第9話


 ヘッドフォンから漏れるかすかなノイズさえ気にしなければ、オフィスのなかは、まずまず静かだといえた。

 薫子はこの二月から、スタジオSGTに社員として加わることになった。日出生夫人・邦子くにこのたっての要望ということもあった。しかしそれよりも、デートの時に伊東がいつも全部支払ってくれるのがいささか心苦しいというのが、薫子に入社を決心させた大きな要因だった。

 給料は安かったが、日出生の日頃の動向、特に愛人関係のそれを報告することで邦子から毎月数万円の密告料をもらえることになっていた。だが薫子は、日出生とも別途秘密に交渉し、邦子に対する口止め料を得ることにも成功した。

 これらを合わせると、十分とは言えないまでも、なんとか満足できるぐらいの金額になった。薫子は、こうした「アルバイト料」が入らないほかの社員は、異常に安い給料だけでどうやって暮らしているのか不思議でならなかった。

 スタジオSGTには、薫子以外に四人の社員がいた。日出生の秘書で経理も担当する加代子、制作進行などを担当するふく子と遼太郎りょうたろう、そして色彩指定を担当する萩原はぎわら智子ともこだ。

 入社そうそう、薫子がまずやったのは、遼太郎が机の上で鳴らす大音量のアイドル・ポップスを止めることだった。人の顔を見ようとしない遼太郎の前に、薫子は仁王立ちになった。

「ちょっと」

 遼太郎は、自分の作業に没頭している。

「ねえ、ちょっと」

 返事をしない。薫子に気がついているのかもしれないが、返事をする気はないようだ。業を煮やした薫子は、ラジカセのボリュームをぐいと下げた。とたんに、遼太郎が批難めいた視線を投げかけてきた。だが、その視線の先に腕組みをした薫子がいることがわかると、あわてて視線をそらせた。

「みんなの迷惑になるから、聴くんならヘッドフォンで聴いてちょうだい」

 遼太郎はその言葉を無視するように、再びボリュームをあげた。

 薫子のなかで安全装置が一つ、はずれた。薫子はつかつかと窓に歩み寄り、通りに面したガラス窓を開け放った。そして踵を返して遼太郎の机に戻り、ラジカセをひっ掴むと窓から勢いよく放り投げようとした。

「やめて! お願い」

 遼太郎は、五分刈りの男くさい外観に似合わない、か細い悲鳴のような声をあげた。薫子が振り向くと、遼太郎が涙ぐんでいた。

「お願いです。やめてください」

 最悪の場合、遼太郎と殴り合いになることも覚悟していた薫子は、拍子抜けした。

「じゃあ、これからはヘッドフォンで聴くわね?」

「……。はい」

 薫子がラジカセを返すと、遼太郎はそれを大事そうに抱きしめた。その日から遼太郎は、薫子が部屋にいる時だけはヘッドフォンを使うようになった。

 次に薫子が取り組んだのは、ゴミの始末を教えることだった。スタジオSGTの社員は、社長を含めてゴミを捨てるという概念を持ち合わせていなかった。薫子はふく子の制止も聞かず、目についたものを片端から大形のゴミ袋に放り込んでいった。

「待ってください、薫子さん。大事なものもあるんですから」

「そんな大事なものなら、抽出しにでもしまっといてちょうだい」

 かまわずにゴミを捨てようとする薫子に、事務所内はパニックになった。社長以下全員が大慌てで、山積するゴミの山から大事なものを選り分けはじめた。ふく子が拾い集めた書類の中から、大きなゴキブリが数匹、あわてたように逃げ出していった。

 翌日には、巨大なゴミ容器が二つ、事務所内に並べられた。

「いい? こっちは燃えるゴミ。こっちには燃えないゴミを入れるのよ」

「あの……」

 遼太郎が、おずおずと聞いた。

「プラモデルのランナーは、どっちに入れるんですか?」

「ランナーって、何?」

「パーツを取り外した後に残る、枝みたいなもの」

「それって、プラスチック?」

「はい」

「それなら、燃えないゴミに決まってるじゃない」

「でも、プラスチックは火をつけるとよく燃えますよ」

「あんた、あたしに喧嘩売ってんの?」

 安全装置がはずれかけた薫子に恐れをなしたのか、遼太郎は沈黙した。


 なかば強引に事務所内の環境を美化していく過程で、薫子はスタジオSGTのやっている仕事が少しずつ理解できるようになってきた。

 スタジオSGTではアニメ作品を自ら企画し、その企画をスポンサーに持ち込んで資金を引き出し、製作していた。現在進行中の作品『プリシャス・テンプテーション』は、老舗レコード会社であるロイヤル・レコードが製作費を出し、全三巻のオリジナル・ビデオ作品として発売する計画になっていた。

 それまでアニメといえば、テレビ放送用のシリーズものか劇場上映用の単発ものと相場が決まっていた。ところが家庭用ビデオデッキの普及にともない、一九八〇年代半ばごろから、初めからビデオ作品として発売することを前提とした「オリジナル・ビデオ・アニメーション(OVA)」というビジネス形態が流行しはじめる。ロイヤル・レコードも世間の流行に遅れをとるまいとして、その世界ではそれなりに定評ある日出生が経営するスタジオSGTに、OVA作品の製作を依頼したのだった。

