第11話

一一


 電話がひっきりなしに鳴り、大人の男女が忙しそうに立ち働くオフィスの一角。くたびれたソファに、日出生夫妻が小学校三年生ぐらいの長男を挟んで座っていた。明らかに場違いな家族づれだった。薫子は、隣に座る三人をちらちらと横目で見た。日出生に付き添って、ロイヤル・レコードに製作費の追加を頼みにきたものの、まさか日出生が奥さんと子供まで連れてくるとは思わなかった。

「やあやあ、お待たせしました、日出生さん。今日はわざわざご一家で?」

 ソフトスーツにペイズリー柄のネクタイを合わせた恰幅のよい男が、よれよれのジャケットを着た痩せて貧相な男を連れてやってきた。年齢はそれぞれ、四五歳、四〇歳といったところか。薫子は立ち上がり、名刺を交換した。

「ほうほう。無量小路薫子さんね。ご先祖は、お公家さん?」

 ソフトスーツの男は出船でふねという名前で、映像企画部部長という肩書きだった。上目遣いに薫子を見る目は好色そうで、特に口元に締まりがなかった。よれよれジャケットの男は入舩いりふねという名前で、ワオキツネザルのように大きく見開いた目をしていた。

「出船、入舩で、波止場コンビと呼ばれているんですよ」

 笑っていいものかどうかわからず困惑している薫子を見て、出船は咳払いをした。

「それで、日出生さん。絵が盗まれたとか?」

「そうなんです。とりあえず警察に盗難届は出したんですが」

「それは、災難でしたなあ」

「はい。ですが、嘆いてばかりもいられません。早急に、新しい絵を描き起こさなければなりません」

「それで、間に合いますか?」

 入舩が、心配そうに口を出した。

「間に合わせます」

 日出生は、力強く言い放った。

「間に合わせますが……」

「やはり、こっちですか?」

 出船が、右手の親指と人指し指で輪を作って見せた。

「そうなんです」

「いくらぐらい、必要ですか?」

「とりあえず、二〇〇万ばかり」

 事前に日出生がそうしろと教え込んであったのか、妻の邦子と息子がすがるような目つきで出船を見た。出船はその視線に気がつき、あわてて横を向いた。

「入舩くん。それぐらいだったら、予備の販促費の中から出せるんじゃないかね?」

「ですが、例のジュヌヴィエーヴ佐藤が、また新しいポスターを作れとうるさく言ってきてまして」

「また彼女か。困ったもんだな」

 ロイヤル・レコードは、最近脚光を浴びるようになってきた声優という存在にいち早く目をつけ、CDデビューさせたりライブをやらせるなど、アイドルなみの売り方でかなりの実績をあげていた。ジュヌヴィエーヴ佐藤は、その中でも一頭地を抜いた存在だった。

「そうだ。じゃあ、いっそのこと『プリシャス・テンプテーション』の主役を、彼女にしてしまおう」

 出船は、思いつきのアイデアを口にした。

「え、今から配役を替えるんですか?」

 日出生は眉根に皺を寄せた。声優のキャスティングは、左文字と打ち合わせながらかなり進んでいる。今から変更となると、ひと騒動だ。

「そうだよ。ロイヤル初のOVAの主役なんだ。そうとう話題になるし、取材も多いだろうし、彼女も納得するんじゃないか」

 出船は、自らのアイデアに酔っているようだった。日出生は出船に見られないように、薫子に顔をしかめて見せた。だが、製作費の追加をしてもらう以上、断れる雰囲気ではなかった。

「わかりました。主役は、ジュヌヴィエーヴ佐藤でいきましょう。それで製作費追加をお願いできますね」

 妻の邦子と息子が、またすがるような目つきで出船を見つめた。出船は、あわてて視線をそらせた。

「承知しました。社内に通しておきますよ。入舩くん。頼んだよ。あ、それとジュヌヴィエーヴ佐藤のほうも、そういうことで説得しておいてね」

「はあ」

 入舩は、明らかに気が乗らない様子で返事をした。

「大丈夫ですよ。この男はこんな顔をしてますが、仕事だけはきっちりとやりますから」

 出船のフォローに、入舩はますます不機嫌そうな顔になった。


 その夜は、日出生と薫子で二人を接待することになった。邦子と長男はご用済みということで帰されることになったが、別れ際に邦子は薫子を呼び、強く念を押した。

「もしそのテの店へ行くなら、なるべく女を近付けないようにするのよ。わかってるわね」

「はい」

 薫子は殊勝そうに返事をしながら、そんなに夫が気になるんなら自分の魅力をもっと磨けと、心の中で舌を出した。

 一軒目は、六本木のしゃぶしゃぶ屋だった。やはり専門店の肉はおいしく、いつか貴和子と食べたカラオケレストランのそれとは、味に格段の差があった。いちおう接待ということなので、薫子は出船にビールを注いでやった。

 すると出船は何を勘違いしたのか、嬉しそうに薫子の手を握ろうとした。薫子は優しく微笑みながら、その手を押し返した。そうした攻防が何回か繰り返された後、今度はテーブルの下から出船の手が薫子の膝に伸びて来た。薫子は微笑みながら出船の足をいやというほど踏んづけた。ところが、「ぎゃっ」と悲鳴をあげたのは入舩だった。

