第14話

一四


 翌日。薫子は、午前中に熊原の自宅アパートを訪れた。熊原は、いかにも迷惑そうな顔をしてドアを開けた。徹夜明けの熊原にとっては、寝込みを襲われたことになる。

「また、あんたかよ」

「二巻の脚本、できてますか?」

「まだだよ」

「そう。せっかく持ってきたのにな。じゃ、これはウチのスタッフで食べようっと」

 薫子は、大きなプリンが四つ入った紙の箱を抱くようにして後ろを向いた。

「なに? 何か持ってきてくれたの?」

「プリンですけど。脚本ができてないんじゃしょうがないや。いや、お邪魔しました」

「ちょ、ちょっと待って。ほとんど書き上がっているんだけど。まだ、ちょっと付け加えたい部分があってさあ」

 熊原は薫子から半ば強引にプリンの箱を奪い取り、部屋に招き入れた。プリンは熊原の大好物だということは、加代子から聞いていた。用意した作戦が、まんまと効を奏した。

 部屋は六畳一間だが、意外に生活臭がなく、かなり小奇麗に整理されていた。部屋の中には大量の資料とおぼしき本や雑誌と、アニメ業界ではまだ珍しいパソコン、それもマッキントッシュという高級機が机の上にデンと置かれていた。

「意外と、きれいなんですね」

 感心したように、薫子はつぶやいた。

「ここは、仕事場だから」

「ここでは、生活してないんですか?」

 熊原はそれには答えず、茶色の封筒を投げてよこした。

「なんだ、できてるんじゃないですか」

「いや、まあ」

「拝見します」

 薫子は、封筒から紙の束を取り出した。前回のような原稿用紙ではなく、白い紙に活字のようなきれいな文字が並んでいた。パソコンで書き、プリンターで印字したものだった。



プリシャス・テンプテーション(第二巻)


主な登場人物

花川戸はるか  中学二年生。主人公。性格は明るいがドジ。背が低いのがコンプレックス。

錦織浩一郎   中学三年生。生徒会長。スポーツ万能で成績優秀。はるかがひそかに思いを寄せる。

伊佐山ジュン  中学二年生。はるかのクラスメート。めがね。

三条ユキ    中学三年生。大財閥三条家の跡取り娘。気位が高い。

ユリ・ヴァン・ダー・リンデン 中学二年生。帰国子女。謎めいた美少女。

ユリコ先生   はるかのクラス担任。

マサシ     オオアリクイの子供

マサシの母   オオアリクイ


 テニスコート。ユキがテニス部員の一人と練習試合をしている。激しいラリーの末、ユキのバックハンドが決まる。相手の部員はボールに翻弄されるようにコートに倒れる。ところが、コートの向こう側でもユキが倒れている。

部員「三条先輩!」

 あわてて駆け寄る部員たち。ユキは、ぐったりしたまま動かない。

 場面変わって、体育館。錦織たちがバスケットボールをしている。パスが通り、錦織にボールが渡った。錦織はドリブルで相手のプレイヤーを次々にかわし、ダンクシュートを決める。いつもなら軽やかにコートに降り立つはずだが、錦織は空中で意識を失い、そのままコートの端に倒れ込む。

コーチ「どうした、錦織?」

 コーチが駆け寄り、抱き起こすが、錦織は意識を失ったままだ。

 さらに場面変わって、音楽室。はるかが他のブラバン部員とともにフルートの練習をしている。遠くから救急車のサイレンが近づいていくる。その音に重なるように、ジュンが音楽室に飛び込んでくる。

ジュン「タイヘンよ、はるか!」

はるか「何よ。あんたのタイヘンは、あてにならないからなあ。この前だって『タイヘン、タイヘン』って大騒ぎして、何かと思ったらお弁当にウィンナを入れ忘れたって……」

ジュン「今度は、本当にタイヘンなのよ」

はるか「どうしたのよ」

ジュン「三条先輩と錦織先輩が倒れて、救急車で運ばれたのよ」

はるか「えっ、何で? ケガ?」

ジュン「そんなこと、知らないわよ」

 いてもたってもいられなくなったはるか。フルートを放り出すと、音楽室を走り出ていく。

 

 うんうん。なかなかいい滑り出しではないか。薫子は満足げにうなずきながら読み進んだ。

 病院に駆けつけたはるかは、はるかの担任でテニス部の顧問でもあるユリコ先生に、病室に入ることを止められる。そしてユリコ先生から、二人はほぼ同時に昏睡状態に陥り、今もその状態が続いている。原因はわからないと告げられる。はるかは二人がいっしょに昏倒したことが気になった。もしかしたら、あの蛹に関係するのではないか? 気がかりなはるかは、深夜の動物園にあのオオアリクイの母を訪ねる。


はるか「こんばんは。オオアリクイさん」

オオアリクイの母「ああ、あなたは、この間の」

はるか「あの、オオアリクイさん。聞きたいことがあるんですが」

オオアリクイの母「本当は、オオアリクイと人間がこんなふうに話すのは、いいことではないのよ。なにしろ人間と私たちオオアリクイの間には、超えられない溝があるの。海より深い溝がね」

はるか「それは、この前も聞きました」

 ちょっと絶句するオオアリクイの母。

オオアリクイの母「……。それで、聞きたいことって何?」

はるか「オオアリクイさんがくれた蛹なんですけど」

オオアリクイの母「それが?」

はるか「あれを使った二人が、昏睡状態になってしまったんです。オオアリクイさん、何かご存知ありませんか?」

オオアリクイの母「え? おかしいわね。そんなはずは……」

 長い吻で自分の腹のあたりを探るオオアリクイの母。はっとして、急にソワソワし、目が宙を泳ぎはじめる。その様子を見たはるかが詰め寄る。

はるか「何か、知ってるんですね?」

オオアリクイの母「いえ、その」

 挙動不審になるオオアリクイの母。

はるか「知ってるんですね?」

 さらに詰め寄るはるか。

オオアリクイの母「実は……」

 