 この物語の舞台となっている一九八〇年代末のアニメ制作は、そもそも現在のようなデジタル技術を駆使してモニター上で絵を動かすのとは、原理がまったく違う。パラパラ漫画というものをご存知だろうか。ノートの隅っこなどに数ページにわたって少しずつ細部が異なる絵を描いてパラパラとめくると、あたかも絵が動いているように見える。

 当時のアニメーションは、このパラパラ漫画を大がかりにしたものといっても大きな間違いではない。透明なシートに、人物やモノの動きを少しずつ分解した絵を描き、それを背景と合わせて一枚一枚フィルムに撮影して上映すると、絵が動き出す。これを「セルアニメ」と呼び、この頃に製作されるアニメーション作品の主流となっていた。これらの作業は全て人の手によって行なわれ、そして気の遠くなるような地道な作業の連続だった。

 その制作プロセスは、こうだ。

 まずプロデューサーなど製作関係者たちの打ち合わせで決まった企画内容や方向性に従って、脚本家(監督が自ら書く場合もある)が「脚本」を書く。その脚本をもとに、監督が画面展開をおおまかな絵で示した「絵コンテ」を描く。同時並行で登場人物の性格や特徴をあらかじめ決めておく「キャクター設定」、メカが登場する場合はその大きさや形、機能を決めておく「メカ設定」、キャラクターやメカ、背景の色を決めておく「色彩設定」などが行なわれ、作品世界が細かい部分まで決定されていく。

 その後、絵コンテをさらに精密にし、大まかな動きをつけた「原画」が描かれる。さらにそれをもとに、原画と原画の間の中間の動きを描く「動画」が描かれる。動画をセルと呼ばれる透明なアセテートのシートに写し取り、色彩設定によって定められた色を塗ったものが「セル画(仕上げ)」だ。

 そして、動画とは別に描かれた「背景」や「効果」と「セル画」を組み合わせて「撮影」して「編集」し、そのフィルムの動きに合わせて声、効果音、音楽などを入れて(「MA」)いき、ようやく完成する。

 スタジオSGTが自ら行なう仕事には、「企画」や「資金調達」などのいわゆるプロデュース(製作)業務のほか、スケジュールどおりに作業が進むように管理監督する「制作進行」というものがある。だが、この制作進行こそが、アニメ制作業界においてもっとも困難な仕事の一つだった。絵を仕上げていく段階での多くの作業は、外部スタッフに発注される。そのほとんどが、個人や零細企業だ。これらに仕事を割り振り、スケジュールを確認しながら仕上がった絵を回収してくるのが、制作進行の仕事だった。


 ものが減ってぐんと見通しがよくなったデスクの向こうから、日出生が声をかけてきた。

「薫子くん、薫子くん」

「はい。何ですか、社長?」

「今日は、ふく子についていって、動画を回収してきてよ。そのうち、一人で行ってもらうことになるから、場所とか相手の顔とか、よく覚えておいて」

「はあい。わかりました」

 『プリシャス・テンプテーション』は、薫子が第一巻分の脚本を回収した後、作業が順調に進んでいた。左文字監督が描いた原画を元に、すでに動画が描かれつつあった。

 ふく子の運転は、すさまじく乱暴だった。薫子は助手席で体を左右に振られながら悲鳴をあげた。

「ふく子さん、もっと静かに運転してよ!」

 今しも、ふく子の運転するぼろぼろのライトバンは信号が赤に変わった交差点に猛スピードで突入し、あちこちからクラクションを鳴らされた。

「そんな悠長なこと言ってたら、間に合いませんよ。今日だけで一二軒廻らなけりゃ、ならないんですからね」

「お願いだから、もっと優しく運転して!」

 ふく子は薫子の哀願を聞き入れるどころか、かえってアクセルを踏み込んだ。前を走る大型トラックを追い越すため反対車線に侵入したふく子の車を、対向車が急ハンドルで避けた。薫子は、生きた心地がしなかった。外注先を数軒廻ったところで、薫子はすでにヘトヘトになっていた。

「ふく子さん。ちょっと休んでお昼食べようよ」

「私、お金持ってないです」

 薫子は、スタジオSGTの給料の安さを思い出した。それは、とても外食などできるような金額ではなかった。だが薫子の体は、限界が近かった。これ以上ふく子の運転する車に乗っていたら、確実に吐くと思った。

「あたしがおごるわ。今日だけは」

「ほんとですか? じゃ」

 ふく子はとたんに嬉しそうな声を出し、ハンドルを左に切った。

 着いたところは、川のほとりの、今にも崩れそうな外観のラーメン屋だった。建物そのものが、若干右に傾いでいるような気がする。

「らっしぇーい」

 六〇過ぎと思われるひょろりとした店主が、二人を迎えた。中はカウンターだけの店で、スツールが八つ並んでいた。そのうちの左側の三つには客が座っており、右側の五つが空いていた。薫子がためらいなくそのうちの一つに近づくと、ふく子が悲鳴をあげた。

