第12話

一二


 翌朝、薫子は昨日の顛末を日出生に報告した。

「もし昨日のことが原因でロイヤル・レコードが製作費の追加を断ってきたら、あたし、責任取りますから」

「責任取るって、どうするの?」

「辞めます」

 薫子は、アニメ制作という仕事に対して何の思い入れもなかった。だから昨日ことでロイヤル・レコードが何かいいがかりをつけてきたら、さっさと退職するつもりでいた。

 日出生は苦虫を潰したような顔をしていたが、薫子を批難しなかった。すべては、クライアントという権力をカサに着た出船の行動に問題があるのだし、ロイヤル側もこの段階で制作中止はできないだろうと踏んでいた。

 日出生の読みは、当たった。ロイヤル側からは何も言ってこず、日出生は胸をなで下ろした。だが、製作費の追加が決まっただけで問題が解決したわけではない。製作費が支払われるのは、作品が完成した後だ。盗まれた分のセル画の代金を、下請けに支払わなくてはならない。その現金が、ない。

 日出生は取引のある銀行に電話し、当面の資金を融資してくれるように頼んだ。銀行は、ロイヤル・レコードとの契約書を見せろと要求した。

「いつもは、そんなこと言わないのになあ」

 日出生はぶつぶつ言いながら、契約書の原本を手に銀行に出かけていった。

 一方薫子たちは手分けして作画スタッフを廻り、事情を説明してもう一度描いてくれるように頼み込んだ。しぶしぶながらも受け入れてくれるところが多かったが、なかには「金を持って来なければ、一枚も描かない」というところもあった。そういうところは早々に退散することにして、ある一軒の作画会社のドアをノックして開けた。

「こんにちはー」

 返事がない。

「こんにちはー。スタジオSGTですが」

 やはり、返事がない。みんな自分の作業で手いっぱいで、応対に出るような余裕がないのだろう。薫子はいつものように勝手に上がり込み、作業部屋を覗き込んだ。そして、のけぞった。

「ひっ」

 室内に男が三人、倒れ込んでいた。

「なに? 病気? ガス中毒? それとも集団自決?」

 薫子は玄関からくつべらを持ってきて、いちばん近くにいた男の横にしゃがみ込み、体をつついた。

「どうしたんですかっ。大丈夫ですかっ」

 薫子の呼び掛けに、男はわずかに目を開けた。まだ、死んではいないようだ。

「び、び……」

「病気ねっ。やっぱり病気なのね」

「病気でも、自決でもねえよ。は……」

 男は、喉の奥から絞り出すように声を出した。

「歯? 歯が痛いんですか?」

「腹が減った。もう三日も、何も食ってないんだ」

「へ?」

「何か、食べ物をくれ。頼む」

 薫子は近くのスーパーで食材を調達し、チャーハンとギョーザを作ってやった。両方とも冷凍食品なのでそれほどうまいとは思えないのだが、男たちは「うまい、うまい」と言ってむさぼるように食った。

 その様子を眺めながら、薫子は不思議でならなかった。SGTの連中にしてもここの連中にしても、なぜ餓える寸前にまでなりながらこんなハードな仕事を続けるのだろう。金を稼ぐのなら、他にもわりのいい仕事はあるだろうに。なぜあえてアニメという仕事を選ぶのか、いくら考えても答えが見つからなかった。


