第10話

一〇


 翌朝出勤してきた薫子は、事務所の様子がなんととなくおかしいことに気がついた。部屋の中が雑然としている。いや、雑然としているのはいつもことだが、雑然の具合がいつもと違っていた。誰かが夜中に来て、何かを捜しまわったのだろうか。だが、考えてみれば、それもいつものことだった。ま、いいか。自分の机に座り、今日、ふく子と廻らなければならない外注先をチェックしはじめた。

 やがて台所から、加代子が起きてきた。

「おはようごらいまふぅ」

 大きなあくびをしながら、加代子は風呂場に入っていった。ふく子の話では、加代子は入社以来ずっと、事務所の台所をねぐらにしているという。やがて風呂場から、シャワーを使う音が聞こえてきた。

 五分ほどすると、遼太郎が出勤してきた。あいかわらず挨拶もせず、薫子の顔を見ようともしなかった。すぐに自分の机に座り、作業を始めた。だが、すぐに素頓狂な声をあげた。

「あれえ?」

 机の上を、ガサガサと何かを探している様子だ。

「どうしたの?」

 薫子が声をかけても、遼太郎は探すのやめなかった。

「ない」

「何が、ないのよ」

「動画」

「動画って、昨日あたしたちが回収してきたやつ?」

「そう。ここに置いといたのに」

「どこかに、かたづけたんじゃないの?」

 薫子は自分で言いながら、そんなはずはないなと思った。この事務所の中に、自ら進んでおかたづけをするような良い子はいない。

 薫子は遼太郎を手伝って、あちこちを探しはじめた。だが、薫子が昨日ふく子といっしょに回収してきた動画はどこにも見当たらなかった。

「左文字監督が、持って帰ったってことは?」

 薫子が聞くと、遼太郎は首を横に振った。

「ううん。今日チェックして転写にまわすから。そんなはず、ない」

「おかしいわねえ。でも、これだけ探してないんだから、ひょっとしてってこともあるでしょ。ちょっと確認の電話、してみてくれない?」

「寝てると思います。きっと」

「でも、このままってわけにはいかないでしょ。電話してみて」

 遼太郎は面倒臭そうに電話器を取り上げ、番号をまわした。十分ほどかけ続けていると、ようやく相手が出たようだ。二言三言、言葉をかわしただけで遼太郎は電話を切った。

「何だって?」

「持って帰ってないって」

「そう」

「どうしたんですかあ」

 シャワーを浴び終えた加代子がタオルで頭を拭きながら、探し物をする二人に声をかけた。

「動画がないのよ。いっしょに探してくれない?」

「はあい」

 再びあたりを探しはじめて数分経った時、遼太郎が奇声をあげた。

「あれえ、何でこんなものが」

「何? どうしたの?」

 遼太郎は、薫子の目の前に小さなキャラクター人形のようなものをぶら下げて見せた。それは、薫子でもよく知っている、有名なアニメ作品のキャラクターだった。

「あ、それ知ってる。『マッハ君』でしょ?」

「何でこんなものが、ここにあるんだろう」

「え? どうして?」

「だって」

 遼太郎が訥々と語るところによれば、アニメ関係者はみな『マッハ君』に対して恨み骨髄だということだった。昭和三〇年代の末ごろ、売れっ子マンガ家の大塚康夫は、自分の代表作である『マッハ君』のアニメ化を強く望んでいた。そして苦労の末、自らの手で『マッハ君』を日本初のテレビアニメ作品として製作することに成功した。だが大塚は、とにかく作りあげることだけを最優先にしたため、製作費はテレビ局の言うがままの低予算だった。

 何事も最初が肝心だ。大御所である大塚が『マッハ君』を作り上げたことで、戦後日本のアニメの歴史はスタートした。それは事実だが、大塚がとんでもない低予算で引き受けてしまったために、後に続いたアニメ製作者たちは、みなコストぎりぎりの低予算に甘んじなくてはならなくなった。そしてその低予算は、『マッハ君』から三〇年近く経った今でもほとんど改められていなかった。 そのためアニメに携わる人間はみな貧乏を強いられる結果となり、大塚康夫や『マッハ君』に対して、尊敬と羨望の中にも怨念の入り交じった複雑な感情を抱き続けているというのだ。

