第13話
一三
薫子がマチキンから受け取ってきた一五〇万円のおかげで、動画の描き直しは無事にスタートした。とはいえ、ぎりぎりのスケジュールに変わりはない。制作進行は、想像を絶する忙しさに追い込まれることになった。朝から晩まで作画スタッフにみっちりと張り付き、描き上がったものを横からさらうように引きあげ、SGTに泊まり込みで待機する左文字監督のチェックを受け、OKになったものを片っ端からセル画転写や撮影にまわすという綱渡りのような仕事が休みなく続いた。
薫子も何軒かの作画会社をまかされ、早朝から夜中まで作画会社とSGT、そして撮影所の間をひんぱんに飛び回るハメになった。伊東とも、まったく会う時間がなくなった。たまに電話で話をすると、「会えなくて寂しい」などと言われるのが辛かった。
今日も朝から、古いアパートの一室を借りて営業している作画会社「あすなろプロ」を訪れた。ドアをノックしても返事がない。そんなことにはもう慣れたが、この前のように全員倒れていたりするのではないかなどと想像すると、ドアノブを引くのが少しためらわれた。
中を覗くと、誰もいないようだった。薫子は勝手に上がり込み、机の上を調べた。動画は、あらかたできあがっているようだった。どうやらスタッフたちは徹夜明けで、朝飯でも食べ行っているのかもしれない。とりあえず誰かが帰ってくるまで、待たなくてはならない。お茶でももらおうと思って勝手に台所に入ると、目の端に奇妙なものが見えた。台所の隅に置かれた洗濯機の上に、人間の首のようなものがある。
薫子は錯覚かと思って、目を凝らした。だがそれは、見れば見るほど人間の首に見える。ナチュラルにカールした髪に、大きめの目。美容院で使うカット練習用の首だろうか。でもなんで、そんなものがここに? 薫子は警戒しながら、一歩一歩洗濯機に近づいた。
「お、おはようございます」
「ぎゃあああっ」
人形だと思っていた首にいきなり挨拶され、薫子は腰を抜かした。
「あ、あんた誰?」
「ぼ、僕は、ここで働いている小椋(おぐら)良太(りょうた)ですけど。あなたこそ、誰ですか?」
「あたしは、スタジオSGTの無量小路よ。動画を受け取りに来たの」
「ああ、元請けさんですね」
「あんた、そこで何してるの?」
薫子は、洗濯機の中にはまり込んだ若い男の異様な姿を、危ないものでも見るような目つきで見つめた。
「体、洗ってたんです。ここ、お風呂がないもんで」
それなら銭湯へ行けばいいじゃないのと言おうとして、薫子は口をつぐんだ。この男の子は給料が安く、銭湯へ行く金もないに違いない。よく見ると小椋良太と名乗った若い男は色が白く、女の子のようにきれいで整った顔をしていた。美形が好きな薫子が思わず見とれていると、小椋は頬を赤らめた。
「あの、悪いんですけど。向こうのタオル、取ってくれませんか?」
「水浴びするのなら、タオルぐらい持っていきなさいよ」
薫子は、作業場にあったタオルを良太に渡してやった。
「すみません。誰か来るとは思わなかったもんで」
服を着て薫子の前に現れた良太は、驚くほどスリムだった。声さえ出さなければ、女性といっても通用するのではないか。女装させて会わせたら、ロイヤル・レコードの出船部長なら絶対手を出すに違いないと、薫子は思った。
「どうしてまた、洗濯機なんかで?」
シャワーもないこの作業場で、良太は徹夜明けの疲れた体をさっぱりさせる方法をいろいろ考えたという。最初は流しを試みたが、小さすぎて無理だった。そして次に洗濯機を試したところ、あんがい具合が良かったらしい。今日も、いつものように洗濯機に入って体を洗っている時に、運悪く薫子が訪ねてきたという。
「あははははははは」
「そんなに、笑わないでください」
「ごめん、ごめん。あんまりおかしかったもんだから」
そういって純情そうに顔を赤らめる良太を、薫子は好ましく思った。むさくるしくて暗い男が多いこの業界で、いいものを見つけた。この子を見に来るだけでも、生活に潤いが出るというものだ。薫子は、先ほどの恥じらう姿を思い出し、ちょっとからかってやりたくなった。
「小椋くんは、恋人いるの?」