 家に帰ると、母がまだ起きていた。

「カーすけ、おかえり」

「だからぁ、その呼び方はやめてって言ってるでしょ」

「いいじゃない。気に入ってるんだから」

「どうしたの? こんなに遅くまで起きてるなんて珍しいね」

「あんたが早く帰って来ないから、わたしゃ心配で心配で眠れやしないよ」

 母が、最近ヒットしているアニメ作品に出てくるキャラクターのモノマネをして見せた。

「やめてよ。家に帰ってまでアニメの話なんか、したくないわ」

「ちぇ。カーすけに見せようと思って練習したのに」

 すげない娘の態度に、母は明らかにがっかりした様子だった。これが見せたくて、今まで起きていたらしい。

「そうそう、電話があったわよ」

「誰から?」

「伊東さん」

「あ、そう」

「明日でも、電話しなさいよ」

「うん」

「どうなの? うまくいってるの?」

「何が?」

 薫子はテーブルに置かれた皿の煮物を手でつまみ、口にほうり込んだ。

「あんたみたいな出戻りをもらってくれる奇特な人なんて、そうそういないんだからね。大事にしなさいよ」

「うるさいなあ」

 言われなくてもわかっているという言葉を、薫子は里芋といっしょに呑み込んだ。


 翌日。下請けに説明にでかけようとする薫子を、日出生が呼び止めた。

「薫子くん、薫子くん」

「はい、社長」

「ちょっと、横浜へ行ってきてくれない?」

「はい。何か、取りに行くんですか?」

「いや、なに。ちょっと金融屋へ行って、おカネを借りてきてほしいんだ」

「はあ?」

「いや。昨日銀行へ行ったらね、審査に二週間ぐらいかかるっていうんだ。今まで、電話一本でホイホイ貸してくれたのになあ」

 日出生は、納得がいかない様子で首をひねった。

「ま、とにかく二週間も待ってられないからさ。マチキンから一時借りることにしたんだ」

「マチキンって、金利が高いんじゃないんですか?」

「そうだけど。ウチにはあれこれ選んでいる余裕がないからね」

「はあ」

「いや。細かいことは僕が電話をしておくから、おカネだけ受け取ってきて。一五〇万円ね」

「はあ」

 教えられた金融屋は、桜木町駅からやや離れた場所にある古ぼけたビルの二階だった。階段の木製の手すりが、あちこちで朽ちかけていた。

 日之出興業と書かれたドアを開けると、プンとカビくさい匂いが鼻をついた。部屋の中にはカウンターがあり、その向こう側には二人分の事務机と、ところどころ穴の開いた応接セットが置いてあった。

「あのー、スタジオSGTですが」

 薫子が声をかけると、応接セットから男が二人のっそりと立ち上がった。二人とも頭をパンチパーマにし、趣味の悪い背広を着ていた。

「ああ? 誰じゃって?」

「スタジオSGTですが」

「ああ、さっき電話があったわ」

 詳しい年齢はわからないが、明らかに年長らしい男が顎をしゃくると、若いほうの男が机の上の金庫を開け、封筒を取り出して薫子に差し出した。

「ホレ。一五〇万」

「確認させていただきます」

 薫子は封筒の中身を取り出し、数を数えはじめた。

「ねえちゃん。なかなかええカラダしとるの」

 カネを数える薫子を、年長の男がじろじろとねめまわした。

「社長は、今日は来んのかい?」

「今日は、別の用事がありまして」

「ああ、ほうかい」

 すると今度は若いほうの男が、何を思ったのか、薫子の体のあちこちを背後から孫の手でピタピタと叩きはじめた。それが邪魔になり、数えることに集中できなくなった。

「ちょっと。それ、やめてくれませんか」

 若い男は、薫子の懇願を無視してピタピタと叩き続けている。その無神経さに腹が立ち、薫子は大声で怒鳴りつけた。

「なにさらすんじゃいっ。やめ言うのがわからんのかっ」

 先日、偶然とはいえ出船に使った手がことのほかうまくいったので、またやってみたのだ。予期せぬ啖呵に、若い男は腰を抜かした。

「あの、失礼ですが、どちらのご関係筋で?」

「どちらもこちらも、あるかっ。ボケッ。広島じゃあ」

 広島の田舎にいた時の経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。びびりまくる若い衆に、薫子は内心ほくそ笑んだ。

「一五〇万。たしかに」

 薫子はにっこりと微笑み、二人に背を向けた。背後で、「ご苦労さんです」という声が聞こえた。


 封筒を渡すと、日出生は明らかにほっとした様子で言った。

「いやあ、あそこに行くのは僕でもちょっと怖くてね」

「それを、女のあたしに行かせたんですか?」

 薫子は、日出生をちょっと軽蔑した。

「いや。女だったらヘタな手出しはしないだろうと思ったんだけど。何か、ヘンなことされなかったかい?」

 そんな心配をするくらいだったら、自分が行け。薫子は日出生を心底軽蔑し、ちょっと脅かしてやろうと思った。

「ヘンなことはされませんでしがたが、社長に何かおかしな動きがあったら、すぐ知らせろと言われました。悪いようにはしないからと」

 日出生の顔から、血の気が引いた。

「そんな。僕は、おかしな動きなんかしないから。薫子くん、くれぐれも軽率なマネはしないようにね」

「考えておきます」

 薫子は日出生に背を向け、自分の机に戻った。向いの席では、智子が鉛筆を握ったまま、机に突っ伏していた。盗難騒ぎでさらにきつくなったスケジュールのしわよせが、智子を直撃していた。ここ数日は、ずっと徹夜作業が続いているようだった。

 そんな彼女を気遣い、足音を立てずに背後を通ろうとした時だった。ガバっと上体を起こした智子が、おもむろに抽出しからビタミン剤の壜を取り出した。そして十数錠を掌に乗せると、水もなしにそのままガリガリと噛み砕きはじめた。

 薫子は、その凄まじい光景に釘付けになった。目をそらそうとすればするほど、よけいに見入ってしまう。

「何、見てんのよ」

 視線に気がついた智子が、とがめた。

「あ、すいません」

 薫子はあわてて視線をそらし、すぐにその場を離れた。恐ろしいものを見たと思った。

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