「へえ、そうなの」

「だから、僕らみたいなアニメ関係者が、こんなもの持ち歩くわけない」

「ということは、外部の人が入って来っていうこと? もしかして、それって……」

「泥棒だろうね」

「ぎゃあっ」

 耳もとで突然声が聞こえ、薫子は飛び上がった。いつのまにか出社していた、日出生だった。

「よくあるんだよ。悪質なマニアとかが忍び込んできて盗んでいくんだ。薫子くん、警察呼んで」

 日出生はこういうことに慣れているらしく、落ち着いていた。

「やれやれ。どうせ盗むんなら、転写の後にしてくれたらよかったのに」

 盗まれた動画は、当然描き直さなくてはならない。それだけ予算も時間もよけいにかかる。日出生の頭の中は、すでにその後始末をどうするかということでいっぱいのようだった。


 警察がやって来て、現場から指紋などの証拠採取を行なっている。 ちょうどそこへ、ふく子が出勤してきた。

「なにこれ、どうしたの? 何があったの?」

 事務所内のものものしい様子に、ふく子は異常なほど慌てふためいた。

「動画が、盗まれたの」

 薫子はふく子を部屋の隅に呼び、小声で教えた。

「なあんだ、そんなことか。よかった」

 ふく子は安心したのか、いつもの様子に戻った。

「そんなことって。泥棒に入られたのよ」

「泥棒ぐらいでよかったじゃないですか。わたしゃ、てっきり」

「てっきり、何?」

「社長が、あの女に刺されたのかと思っちゃった」

 その日出生のかたわらでは、刑事らしい中年の男が事情を聞いていた。

「それで、その動画ですか? そりゃいったい、いくらぐらいするものですか?」

「うーん。いくらって言われてもなあ。原価にすりゃ、一枚数十円だけど」

「いったいぜんたい、なんだってそんな安いものを盗むんですかね」

「安いってね、あんた。我々にとっちゃ、金に換えられない大切なものなんだよ」

「はあ。そんなもんですかね」

「それに、盗まれたのは発表前の作品だから、犯人にとってはもっと価値があるんだろうね」

「たかが、漫画映画にねえ」

 漫画映画といういくぶん軽蔑のこもった言葉に、日出生はいやな顔をした。刑事は、アニメというものにまったく興味がないようだった。


 やがて現場検証も終わり、警察は帰っていった。指紋を取るからといって、遼太郎は証拠物件の『マッハ君』人形とともに警察に連れていかれた。泣きそうな顔ですがるように薫子を見つめる遼太郎を、薫子はちょっと気の毒に思った。

 日出生が、少しとがめるようような口ぶりで加代子に聞いた。

「夜中に誰かが入ってきたの、気がつかなかったのかい?」

「寝てたんですよう」

「物音がすれば、普通、起きるだろう?」

「物音なんか、しょっちょうですよう。ネコやネズミが暴れたりするから」

「ネコ? ここには、そんなものが入ってくるのか? カギは、かけなかったのかい?」

「左文字監督や熊原さんが突然来たりするから、いつもかけませんよう」

「そうか」

 日出生は少し考えてから顔を上げ、大きな声を出した。

「みんな、聞いてくれ」

「そんな大きな声出さなくても、聞こえますう」

 加代子が、指で耳をふさいだ。

「あれ? 智子は?」

 日出生は、萩原智子がいないことに気がついた。

「体調が悪いから休むって、さっき電話がありました」

「そうか。最近、休みが多いな、彼女。しようがねえな」

 気を取り直し、日出生はあらためて社員たちの顔を見渡した。

「わかってると思うけど、盗まれた動画を描き直してもらわなければならない。カネのほうは僕が何とかするから、君たちは土下座でも何でもして期日までに描き直してもらってくれ。これからしばらくは、休みもなくなると思うけど、悪いが、頼む」

 薫子たちは、お互いに顔を見合わせた。ただでさえタイトなスケジュールがさらにきつくなることは、目に見えていた。やれやれ、伊東とのデートも当分の間おあずけか。薫子は、天井を見上げた。


 そういう時に限って、伊東からデートの誘いが来る。

「上野の美術館で、『印象派展』やってるんですけど、行きませんか」

 卒倒するような大金をはたいてどこぞの金持ちが買った、印象派の巨匠の作品をメインにした展示会だ。薫子は興味をそそられたが、それどころではなかった。

「ごめんなさい。今ちょっと、仕事が立て込んじゃって」

「そうですか。残念だけど、それじゃしかたがありませんね」

「ごめんなさい」

「いえ。謝るようなことじゃありませんよ。仕事じゃ、しようがないです」

「ごめんなさい」

「だから、薫子さんが謝ることじゃないですってば。また、電話します」

「はい」

 受話器を置くと、薫子は大きくため息をついた。今度伊東と会えるのは、いつになるのだろうか。なんとなくイヤな予感がした。何度も頭を横に振って、その不吉な想像を振り払った。

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