 オオアリクイの母は、渡す蛹をまちがえたという。はるかに渡したのは、この世では結ばれない運命の二人が永遠の眠りにつくための蛹だった。そして二人の目を覚ますには、鏡の向こう側に広がる魔法の国シンファの果て、アレク山の山頂に生える霊草マフロンを飲ませなくてはならないという。だが、シンファは人間の立ち入りを許さなかった。

 その昔、人間はシンファを侵略し、シンファの生き物をたくさん殺した。そのためシンファは人間界との通路を閉じ、人間の見張り役としてオオアリクイを遣わした。オオアリクイは、シンファに関する人間の記憶を発見し、食べる役割を負っていた。


はるか「記憶を食べる? それってバクなんじゃあ……」

オオアリクイの母「バクが食べるのは、夢。あんな下等動物といっしょにしないでよ」

 怒るオオアリクイの母。

はるか「すみません」


 バクは、オオリアクイよりも下等だったのか。薫子はどっちも同じようなものではないかという気がしたが、黙って読み進めた。


オオアリクイの母「シンファに行ったら、もう人間の世界には戻れないかもしれないのよ」

はるか「それでもかまいません」

オオアリクイの母「しかたがないわ。もとはといえば私の責任でもあるし。案内役に、マサシをつけてあげます。その鏡の前に立って」

 「世界でもっとも厄介な生物」と書かれた鏡の前に立つはるかとマサシ。なにやら呪文を唱えるオオアリクイの母。はるかのまわりが光で満ちあふれ、一瞬にしてはるかとマサシが消える。物陰からその様子をうかがっていたユリが、間髪を入れずその光の中に飛び込む。


 はるかが転生したのは、シンファ乗っ取りを企む神官ラマスの呪いで眠らされていたシンファの王女フューラの肉体だった。フューラの体を得て王宮を抜け出したはるかとマサシは、さまざまな困難の末にアレク山の山頂にたどり着き、悪の魔法使いバルキュスとの壮絶な戦いの末、霊草マフロンを手に入れる。だが、人間世界に戻ろうとするはるかたちの前に、ユリが立ちふさがった。ユリは実はラマスの娘で、フューラの肉体を手に入れてシンファの支配を目論んでいたのだが、フューラとの魔法戦で人間界にはじき飛ばされていたのだった。


 ユリに羽交い締めにされ、肉体を乗っとられようとするはるか。最後の瞬間が近づく。

フューラ(はるか)「(マフロンを差し出し)これを、二人に持っていって」

マサシ「はるかは、どうするんだ」

フューラ(はるか)「あたしは、いいの。早く」

 マサシがマフロンを受け取った瞬間、フューラと融合するユリ。不気味に笑うフューラ(ユリ)。体のまわりに妖しい妖気が漂う。

フューラ(ユリ)「ようやく成就した。これで、シンファは救われる」

 激しい閃光とともに、消え去るフューラ(ユリ)。ひとり残されるマサシ。

マサシ「はるかぁ、はるかぁ」

 雷鳴と閃光がとどろくなか、いつまでも叫び続けるマサシ。やがて上方にパンして暗闇へ。エンディング・ロール重なる。


 学園ラブストーリーが、いきなり魔法の国のファンタジーになってしまったことにとまどいつつも、薫子はけっこう満足していた。こういう話も、きらいなほうではなかった。感想を言おうと思い熊原を見ると、テーブルの上に空になったプリンの容器が四つ、ほうり出されているのが見えた。

「プリンは?」

「全部、食べた」

 熊原は、満足そうにゲップをした。薫子の表情が、急に険しくなった。

「何で、全部食べちゃうのよ。私も食べるつもりで買ってきたんだからね。けっこう高かったんだからね。せめて一つぐらい残しときなさいよ」

「そんなこと知らねえよ。もう食っちまったよ」

「ひどぉい」

「もういいだろ。脚本も渡したんだから、早く帰れよ」

 プリンを全部食べられて機嫌が悪くなった薫子は、ひとこと言い返したくなった。

「あんたねえ、そういう態度だから女にもてないのよ」

「別にもう、もてなくてもかまわねえよ」

「なんでよ。年とってから、寂しいわよ」

「残念でした。オレ、もうすぐ結婚するんだもんね。それも、スチュワーデスと」

「へ?」

「マンションで、もういっしょに暮らしてるんだもんね。彼女、国際線のスチュワーデスだからさあ、給料がいいのよ。ハイライフっちゅうやつよ」

 嬉しそうにのろける熊原の言葉は、薫子を打ちのめすに十分だった。こんなデブでもいいという女がいることが、信じられなかった。動揺する薫子に、熊原が追い討ちをかけた。

「加代子から聞いたぞ。あんた、離婚してんだってな。人の心配より、自分の心配したほうがいいんじゃねえのか? 年とってから、寂しいぞ」

 あたしにだっているもんね、と言いかけて薫子は口を閉じた。伊東とは、ここ数週間会っていなかった。今後いつ会えるかもわからない。こんな調子では、いつ嫌われてもおかしくないではないか。口喧嘩モードから、薫子は急速に自分のテンションがしぼんでいくのを感じた。

「さよなら」

「あ、おい。どうしたんだよ。もう終わりかぁ?」

 熊原の言葉を背に受けながら、薫子は来た道をとぼとぼと戻っていった。

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