきた。やがて体に力も入らなくなってきたのか、日出生を下に降ろし、そのまま床に崩れ落ちると、大きな鼾をかきながら眠ってしまった。

 日出生は床にへたり込み、ぜえぜえと激しく呼吸した。

「し、死ぬかと思った」

 そんな日出生には目もくれず、薫子は大男の腕を引っ張った。

「ふく子さん、手伝って。応接室に閉じ込めるのよ」

「薫子さん、この人に何を飲ませたんですか?」

「目薬入りのウォッカ。学生の頃、後輩の子が悪ガキにこれを飲まされてイタズラされたことがあるのよ。こんなに効くとは思わなかったけど」

「へええ。大学って、そういうことも教えてくれるんですね」

「別に、大学のカリキュラムで習ったわけじゃないわよ。そっち、持って」

 薫子とふく子は大男の腕を引っ張って、ずるずると応接室に運び込み、外から資料の入った重い段ボール箱を積んで閉じ込めた。作業が終わって振り向くと、日出生がまだ苦しそうにしていた。

「社長。目が覚めた後のことは、お願いしますね」

「え? 俺が?」

「だって、警察を呼ぶってわけにもいかないでしょう? うまくやってくださいね。私たち、出かけますから」

 ふく子も、後ろでうんうんとうなずいた。ふと見ると、机の下で遼太郎がまだ震えていた。薫子はしゃがみ込んで遼太郎の背に優しく手を置いた。

「もう大丈夫よ。静かになったから」

 おそるおそる顔をあげた遼太郎は、女のようにすすり泣いていた。

「もう、終わったわよ」

「Tシャツが、Tシャツが破れちゃった……」

 大男に引き裂かれたTシャツが、首の下のあたりにぼろ布のようにぶら下がっていた。遼太郎がいつも着ている、お気に入りの一着だった。

「Tシャツぐらいで、泣かないの。男の子でしょ」

 薫子は自分の机の下の紙袋から、ジュヌヴィエーヴ佐藤のCD販促用に作った安っぽいTシャツを取り出して遼太郎に渡した。先日ロイヤル・レコードに行った時に、出船がくれたものだった。あの門前仲町の一件以来、出船は薫子のことを嫌うどころか、よけいに気に入ったらしかった。顔を出すと、いろいろなものを渡して何かとご機嫌をとろうとする。薫子にとっては煩わしいだけなので、いつも適当にあしらうのだが、そのつれなさが出船にはかえって良いらしかった。

「とりあえず、これ、着てなさい」

「うん」

 遼太郎はしゃくりあげながら、Tシャツを大事そうに抱えて嬉しそうに微笑んだ。薫子は、Tシャツぐらいで喜ぶ遼太郎が気の毒に思えた。


 あすなろプロで、薫子は良太にその話をした。

「もうちょっと、しっかりしてほしいなあ。男の子なんだから」

 机の下で震えていた遼太郎のことだ。

「ああ、薫子さんは知らないんですね。遼太郎さんのこと」

 いつの間にか、呼び方が無量小路さんから薫子さんに変わっていたが、良太にそう呼ばれるのは悪い気がしなかった。

「え、何のこと?」

「遼太郎さんは以前、大変な目にあってるんですよ」

「大変な目って?」

「それがですね」

 遼太郎はドラマ制作を夢見て専門学校を出た後、学校の紹介で、とある映像制作プロダクションに就職した。念願のドラマが作れると歓び勇んで出社すると、そこはポルノビデオの制作会社だった。しかも経営者は高利貸しを兼営するヤクザで、借金が払えなくなった女を無理矢理ポルノビデオに出演させるというタチの悪い会社だった。

 何も知らずにそんなところに飛び込んだ遼太郎は、撮影スタジオ兼用のマンションに閉じ込められ、ほとんどタダ同然で、昼夜をわかたず働かされた。時には、女を強姦する男優もやらされたという。しかも、逃げようとするたびにヤクザに捕まって暴力的な制裁を加えられた。

 一年経った頃にやっとのことで逃げ出せたのだが、日常的な暴力のせいで性格は一変し、極度に暴力を恐れるようになってしまっていた。そして、ヤクザに見つかると命が危ないので、風貌も変え、親元にも帰らず、今でもなるべく外出を控えるようにしているのだという。

