第8話


 電話帳のように分厚い就職情報誌を手に持ってパラパラとめくっていた薫子は、そのあまりの重さに耐えきれなくなり、机の上に放り投げた。予想外に大きな音がして、机が揺れた。

 薫子は邪魔な就職情報誌を脇に押しやり、抽出しから履歴書の用紙を取り出して広げた。履歴書も書く数が多くなってくると、いいかげん投げやりになってくる。薫子は、学歴と職歴を書き終わったところでボールペンを投げ出した。ふう、と大きく息を吐き、椅子の背もたれに上体を預けてぼんやりしていると、ドアにノックの音がして母が顔を出した。

「カーすけ、電話よ」

「お母さん。私のことをカーすけって呼ぶの、やめてって言ってるでしょ」

「あらぁ、どうして? かわいいじゃない」

「やめてよ。カラスじゃないんだからね」

「それより、電話よ」

「だれ? 貴和子?」

「ううん。エスなんとかって言ってるけど、よくわかんない」

 母は、細かいことにこだわらない性格だった。薫子はエスなんとかという名前の記憶を探しながら電話に出た。

「はい。薫子です」

 電話の声は、女だった。そして、かなり切迫した様子だった。

「薫子さん、すぐに来て。助けてっ」

「だれ?」

「スタジオSGTの河原崎です」

「河原崎、さん?」

 その名前に、聞き覚えははなかった。

「お願いだから、早く来てください。大変なんです」

「申し訳ないけど、あなた、どなた?」

「この前、寝袋で寝てた時に、私が思いっきり足踏んだじゃないですか。覚えてませんか?」

「あ、ああ。あの時の」

 薫子は西麻布のアニメ・スタジオで、ヘンな匂いのする寝袋で寝かされた経験を思い出した。

「何で、ウチの電話番号がわかったの?」

「領収書の住所から、電話帳で調べたんです。珍しい名字だから、すぐわかっちゃった。そんなことより」

 ふく子は、じれったそうに早く来てほしいと繰り返した。

「ちょっと待ってよ。何で私が行かなけりゃいけないの? 私、そちらの会社とは何の関係もないのよ。それに」

 薫子はひとつ、大きく息を吸った。

「だいいち私、アニメのことは何も知らないから、あなたの会社のトラブルに呼ばれても何のお役にも立てないわよ」

「そんなことは、期待していません」

「なんですって」

 勝手に人の家に電話してきておいて、なんという言い草だろうか。

「じゃ、なんで私に電話してきたのよっ」

 薫子の声に、怒りが混じった。

「だって、他に頼りになりそうな人、いないんですもん」

「何よ、それ」

「とにかく、早く来てください。社長が、たいへんなんです」

 電話越しに、かすかに怒鳴りあう声が聞こえてきた。ふく子が言う大変とは、人間同士のトラブルのことらしかった。

「そうだとしても、私には関係ないわ」

「無量小路さんって、そんな冷たい人だったんですか?」

「はあ?」

「だって、人がこんなに困っているのに見捨てるんですか? ツルだって、恩返しに織物を織るじゃないですか」

 たしか織物が完成する前にツルは帰ってしまったような気がするが、深く考える前に薫子は挑発に乗ってしまっていた。

「わかったわよっ。行けばいいんでしょ、行けば」

 たたきつけるように電話器を置いてから、薫子は後悔した。挑発に乗りやすい性格は、まったく直っていなかった。


 薫子が開けたドアの細い隙間から、アルミの灰皿が飛び出してきた。危うく身をかわした薫子をかすめて後方に飛んでいった灰皿は、明るい音をたてて階段の下に転がっていった。