「え、いきなり何ですか?」
薫子の予想どおりに、良太はまた頬を赤くした。
「いるの? いないの?」
「いません」
「どんな女の人が好きなの?」
「え? あの、その」
「年上は、イヤ?」
良太は返事をせず、恥ずかしそうにうつむいた。薫子には良太をどうこうしようという魂胆はなかったが、ここに来る楽しみができたと思った。
ちょっと楽しい気分になって駅までの道を歩いていると、商店街の一角に、まわりをコンクリートの建物に囲まれ、ひときわ古さが目立つ木造の商店が見えた。思わず立ち止まってよく見ると、その建物は昔ながらの瓦葺きで、一階の商店部分が二階の住居部分より前に張り出した構造になっていた。たまに古い映画などで見かける、戦前の商店そのものだった。
へえ、今でもこんな建物が残ってるんだ。薫子は興味をひかれ、ガラス戸の奥を覗いてみると、中にいた六十代ぐらいの店主らしい女性とたまたま目が合ってしまった。女店主はにっこりと微笑み、軽く会釈した。薫子はどうしようかと思ったが、このまま素通りするのも悪いと思い、思い切ってガラス戸を開けて中に入った。
「いらっしゃいませ」
「あの、あんまり素敵なお店だったんで思わず入っちゃったんですけど、ここは?」
「ほほほ。あんまり古ぼけた店で、びっくりしたんでしょ」
女店主は、口に手を当てて上品に笑った。
「元は和菓子屋なんだけれど、お稲荷さんや支那そばもあるのよ。何か、お食べになる?」
女店主が指さす先にはガラスのケースがあり、その中におはぎやら団子やらがアルミのトレイに乗せられて陳列されていた。また店の右半分には客席がしつらえてあり、そこで何かを注文して食べることもできるようだった。
「あ、じゃあ、ラーメンください」
ちょうど、小腹も空いてくる時間だった。
「はい、支那そばね」
女店主は奥に入り、自分で調理をはじめた。薫子が店内を見回すと、壁の一角に、サインが書かれた十数枚の色紙が並べて貼ってあった。誰のもなのかはわからなかったが、この店の古さに惹かれてか、有名人もここへ来るらしかった。
やがて、女店主が支那そばを運んできた。透明なスープからは鰹節と醤油の香りが立ちのぼり、薫子の食欲を刺激した。支那そばは、ことのほかうまかった。赤く縁取られたチャーシューが今どき珍しく、懐かしかった。薫子は夢中で食べ、スープをすすった。
「ごちそうさま。おいしかった」
「そう、それはよかった」
レジスターの横の赤い丸椅子にちょこんと座った女店主は、にっこりと微笑んだ。
「おいくらですか?」
「三〇〇円ね」
「え?」
いまどき、三〇〇円ではコーヒー一杯も飲めない。薫子は自分の耳を疑った。
「ずっと、この値段でやってるのよ。ウチあたりへ来るお客さんには、お金持ちなんかいないからね」
「そうなんですか」
「でも、いつまでやっていけるか……」
そういうと女店主は、表情を暗くした。薫子は、何と言っていいのかわからず、小さな声で「また来ます」とだけ言って店を出た。
薫子と入れ違いに、縦縞の派手な背広を着た二人づれが店に入っていった。
「お、ここだ、ここだ。レトロなラーメンを出すって評判の……」
店の構えとはあまりににも不釣り合いな客だった。薫子は、足を早めてそこから離れた。店の前には、男たちが乗ってきたらしい高級セダンが、通行人の邪魔も考えずにデンと駐車していた。
夕方、SGTに戻ると、日出生が大きなスーツケースを抱えてどこかへ出かけようとしていた。
「社長。どこへ行くんですか? この忙しい時に」
「うん。ちょっと韓国へね」
「韓国? 新しい愛人探しですか?」
薫子は、日出生の顔をじっと覗き込んだ。
「いやいや、そんなことしに行くわけじゃないよ」
日出生は、あわてて否定した。
「じゃあ、何で行くんですか。このクソ忙しい時に」
「今の下請けさんだけじゃ間に合いそうもないから、韓国にも仕上げを頼もうと思ってさ」
現在は韓国に替わって中国が中心になっているが、一九九〇年代は、韓国が仕上げの下請けを一手に引き受けていた。
「へえ、そうなんですか」
「そういうわけだから。二、三日、留守を頼むよ」
「はあい」