「そうだったの」

 薫子は、何も知らずに批難めいたことを言った自分をちょっと反省した。

「だから、クレジットにも入れてないはずですよ」

「クレジットって?」

「ほら、作品の最後に、制作に携わった人の名前を一人々々出すでしょ。あれです」

「ふうん」

「本名や住所は、日出生さんしか知らないと思いますよ」

「そうなんだ」

 遼太郎には、明日からもう少し優しく接してやるか。薫子は、帰りにもう少しましなTシャツでも買っていってやろうと考えた。


 駅への帰り道、ふと家並に目を向けると、そこだけきれいに何もない一画に気が付いた。あの女店主の店があった場所だった。ぽっかりと開いた空間をバックに、電信柱が一本、立っていた。それには、色褪せた文字で「ゴールドコースト別荘三〇〇〇万円より」と書かれた立て看板がくくりつけられていた。

 その看板を眺めるともなく、一人のでっぷりと太った中年男が、軍用の無線機のようにごつい電話器に向かって怒鳴り散らしていた。最近発売された、携帯電話というものらしかった。中年男は電話の向こうの相手に怒鳴るよりも、怒鳴ることでその電話器を周囲に見せつけるのが目的らしかった。

 なるべく中年男を見ないようにして、薫子はその横を通り過ぎた。その薫子を、有名ブランドのブルゾンを無造作に羽織った蕎麦屋の店員が、出前の自転車で颯爽と追い抜いていった。


 SGTに戻ると、すでに大男の姿はなかった。

「ただいまあ」

「ああ、おかえり」

 日出生が、机から顔をあげた。

「萩原さん、帰ったんですか?」

「あ? ああ」

 日出生は、その話題には触れたくなさそうだった。だが、どういう始末をつけたのだろうか。薫子は気になった。

「萩原さん、そうとう怒ってたみたいですけど?」

「そうだね。でも、もう大丈夫だから」

 それきり、日出生は黙ってしまった。

 しかたなく薫子は自分の机に戻り、隣のふく子に小声で聞いた。

「あれから、どうなったの?」

「さあ。私も出かけちゃったので。でも」

「でも?」

「おカネで解決したみたいですよ」

「へえ」

「私が帰ってきた時、あの男がおカネを数えながら出ていったから」

「ふうん」

 日出生は、そのカネをどこから工面したのだろうか。会社にも日出生個人にも、それほどの余裕があるとは思えなかった。薫子の頭に一抹の不安がよぎったが、どうせ人の会社だからと思い直し、気にしないことにした。

 それから薫子は遼太郎の机に行き、包みを差し出した。

「はい、これ」

 不思議そうな顔で、遼太郎は薫子を見上げた。

「そんな安っぽいTシャツじゃ、あんまりだからね」

 包みの中は、あすなろプロの帰りにスーパーで買ったTシャツだった。たいして高級なものではないが、ジュヌヴィエーヴ佐藤のふざけた顔が一面にプリントされた販促用Tシャツよりは、ましだった。

 包みを開けた遼太郎は、しばらく紺色のTシャツをじっと見つめていた。

「どう?」

「……。ヘンな色」

 その一言に、薫子の安全装置がはずれかかった。

「なんですって。せっかく買ってきてあげたのに。イヤなら返しなさいよっ」

「いやっ」

 怒った薫子が取り返そうとすると、遼太郎はTシャツを大事そうに胸に抱えて背を向けた。言葉とは正反対の行動をとる遼太郎に、薫子はとまどった。

「まったくもう。気に入らないなら、はっきりそう言えばいいのに」

 ぶつぶつ言いながら席に戻った薫子に、ふく子がフォローした。

「遼太郎の『ヘン』って言うのは、褒め言葉なんですよ」

「はあ?」

「あの子、ああいう性格だし、語彙が少ないから」

「だけどさあ」

「ほら、気に入ってるみたいですよ」

 ふく子の指さすほうを見ると、遼太郎が紺色のTシャツを嬉しそうに抱きしめているのが見えた。薫子はその姿にそこはかとない切なさを感じ、そっと目をそらせた。

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