第15話
一五
熊原からもらってきた二巻の脚本を、薫子は左文字に渡した。髪や髭は伸び放題、目の下には黒くクマができている。相当に疲労がたまっているようだった。どことなく、異臭も漂いはじめている。昼夜を問わずあがってくるセル画のチェックに終われ、シャワーを浴びる暇もないらしい。
左文字は薫子の差し出した封筒を黙って受け取り、中身を取り出して読みはじめた。薫子は自分の席に戻り、これから行かなければならない下請けのリストをチェックしはじめた。
五分ほどたった頃、背後で突然、大きな罵声と同時に机に手を叩きつける音が響いた。
「バカヤロー!」
薫子は、椅子の上で飛び上がった。
「ど、どうしたんですか?」
おそるおそる薫子が聞くと、左文字は無理に平静を保った声で答えた。
「あ、君には関係ないから。気にしないで」
そう言われても、いきなり怒鳴りつけられて気にするなと言うほうが無理だ。
「脚本に、何か問題でも?」
ふく子が、心配そうに口を出した。
「いや。大丈夫。大丈夫だから。絶対、大丈夫だから」
左文字はふく子に掌をかざしながら、そう言った。その言葉は、左文字が自分自身に言い聞かせているように聞こえた。だが左文字の顔は、奇妙に歪んでいた。しばらく息を整えていた左文字は、おもむろに電話器を取り上げ、番号をプッシュした。おそらく、相手は熊原だろう。だが、電話はつながらなかった。
「ちょっと、出てくる」
そう言うと左文字は立ち上がり、少しふらつきながら外へ出ていった。
夕方にあすなろプロを訪れた薫子は、動画が描きあがる間、手の空いていた良太とつかの間のおしゃべりを楽しんだ。
「なんか、左文字監督が怒っちゃってさあ」
「脚本は、熊原さんでしたよね」
「そうなの。デブの。知ってる?」
「あ、いえ。会ったことはありませんけど」
「イヤミなヤツなのよ。この前もさあ、私のこと離婚してるってバカにして」
「無量小路さん、離婚してるんですか?」
良太は、ちょっとびっくりしたような顔をした。
「そんなことは、どうでもいいの。その熊原がさあ」
「でも熊原さん、すごくいいストーリー書きますよ。脱線が多いけど」
「ああ、やっぱり。この二巻もさあ、いきなり魔法ファンタジーになっちゃってて」
「それで、左文字さんは怒ったんでしょうね。あの人、最初の構想を崩されるの、とってもいやがるから」
「良太くんって、詳しいわね」
「そんなことないですよ。ボクなんか」
隣で会話を聞くともなく聞いていた年輩のスタッフが、横から口を出した。
「コイツは、ホントよく知ってるよお。あらゆる作品のスタッフの名前が、ソラで言えるんだぜ。何月何日に放映されたかまで覚えてるんだ」
「ほんと?」
「ええ、まあ」
「へえ」
「ちょっと試してみようか。『めがねざるキッキ』で、主人公キッキが悪いハンターに捕まってニューヨークに送られたのは?」
「第四回ですね。放送は、昭和六一年四月二八日です。ちなみに、作画には横山先輩も加わってますね」
「じゃあ、『東京サイボーグ・ポリス』の主人公・真田ヒロシがコラプスの首領・バイカーに捕まって再手術されそうになったのは?」
「第一一回で、放送は、昭和六三年九月一六日です。これも、作画には先輩が加わってます」
「ほらね」
横山というらしい年輩の男は、手がつけられないといった様子で肩をすくめた。
「ホントに詳しいのね。それってやっぱり、アニメが好きだから?」
「はい」
良太は、きっぱりと言った。
「ふうん」
薫子の反応を、良太は訝しんだ。
「え? だって無量小路さんも、好きだからこの世界に入ったんでしょ?」
「あたしは……」
薫子は口をつぐんだ。この世界に入ったのは、ほんの偶然にすぎない。アニメのこともよく知らないし、この良太のような深い思い入れもない。だがこの世界を覗いてみてわかったのは、彼に限らず、アニメを心から愛している人間ばかりだということだ。うっかりすればアニメのためならカネも要らない、とさえ言い出しかねない。とうよりも、現実にそれに近い生活をしている。
バカだとも思うが、一方で自分の全てを賭けるものがあるのが羨ましくもある。ひるがえって自分はと言えば、人生を賭けるものなど何もない。それどころか、何か気に入らないなことがあれば、いつでもこの世界からオサラバするつもりでいる。そんないいかげんな女が、良太のよう一途な人間たちに混じって仕事するふりをしていてもいいものなのか、とも思うのだった。
ちょっとアンニュイな気分になりかけて駅への道を歩いていると、またあの古い店が見えてきた。ちょっと気分直しに寄っていくか。薫子は、重いガラス戸をガラガラと開けた。この前と同じように、レジの横の椅子に、女店主がちょこん座っていた。
「こんにちは」
「あら、いらっしゃい」
薫子の顔を、女店主はなんとなく覚えていたようだった。
「何にします?」