「ダメー!」

 その声に薫子が立ち止まったとたん、店全体が薫子が立っているあたりを支点にして、シーソーのようにゆっくりと右へ傾きはじめた。

「きゃあああっ」

「こっちへ来て!」

 薫子があわててふく子のほうへ戻ると、店はがっくんと元の位置に戻った。

「すみませんね。不安定な店で」

 あわてて支払いを済ませて出ていく客に、店主がすまなさそうに謝った。その空いた席に、薫子とふく子が座った。

「店は危ないけど、ラーメンはおいしいんですよ。親父さん、二つね」

 薫子の意向も聞かずに、ふく子はラーメンを二つ注文した。自分の分だけは、ちゃっかり大盛にしていた。

「あと、ギョーザも。いいですよね、薫子さん?」

 薫子は鷹揚にうなずいた。おごるなどと軽々しく言ってはみたものの、内心、どんな店に連れていかれるのか不安だった。ラーメンぐらいでよかったと、ほっとした。

 店の様子に似合わず、出されたラーメンはうまかった。一息ついたところで、薫子はコップの水を飲みながら、ふく子にかねてから気になっていたことを聞いた。

「ねえ、ふく子さん。面接の時、血液型だけ聞かれたけど、どうしてかな?」

「社長は、B型の人しか採らないんです」

「どうして?」

「仕事にのめり込むタイプが、多いからだそうです」

「へえ。じゃあ、ふく子さんも?」

「はい。B型です」

「当然、社長もB型よね?」

「いえ。社長はA型です。本人はB型だって言い張ってますけど」

 そんなことを隠して何になるのか。薫子は、困惑した。

「じゃ、スタジオSGTのSGTって、どういう意味?」

「ええっと、たしか、スーパー・グレート・トランセンデンタルだったかな」

「あの事務所にしては、すごい名前ね」

「日出生さんは、すごい人です。このぐらいの名前、当然です」

 ふく子は、ちょっと頬をふくらませた。

「日出生さんって、そんなにすごい人なの?」

 薫子はふく子の機嫌を直そうと、ふく子の喜びそうなことを聞いた。

「この業界では、知らない人はいませんよ」

「へえ、そうなんだ。あたし、アニメのことは、何も知らないから」

「もともと関東アニメーションっていう会社にいたんですけど、その時の仲間五人で立ち上げたのがスタジオ・インフィニティで、そこであの名作『超人アレスター』と『東京サイボーグ・ポリス』を作ったんですよ」

「へえ、そうなんだ。でも」

 薫子は、ふと浮かんだ疑問を口にした。

「どうして、そのスタジオ・インフィニティをやめて、今の会社をやってるの?」

「これは、ナイショなんですけど」

 ふく子が、急に声をひそめた。

「追い出されたらしいんですよ」

「追い出された? 誰に?」

「一緒にスタジオを立ち上げた、仲間だった人に」

「へええ」

「なにしろ『超人アレスター』と『東京サイボーグ・ポリス』は、ものすごいお金と手間をかけた作品でしたから。日出生さん、経営が危うくなるほど借金して、そのことでいろいろと周囲に迷惑をかけたらしくて」

 それを聞いて薫子は、急にスタジオSGTの未来に不安を覚えた。

「それで、ふく子さんはどうしてスタジオSGTに来たの?」

「日出生さんが独立するって聞いて、押し掛けて雇ってもらったんです」

「それまでの仕事を辞めて?」

「そりゃあ、アニメをやっている人間で日出生信裕といっしょに仕事ができるとなったら、何をおいても行きますよ。薫子さんも、そこんところ、よく考えて仕事してくださいね」

「はあ」

 その日出生から口止め料をもらっていることは、絶対に言えないと薫子は思った。


 一二軒の外注先を全て廻り、西麻布に戻ったのは夜の八時過ぎだった。入り口にほど近い机では、青い顔をした萩原智子が、数秒おきに大きなため息を吐きながら原画に絵の具のナンバーを書き入れている。セル画スタッフは、そのナンバーによって指定された色の絵の具をセル画の指定された場所に塗っていく。それだけに間違いの許されない、神経を使う作業だった。

 その隣では遼太郎と監督の左文字了が待っていて、すぐに二人が回収してきた動画のチェックを始めた。口数が少なく人見知りをする遼太郎は、左文字とは気が合うらしく、ぼそぼそと何か意味不明の冗談を言い合いながら仕事を進めている。

 そんな様子を眺めながら、薫子は部屋の奥にいる日出生に声をかけた。

「社長」

「何?」

「今日は、これで帰ります」

「ああ、そう。ご苦労さん」

 今日はふく子の運転に付き合っただけで、体がガタガタだった。早く帰って、お風呂に入りたかった。まだ残るというふく子たちに挨拶し、薫子は事務所を出た。だが、その夜遅く、事件は起こった。

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