「あ、ごめんなさい」

 入舩は薫子を睨みつけただけで、すぐに日出生との話に戻ってしまった。その様子を、出船が下卑た笑いを浮かべながら眺めていた。


 二軒目は、新橋というよりは虎の門にほど近いスナックだった。一行を、韓国の民俗衣装に身を包んだホステスたちが迎えた。親しげにする女たちの様子から察するに、どうやら日出生の馴染みの店のようだった。案内された奥の席に出船と入舩、二人を挟むように店の女たちが座った。日出生と薫子はテーブルを挟んで反対側のスツールに座った。

 かいがいしくおしぼりやら水割りやらを配るホステスたちは、こちらに来てまだ日が浅いのか、日本語がそれほど達者とはいえなかった。片言に近い珍妙な言葉を操るホステスに喜ぶ男たちを醒めた気持ちで眺めながら、薫子はデジャ・ヴのような感覚に襲われた。

 一人の女の顔に、見覚えがあるような気がするのだ。だが薫子には、外国人に知り合いはいない。他にすることもないので懸命に記憶をたどっていると、一つの出来事に思い当たった。それは、顔面にケチャップをかけたお返しに電話器で殴られ失神した忌わしい想い出———スタジオSGTに入社するきっかけにもなった、あの事件だった。

 濃い化粧をしているが、まちがいない。女は、日出生の愛人だった。じっと見つめる薫子の視線に気がついたのか、女は薫子に微笑みかけた。ケチャップをかけた本人だとは、気がついていないようだった。

 そうだとわかると、日出生たちの会話にがぜん興味が湧いてきた。邦子に報告する気はさらさらなかったが、後で日出生と取り引きする材料になるかもしれないと思った。だが話は、薫子の予想とは違う方向へ向かっていた。

「入舩さん。ここは、いいでしょう? 日本の女みたいに欲得ずくじゃないから」

 欲得ずくじゃないホステスなんて、いるのだろうか? 薫子は疑問に思ったが、黙っていた。

「入舩さん、もう四〇になるんでしたっけ?」

「ええ。気がついたら、不惑を過ぎてました」

「どうして独身なの?」

「いや、まあ、いろいろと」

「そりゃまあ、いろいろとあるでしょうけど。そろそろ、どう? 身を固めたら?」

「そりゃ、良い人がいれば」

「この子なんかどう? 彼女も独身でさあ。いい日本の男と結婚したいって言ってるんだよね」

 日出生は、自分の愛人を指さした。どうやら日出生は女が邪魔になって入舩に押し付けようとしているらしかった。女も入舩に艶然と微笑んでいるところから見ると、日出生とはすでに話がついているようだ。別れてやるかわりに、お金を運んで来そうな男を紹介しろとでも言われたのだろう。あるいは、日出生のほうから持ちかけたのか。いずれにせよ気の毒なのは入舩だが、薫子には関係ないし面白そうなので黙って見ていることにした。


 入舩と日出生の元愛人は時間とともに親密さを増し、帰る頃にはほとんど恋人どうしと言ってもおかしくないほど密着しあっていた。どうやら日出生の目論見は、みごとに成功しつつあるようだった。やがて日付けも変わったので、「もう少し、ここにいる」という入舩を残して三人は帰ることにした。

「無量小路さんは、どっちのほう?」

 出船の声にイヤな予感がして、薫子はとっさに伊東の顔を思い浮かべ、自宅とは反対の方向を口にした。

「あ、門前仲町です」

「そりゃ、ちょうどいい。僕もあっちのほうなの。いっしょに乗っていきなさい」

 しまったと思ったが、もう遅い。スナックが呼んだタクシーに引っ張り込むように乗せられ、隅田川を渡ってしまった。

「門前仲町は、どのあたり?」

 執拗に伸びてくる出船の手を払いのけながら、薫子はでたらめを言った。

「あ、あの銀行のある交差点のあたりです」

「この近くにさ、ちょっと雰囲気のいい寿司屋があるんだ。ちょっと寄っていかない?」

「いえ、もう遅いですから」

「日出生さんには、明日僕から電話してあげるからさ」

「いえ、ありがたいんですけど、もう今日は」

「君と、もう少し親しくなりたいなあ」

「いつか、また別の機会に」

 自分になかなかなびこうとしない薫子に、出船はとうとう痺れを切らした。

「なんだ、カマトトぶって。もう、そんなトシじゃないだろう。いいじゃないか、一度ぐらい。減るもんじゃなし」

 その言葉に、薫子の中の安全装置が一斉に外れた。とっくに忘れていたと思っていた広島弁が、口をついて出てしまった。

「何さらすっ。何が悲しゅうてわれとボボしにゃあいかんのじゃあ。仕事欲しさにカラダ売るほど落ちぶれとらんわっ。見損なうなっ」

 挑発に対して過剰に反応する薫子の性格を、出船は知らなかった。あまりの声の大きさにびっくりして、びくっと手を引っ込めて硬直した。

「運転手さん、止めて」

 薫子は停車したタクシーから飛び降り、人気のない歩道を駆け足で走った。その後ろ姿を、出船が口をぽかんと開けながら眺め続けた。

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