第16話
一六
翌朝。薫子がSGTに出社すると、左文字が缶コーヒーと餡パンの食事を摂っていた。昨日の騒ぎは、まだ知らないらしい。
「おはようございます」
「は、ほはようふ」
左文字は、あわてて餡パンを飲み込みながら言った。
「昨日、出かけられた後、お客さんが見えましたよ」
「え、誰?」
「なんか、制服を着た人」
「え。それって、まさか?」
「俺たちは自衛隊で、脱走した人を探してるって威張ってました」
左文字の顔色が、音を立てて変わった。
「そ、それで?」
「写真を見せられたけど、『こんな人、知らない』って言っときました」
「そしたら?」
「『ご協力感謝する』とかなんとか言って、帰りました」
「クソ。もう十年以上前のことなのに。しつこいヤツらだ」
薫子は、左文字の真っ青な顔を覗きこんだ。
「監督。何か、心当たりでも?」
「え? い、いや、何も。心当たりなんか、何もないなあ」
左文字は冷静を装って缶コーヒーをひとくち飲み、ゴホゴホとむせた。自衛隊を脱走してきた過去があることを、自ら暴露した形になった。薫子は、見るからに貧乏そうな左文字からカネをまきあげるつもりはなかったが、いつも無口な左文字をちょっとからかってやりたくなった。
「でね。見せられた写真なんですけど」
「う、うん。写真がどうしたの?」
左文字の額に、うっすらと汗がにじみ出ているのが見えた。
「誰かに、似てる気がするんですよね」
「えっ」
「そういえば、監督の顔に、すごくよく似てるような気がしてきたなあ」
「無量小路さん。それはたぶん、他人のそら似……」
「でも、安心してください。『知らない」って言っておきましたから。もう来ないと思いますよ」
「そうか。いや、ありがとう。あ、いや、俺じゃないけどね」
ほっとしたのか、左文字は少し表情を緩めた。
「でも、『何か気がついたことがあったら、連絡するように』って言われました」
左文字の顔が、またひきつった。
「まさか、無量小路さん。君……」
「安心してください、監督。あたし、そんなつもりありませんから」
薫子は、いかにも意味ありげにウィンクしてみせた。
「そうなの? よかった。あ、いや、俺じゃないけど」
左文字はまた安心したののか、缶コーヒーを口に含んだ。
「はい。今のところは」
「えっ」
激しくむせる左文字に背を向けて、薫子は小さく舌を出した。
その日の午後、韓国から帰ってきた日出生を囲んでお土産のビーフジャーキーを齧っていると、電話が鳴った。何気なく電話に出たふく子の様子が変なことに気づいた日出生は、話を中断してふく子に声をかけた。
「どうした、ふく子?」
「それが、よくわからないんですけど。中央病院からなんです。責任者は、いるかって」
「病院? 人間ドックの営業なら断って」
しばらく相手とやりあっていたふく子が、送話口を押さえて日出生を呼んだ。
「社長。どうしても代わってほしいって」
「しようがねえな。営業ぐらい断ってよ」
日出生は立ち上がり、ふく子と電話を変わった。
「はい、もしもし。私、社長ですけど」
しばらく話を聞いていた日出生は、突然素頓狂な声をあげた。全員の視線が、日出生に集中した。
「はい、はい。それで容態は? はあはあ、わかりました。すぐに参ります」
受話器を置いた日出生が、あわてた様子で外出の支度をはじめた。
「どうしたんですか?」
「いやね。智子が駅で倒れて、救急車で運ばれたんだってさ」
「ええっ」
いつも青い顔をしてため息をつき、気がつくとビタミン剤をむさぼるように齧っていた智子が、ついに力つきて昏倒したらしい。もともと体が弱かった智子が、無理に無理を重ねた末のダウンだった。現場には、警官も出動する騒ぎになったという。
「了くん。智子の容態しだいでは、別の色彩指定の人、見つけないといけないかもしれないな」
「はあ」
「心当たり、ある?」
「いえ」
「そうか」
「加代子。ちょっと病院へ行ってくるから、後を頼む」
「はあい」