「じゃ、今日は、お稲荷さんと干瓢巻きを二つずつ」
「はい」
皿に乗せた稲荷寿司と海苔巻きが、お茶といっしょに運ばれてきた。多めの砂糖で煮た油揚げと干瓢の甘さが、舌を優しく包み込んだ。
「ああ、おいしかった。ごちそうさま」
食べ終わった薫子がそう言うと、女店主は別の小皿をテーブルに乗せた。
「そう? じゃ、これサービス」
大きな、ぼたもちだった。
「大きい」
その感動的な大きさに驚嘆していると、女店主は嬉しそうに微笑んだ。
十分近い格闘の末にようやくぼたもちを平らげ、薫子は満足して立ち上がった。いささか、腹が重かった。胃のあたりをさすりながら、支払いを済ませた。
「ありがとね」
女店主の顔は、やや寂しげだった。それがなぜななのか、薫子にはわからなかった。
すっかり日が暮れてからSGTに戻ると、いたのはふく子だけだった。
「あ、おかえりなさい」
「みんな、まだ?」
加代子も遼太郎も、まだ帰ってきていないらしい。智子は、今日も休みをとっていた。
「そうみたいですね。わたしも、今帰ってきたばかりで……」
ふく子が言い終える前に、予期せぬことが起こった。突然入り口のドアが開き、五、六人の見慣れない男たちが室内に乱入してきた。
「探せ。お前は、あっちだ」
男たちはみな背が高くて体格がよく、カーキ色の制服を着ている。どうやら自衛隊員のようだ。指揮官らしい男の命令に従って部屋のあちこちに散った男たちは、全てのドアを開け、机の下や物陰を覗きはじめた。
「何これ。何なのよ、これ」
ふく子が悲鳴のような声をあげて怯えた。自衛隊員はそんなふく子には見向きもせず、何かを探している。
「ちょっと、あんたたち!」
薫子は、指揮官らしい男に歩み寄って抗議した。しかし男は、薫子を完全に無視した。
やがて、何かを探していた部下の一人が指揮官に報告した。
「いません」
指揮官はうなずき、はじめて薫子のほうを向いた。
「おい、きさま」
高飛車な口調だった。薫子は、むっとした。
「われ、誰にものを言っとんじゃあ」
金融屋には効果を発揮した広島弁も、自衛隊には通じなかった。
「きさま。こういう男を知らんか?」
指揮官は、一枚の白黒写真を出してみせた。写真の中の男は若く、髪型こそ短髪にしているが、それは左文字監督に違いなかった。薫子はなんとなくキナくさいものを感じ、とぼけた。
「誰か、こりゃあ?」
「知らんのか?」
「見たこと、ないのう」
「くそ、無駄足だったか。行くぞ」
上官らしいその男は、他の男たちに命令し、ドアから出ていこうとした。
「待たんかい」
薫子はドアの前にまわり込み、男の進路をふさいだ。
「人の事務所に勝手にあがり込んで、一言の説明もないんかい。そんならこっちにも考えがあるで。ふく子さん、警察呼びやい」
ハイとふく子は返事し、電話器を取り上げた。指揮官は軽く舌打ちし、薫子の顔を見下ろした。
「わかった。いま説明する。この男は、自衛隊を脱走したんだ。我々は、奴を隊に連れ帰るために探しているんだ」
「なんで、ここに来たんか?」
「似た者が出入りしているという目撃情報があったんだ」
「誰からの、タレコミか?」
「それは、言えん。ご協力、感謝する」
公務とはいえ、警察を呼ばれると面倒だと思ったのか、自衛隊員たちは大きな足音を立てて帰っていった。
「ふく子さん。塩、ある?」
薫子が聞くと、ふく子が抽出しから小さなテーブル食塩のビンを出してきた。中身は、少ししか残っていない。
「これだけ?」
「はい」
しかたがない。薫子はフタをとり、中身を自衛隊員の背中にぶちまけた。隊員の帽子から背中にかけて、申し訳程度の塩がへばりついた。あまりに少量で、隊員は塩をかけられたことにさえ気がつかないようだった。
「薫子さん」
ふく子が感激したような目で、薫子を見つめている。
「薫子さん、すごい」
こんな場所でもし暴力沙汰でも起こしたら、あの自衛隊員たちは捜索の継続どころか、懲戒ものだ。それがわかっているから、さっきのような態度もできたのだ。別にたいしたことではないのだが、ふく子が勝手に尊敬してくれるのなら、そのままにしておこうと思った。
「ふん。やぁりおってからに」
鼻をふくらませる薫子に、ふく子が尋ねた。
「薫子さんって、前はヤクザだったんですか?」
「はあ? 何でよっ」
ふく子の思いがけない反応に、薫子はとまどった。
「だって、広島弁だし」
「前に、広島の田舎で何年か暮らしたことがあるだけよ」
「そうかあ。ヤクザだったのかあ。どうりで肝がすわってると思った」
「違うって言ってるでしょっ」
「え、どうして? 広島の人って、みんなヤクザじゃないんですか?」
ふく子のあまりの無知に、薫子は反論する気力が萎えた。どこかの映画会社が作った一連のヤクザ映画の存在を、心から呪った。
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