 ドアを開けると、ひとつの机を挟んで二人の女が喚きあいながら、手近なものをひっ掴んでは相手めがけて投げ付けていた。

「あんたなんか、とっとと自分の国に帰りなさいよっ」

「‰▲★♀#※†♂≒∇∬∋≡∂!」

 女の一人は日本語だが、もうひとりの女の話している言葉は、どこの国のものだかわからなかった。

「ふざけんじゃないわよっ」

「□§▽£◆◆⊆〜¥〓$*!」

 薫子はあっけにとられながらその様子を眺めていると、壁にあたって跳ね返ってきたコーヒーカップが薫子の体をかすめ、床にあたって砕け散った。

「薫子さん、こっちこっち」

 かたわらの机の下から押し殺したような声が聞こえてきた。見ると、小太りの女が手招いている。電話をかけてきた、河原崎ふく子だった。

 薫子は急いで机の下に避難し、ふく子に聞いた。

「どうしたの、これ? いったい何が起こってるの?」

「中国だか韓国だかから社長の愛人が押し掛けてきて、奥さんと鉢合わせしちゃったんです」

 ふく子は、頭に乗せた洗面器を手で押さえながら事情を説明した。

「それで?」

「なんとか、静めてください」

「社長は、どこ行ったの?」

「逃げました」

「え?」

「こういう時の逃げ足は、早いんです」

 ふく子は、あっけらかんとした様子で言った。

「早く静めてくださいよ。仕事にならないんですよ」

「何であたしが、そんなことしなきゃならないのよ」

「じゃ、何しに来たんですか?」

 薫子はむっとしたが、ふく子の言うとおりだった。挑発に乗せられたとはいえ、来てしまったのは事実だ。

「ちょっと貸して」

 ふく子から乱暴に洗面器を奪い取ると頭に乗せ、二人の女が投げるモノに当たらないよう、姿勢を低くして台所を目指した。冷蔵庫を開けると、食べかけの魚肉ソーセージとカビの生えた食パン以外にまともな食品は入っていなかった。さらに探すと、マヨネーズとケチャップが見つかった。

 薫子は慎重にタイミングを図り、言い争う二人の中間地点で立ち上がると同時に、二人の顔めがけてマヨネーズとケチャップを発射した。

「いかげんにしてください!」

 口をつぐんだ二人の顔から、マヨネーズとケチャップがしたたり落ちた。

「仕事になりません。ケンカするんだったら、外でやってください」

 マヨネーズとケチャップが思いのほかうまく命中したので、薫子は気分がよくなり、傲然と胸をそらせた。だが次の瞬間、愛人が思わぬ反撃に出た。

「%▽#¥*〓♀●☆≧∝!」

 早口で何かを言うと、手近にあった電話器を引っ張ってコードを引き抜き、薫子の頭に投げおろした。鈍い音がして、薫子は意識が遠くなった。


 目の前に、黒い影が二つ感じられた。やがて視界が少しずつ晴れてくると、二つの顔が心配そうにのぞき込んでいるのがわかった。

「あ、気がついた」

「よかったわあ。死んじゃったかと思った」

 こんなことで死んでたまるかと思いながら、薫子は上半身を起こした。すると頭頂部に激しい痛みを感じて、思わず手で押さえた。

「いったあ」

「だいじょうぶ? 血は出てないみたいだけど」

 その声のしたほうを向くと、さっきまで愛人とバトルを繰り広げていた女だった。おそらく社長の奥さんなのだろう。髪の毛と、着ているセーターにマヨネーズがべっとりとこびりついていた。

「あの女は?」

 薫子は、頭頂部を指でおそるおそる触ってみた。直径五センチぐらいのみごとなたんこぶが、ふくれあがっていた。

「何か喚いて帰ってったわ。それより、あなた。だいじょうぶ?」

「わかりません。いちおう生きてるみたいですけど」

 まわりを見まわすと、どうやら応接室のソファに寝かされていたようだった。

「ごめんなさいね。こんなことに巻き込んじゃって」

 社長夫人は、すまなそうな顔をした。興奮状態は、すでにおさまったようだった。

「あたし、帰ります」

「もう少し、休んでいったほうがいいですよ」

 ふく子が台所から絞ったタオルを持ってきて、薫子の頭に乗せた。帰るタイミングを逸し、薫子はタオルを手で押さえながら再びソファに寝ころんだ。

 その様子を見て夫人はふく子を隅に呼び、小声で相談した。

「いちおう、お医者さんに診てもらったほうがいいかしら」

「だいじょうぶだと思いますよ。ダメなら意識が戻らないだろうし」

 ふく子は、無責任に答えた。

「でも、こういうのって、後で症状が出たりしない?」

「そのときは、そのときで」

「ここで死なれでもしたら、いやだわあ」

「やったのは、あの女ですから。電話器に指紋もついてますし。あ、だからあの電話器、触らないほうがいいですよ」

 やりとりが聞こえていた薫子は我慢ができなくなり、むくりと起き上がった。

「人ごとだと思って、勝手なことを言わないでください。あたし、帰ります」

 開けようとするより早くドアが開き、日出生が顔を出した。

「やあ。もう、終わったかな? ケーキ、買ってきたよ」

 微笑みながら日出生は、ケーキの入った紙ケースを軽く振ってみせた。その仕草に、一旦はおさまったかに見えた夫人の怒りが再び燃え上がった。つかつかと日出生に歩み寄ると、右腕をしなるように使い、日出生の左顎に力強いストレートを叩き込んだ。日出生はたちまち脳震盪を起こし、その場に崩れ落ちた。夫人は、床に横たわる夫をまたいで応接室を出ていった。

「今日は、失神日和なのかしら」

 昏倒する日出生を見下ろしながら、ふく子がぼそりと言った。

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