日出生があわただしく出かけていくと、事務所の中はお通夜のように静かになった。ビーフジャーキーを齧りながらのムダ話という雰囲気でもなくなったので、それぞれ首をポキポキ鳴らしたり屈伸運動をしながら仕事に戻っていった。残ったジャーキーは、みんなの目が離れたのを見計らって、ふく子がそっと自分の机にしまい込んだ。
数時間後、日出生が病院から電話をかけてきた。電話を受けた加代子の話によると、智子は極度の疲労で、最低一年の入院が必要らしいとのことだった。
「えー、一年も? 智子さん、そんなに悪かったの?」
「知らないよう。社長が、そう言ってたんだもん」
「ホントに、社長がそう言ってたの?」
「うん。一〇〇日ぐらいは入院が必要かもしれないって」
「一年じゃ、ないじゃん」
「え? だって、一〇〇日は一年でしょ?」
「え?」
薫子とふく子は、顔を見合わせた。冗談だと思ったが、加代子の真剣そうな表情には、冗談を言っている雰囲気はなかった。
「あのねえ」
二月を除いて一ヵ月は三〇日か三一日で、一二ヵ月で一年になると教えると、加代子は心の底から意外そうな顔をした。
「いつから、そうなったのよう」
「いつからって、昔っからよ!」
ふく子は、腹立たしげに声を荒らげた。
翌日。あすなろプロへ出かけた薫子は、良太に萩原智子が倒れた話をした。
「そうなのよ。一〇〇日ぐらい、入院加療が必要なんだって」
「それは、たいへんですね。萩原さんも、SGTさんも」
「かわりの色彩指定の人も、見つからないらしいのよ」
それを聞いていた横山が、横から口を出してきた。
「それなら、アイツなんか、どうだい? ホラ、田渕だっけ? 馬淵だっけ?」
「ああ、
良太は、その整った顔を少し曇らせた。
「何か問題があるの? その人」
「あの人、自分が気に入った仕事しかしないですから。ふだんは埼玉の田舎で野菜育てたり魚採ったりしてて、自給自足の生活してるんですよ」
「へえ」
薫子は、気のなさそうな返事をした。新しい色彩指定の人を見つけるのは、日出生の仕事だ。しかし、日出生がこの件で本当に困るようなら、教えてやってもいいかなと思った。
駅までの帰り道をてくてくと歩いていると、やや遠くに、黄色く塗られた鉄の塊が荒々しく動き回りながら砂埃をまきあげているのが見えた。いやな予感がした。薫子は足を早め、例の女店主の店へと急いだ。
この前までそこにあった古い店は、すでに形がなかった。正確には、奥のほうにわずかに残された壁だけが、そこに建物があった痕跡をかろうじて示していた。黄色い重機が、敷地いっぱいに散乱した残骸の真ん中で怪獣映画の主人公のように暴れまわっている。作業員がホースで振り掛ける水が、人間どもがしかける無力な攻撃のようにも見えた。
声も出せずに、薫子は立ちつくした。無惨な光景だった。だが、そういう時代だった。今年の初めに、それまで右肩上がりで上昇を続けてきた株価はすでにピークアウトし、土地の価格も下がりはじめる徴候を見せていた。にもかかわらず、日本中はまだ何かに取り憑かれたように危なっかしい金儲けに没頭していた。なかでも、再開発と称して古いものがあればただちに消し去り、その跡に何か新奇なものをでっちあげる作業は、金儲けの後ろめたさを打ち消すかのようにさらに過激さを増しているようにも見えた。日本全体が発狂している時代だった。
薫子は軽く頭を振ってその場を立ち去ろうとすると、道を挟んだ反対側の家の影に女店主がいるのが見えた。声をかけようとしたが、薫子はその表情を見てためらった。悲しみと、怒りと、切なさと、諦めの混じりあった凄まじい形相だった。
昨日まで自らの生活を営んでいたはずの建物が、目の前で完膚なきまでに破壊しつくされつつあった。喜びと悲しみ、笑いと涙、そして出会いと別れ———何十年もの歳月を刻み込んだ記憶の重みは塵ほども顧みられることなく、単なる廃材のかたまりと化しつつあった。
結局、薫子は声をかけずにそのままその場を離れた。もう一度振り返ると、さっきと同じ場所に、同じ姿勢で、あの女店主が取り壊し作業をじっと見つめていた。女店主の影が、道路に描いた絵のようにぴくりとも動かなかった。
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