第7話
七
薫子から電話をするまでもなく、伊東から電話がかかってきた。いっしょにコンサートに行かないかという内容だった。薫子もよく知っている有名な洋楽アーティストの来日公演だった。お小遣いが自由になる立場だったら、必ずチケットを買っていたに違いなかった。深く考えもせずに、伊東の誘いに一も二もなく飛びついてしまった。
だが電話を切った後で、後悔した。伊東が自分をコンサートに誘ったのは、控えめなデートの申し込みに違いない。「行きます行きます」などと小娘のように舞い上がってしまったが、それはよく考えれば、伊東との交際に発展するかもしれなかった。というより、伊東はそれを望んでいる可能性が高い。
薫子は、自分が離婚経験者であることを伊東に言っていなかった。それに、まだ新しい恋愛を追い求めるほどのエネルギーが回復していない。恋愛は得るものも大きいが、消費するエネルギーも大きいのだ。貴和子はああしろこうしろなどと無責任にそそのかすが、正直言って、ありがた迷惑だった。 伊東とどうにかなっていく自分が、まったく想像できなかった。
あれこれ考えているうちに日は経ち、結局うまく断る口実も考えつかず、その日は来てしまった。
ふだんは野球場として使われている大きなドーム会場で行なわれたコンサートは、一曲目から総立ちとなった。このアーティストのファンだという伊東も、もちろん立ち上がって何か叫んでいる。まわりが全員立ち上がっている中で、井戸に落ち込んだように、真上にぽっかりと空いた空間しか見えなくなった。仕方なく、薫子も立ち上がった。
こんなことになるとは思っていなかった薫子は、おろしたての真っ赤なハイヒールを履いてきていた。貴和子に「気合い、入れていきなさいよ」と言われたので、多少足に合わない感じがして買ったまま使わないでいた秘蔵の一足をおろしたのだ。
家を出る時に感じたかすかな不安が、適中した。足が痛くて、立っていられなくなったのだ。せっかく連れてきてもらった伊東に悪いとは思いつつ、薫子は三曲目で、とうとう腰をおろしてしまった。
すぐに、伊東が気づいた。
「大丈夫ですか、薫子さん。気分でも?」
「いいえ。大丈夫です。伊東さんは、どうぞ楽しんで」
「大丈夫じゃなさそうですね。出ましょう」
伊東は薫子の腕をとって、大音響が渦巻くドーム会場を出た。そして手近なベンチに薫子を座らせた。薫子の右足のかかとにうっすらと血がにじんでいた。伊東がどこかでハンカチを濡らしてきて、傷口にそっと当ててくれた。
「すみません。無理矢理、俺の趣味につきあわせてしまって」
「いいえ、そんな。こんな靴、履いてきた私が悪いんです」
伊東は器用にハンカチを裂くと即席の包帯を作り、薫子の傷口を保護するようにくるくると巻き付けた。
「ずいぶん、慣れてらっしゃるんですね」
「こんなのは、野球部でしょっちゅうでしたから。歩けますか?」
伊東は薫子の脇の下を支え、立ち上がらせた。強く踏みさえしなかったら、それほど痛みもないようだった。
「お詫びに、夕食をおごらせてください」
「そんな。悪いのは、あたしなのに」
「実は俺、もう腹がペコペコで倒れそうなんです」
薫子には、伊東が自分を好ましい存在として見てくれていることがわかった。だが、自分が離婚経験者であることは話していない。そのことを伝えるいいチャンスだと思ったので、誘いを受けることにした。
連れていかれた店は、伊東がよく行くという門前仲町の寿司屋だった。十人も座ればいっぱいのカウンターと、小さな小上がりがあるだけのこじんまりとした店だ。
「らっしゃい。お、亮ちゃん」
「よ」
伊東は、軽く右手を挙げて挨拶した。馴染みの店のようだった。
「こいつは小学校からの友達で、一馬っていうんです。親父さんからこの店受け継いだばかりなんで、寿司はあまり期待できないかもしれません」
「ひどいこと言うね。らっしゃい。さ、どうぞ」
カウンターの向こうから一馬が指し示す席に、二人は並んで座った。燗酒と、つまみの刺身が出された。しばらく四方山話を重ねた後でふと生じた沈黙を捉え、薫子は例の件を持ち出した。
「あの、伊東さん」
「はい?」
「伊東さんが、あたしに興味を持ってくださっていることは本当にありがたいです。でも」
急にシリアスな顔をする薫子を、伊東は訝しんだ。
「お話しておかなければならないことが、あるんです」
「はあ。何ですか?」
「あたし、離婚してるんです」
二人の間に、一瞬の沈黙が垂れ込めた。薫子はそれを、相手が興醒めする音だと思った。だが、伊東の口から出てきたのは、意外な言葉だった。
「俺もですよ」
「え?」
「俺も、離婚してるんです。よかった、同じで」
「え? あの、そうじゃなくてですね」
「二人とも独身なんだから、何も問題ないですね」
「ですから、そういう問題じゃあ……」
「俺じゃ、ダメですか?」
「いえ」
薫子は首を振った。自分が引っ掛かっていた最大の問題は、なくなってしまっていた。
「じゃあ、俺たちの今後に乾杯しましょう」
「え? あの」
無理矢理盃を持たされ、乾杯させられた。こんなつもりでは、なかった。自分の過去を正直に告白し、伊東の情熱に水をかけて気まずく別れるつもりだったのに、結果は真逆の方向に向かってしまっている。薫子はどうしていいかわからなくなり、伊東にすすめられるままにひたすら盃を重ねた。
「薫子さん、強いですね」
「ああ? なんらって?」
酔いが廻るにつれ、なんだかどうでもよくなってきた。
「$*£◆□§◆▽〜¥⊆〓!」
ろれつの廻らない口で意味不明のことを叫ぶと、うひゃひゃひゃひゃと笑い、そのままカウンターに突っ伏して眠ってしまった。
気がついたのは、自分の家のベッドの上だった。後で母に聞くと、伊東が送ってくれたらしい。平謝りに謝る伊東に、母は好意を持ったようだった。
「誠実そうで、良さそうな人じゃない」
そうかもしれないが、初めてのデートで酔いつぶれ、自宅までかついで送らせるような女を好む男などいないに違いない。薫子は、もう二度と伊東が連絡してくることはないだろうと思っていた。
だが翌日には、早くも伊東から電話があった。先日の出来事を詫びるとともに、改めて交際を申込んできた。
「また、誘ってもいいですか?」
薫子は、物好きな男もいるものだと思ったが、断る理由を探すのが面倒なこともあって、しばらくつきあってみることにした。
数回のデートを重ねるうち、伊東が今どき珍しい飾り気のない実直な性格で、堅実な人生を求めていることがわかってきた。それなのになぜ離婚したのかが不思議だったが、薫子はしだいに伊東という男に惹かれつつある自分を感じていた。
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