「あ、それから、明日にでも熊原と連絡をとって、二巻の脚本をもらってきておいてくれよ」
「え、あたしがですか?」
薫子は、初対面の時に「オバさん」と言われたことを思い出した。
「熊原のやつ、君の言うことは素直に聞くみたいじゃないか」
「そうですかねえ」
「惚れてるんじゃないか? 君に」
「冗談じゃない、やめてください。縁起でもない」
薫子は、あわてて胸の前で手を振った。
「タイプじゃないかい? ああいうのは」
「デブは、大っ嫌いです」
「どうして?」
「だって見ていて暑苦しいし、だいいちたくさん食べるから不経済だし」
「あいつは、珍しく太ってるんだよなあ。痩せてるやつが多いこの業界で」
熊原の体形は業界の七不思議の一つになっていると言い出し、日出生は残りの六つを説明しようとした。薫子はそんなことには興味がなかったので、別のことを尋ねた。
「奥さんは、この出張のこと、ご存知なんですか?」
みるみるうちに、日出生の顔色が変わった。
「取材で、福井に行くことにしてあるんだ。頼むから、そういうことにしておいてくれないか」
日出生は、薫子に目で哀願した。
「私は、かまいませんが」
薫子は、意味ありげに視線を斜め上方に動かした。
「わかった。わかったよ」
日出生はズボンのポケットから財布を取り出し、薫子に数枚の紙幣を渡した。
「毎度ありー。お気をつけて、いってらっしゃいまし」
薫子は、ドアを出ていく日出生に向かって深々と一礼した。
その日は比較的早く帰れたので、伊東に電話した。食事に誘うと、伊東はいかにも残念そうな声を出した。「今日は、どうしても抜けられない町内の寄り合いがあるんですよ。くそう、こんな日にかぎって。残念だなあ」
「そうなの。残念。じゃ、またね」
あてが外れた薫子は、貴和子を呼び出した。日出生からまきあげたお金で、前々から行ってみたかった懐石料理屋に行くことにした。自由が丘のちょっと奥まったところにあるその店は、蔵を模した外装をもつシックな建物だった。飛び込みだったので少し待たされたが、次々に出される料理はどれもそうとうに凝ったもので、お酒もうまかった。
「このお椀、おいしいね」
「豌豆のお椀だって」
貴和子が、献立を読み上げた。
「それより、アンタ。伊東さんとは、どうなのよ?」
「今日も誘ったんだけど、寄り合いなんだって」
「ふうん。伊東さんにふられたんで、アタシを誘ったのか」
「ほういうわへじゃないへどさ」
薫子は、次に出された牛肉の握り寿司を頬張りながら答えた。
「で、仕事のほうは?」
「メチャクチャよ、もう」
「なんで?」
「セル画が盗まれちゃって、もう、てんやわんや」
「セル画って、何?」
「アニメの絵を描いた、透明なシートみたいなもん」
「ふうん」
「あんたこそ、あのいかがわしい商売、まだやってんの?」
「うん、まあね」
「どうしたの? うまくいってないの?」
「そういうわけでも、ないんだけどさ」
貴和子は、箸でマグロの刺身をもてあそびはじめた。
「何か、あったの?」
「晃二がね」
薫子は、立木の田舎親父くさい顔だちを思い出した。
「最近、なかなか私のとこに来ないのよ」
「へえ。他に女でもできたか」
「他に何人か女がいるのは、知ってるのよ。でも……」
貴和子の語るところによると、立木晃二には五人の女がいて、土日を除くウィークデイは、曜日ごとに泊まる順番を決めているらしい。だがここ数週間、姿を見せないという。心配になった貴和子が電話をすると、決まって「来週は必ず行くから」と言うだけで、実際には姿を見せないらしい。
「どうしたのかなあ」
「仕事が忙しいんでしょ、きっと」
「そうかなあ。それなら、いいんだけど」
このお気楽な貴和子が、珍しく気弱そうな表情を見せているのに薫子はちょっと驚いた。愛人という商売も、はたから見たのではわからない苦労があるのかもしれない。だが薫子にできるのは、お酌をしてやることぐらいだった。
「ほら、飲め」
「あ、うん」
貴和子は不安を振り払うかのように、盃をくいと飲み干した。
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