第6話


 薫子の職探しは、うまくいっていなかった。薫子が望むような小奇麗な仕事もなくはなかったが、画廊では経験や英会話の能力が必要だったり、美術館では資格が必要だったりした。そのどちらも、薫子は身につけていなかった。

 高給につられて行った面接では、面接者が薫子の顔を見るなり、あからさまに失望したような顔をした。また、まともな会社のようなふりをしながら、実態は風俗業というところもあった。

 そんな様子を見かねて、貴和子は自分が近ごろはまっているスキューバ・ダイビングに誘った。

「あたし、講習も受けていないし、だいいち真冬の寒い海に入るのなんかまっぴらごめんよ」

「体験するだけなら、Cカード(認定証)は要らないから」

 貴和子は半ば強引に、薫子を西伊豆に連れ出した。


 海から上がった薫子は、寒さで歯の根が合わなかった。インストラクターに機材を外してもらうと一目散にシャワー室へ駆け込み、暖かい湯を三〇分近く浴び続けた。

 ようやく震えがおさまって浜に戻ると、貴和子たちがインストラクターや仲間たちと弁当を食べていた。薫子は寒さで硬直しかけた体をなだめすかしながら、ようやくのことで砂浜に腰をおろした。

「どうだった? ダイビング初体験は?」

 鳥の唐揚げをほおばりながら、貴和子が聞いた。

「……。死ぬかと思った」

「まあ、この冬のさなかに五ミリのウェットじゃあ、凍えるわよね」

 貴和子が着ているのは、近ごろ日本でも見かけるようになったドライスーツだ。ウェットスーツと違って中に水が入らず、とても暖かい。

「すみません。レンタルのスーツは、ウェットしかなくて」

 二十代後半ぐらいのインストラクターが、すまなそうに詫びた。その横から、プラスチックのカップを差し出す手が伸びてきた。

「コーヒー、飲みませんか?」

 熱いコーヒーを注いで渡してくれたのは、三十代前半ぐらいの男だった。短い髪に日焼けして真っ黒の顔、がっしりした体つきは、何かのスポーツをやっているように見える。 貴和子と同様、ダイビングの客として来ているらしい。

「あ、ありがとうございます」

 薫子は、まだかすかに震える手でカップを受け取った。カップの水面が、細かく波打っている。

「これ、使ってください」

 短髪の男は、自分の着ていた防水ジャケットを脱ぎ、薫子に着せかけた。薫子は男の親切に会釈して応じた。

 コーヒーと防水ジャケットのおかげで少し元気になり、さらに弁当を平らげると、ようやくまわりを見られるぐらいの元気が戻ってきた。ふと見ると、例の男はウェットスーツの上着を脱いで、肩を露出した状態になっている。こんなかっこうで、寒くないのだろうか。薫子は、借りていたジャケットを男に返そうとした。

「あの、これ」

「ああ、いいですよ。寒いですから、使っていてください。僕は大丈夫ですから」

 男の黒い顔から、白い歯がこぼれた。

「ダイビングは、初めてですか?」

「え? あ、はい。この女に無理矢理連れてこられて」

 薫子は、かたわらの貴和子を指さした。

「あはははは。それは、災難でしたね。でもこの季節は、海の透明度がいちばん高いんですよ」

 そういうと男は、横に置いてあった水中カメラを取り上げた。

「生き物は、ほとんど何もいませんけどね」

「写真、撮られるんですか?」

「趣味です。本業は、酒屋です」

「作るほうですか?」

「いや、売るほうです」

「何か、スポーツをやってらっしゃるんですか?」

「え、どうして?」

「だって、日に焼けてるし、いい体してらっしゃるから」

「毎日酒の配達をしていると、こうなるんですよ。ま、学生時代は野球もやってましたけど」

「そうなんですか」

 吹きつける海風の冷たさに、薫子は羽織っているジャケットの前を合わせた。

「午後、もう一本、潜りますか?」

 男の質問に、薫子はためらった。

「え、どうしようかな」

「写真、撮ってあげますよ。水中写真」

 二人の会話を黙って聞いていた貴和子が、口を挟んだ。

「撮ってもらいなよ。そんな写真、めったに撮れないよ」

「じゃあ、午後もう一本、体験ダイビングということで」

 インストラクターは、追加料金が稼げると思って愛想笑いをした。


 防水ジャケットを貸してくれた男は別れ際に「伊東酒店 専務取締役 伊東いとう亮介りょうすけ」と書かれた名刺を差し出し、写真を送るからと言って薫子の電話番号と住所を聞いた。薫子も男に対して特に悪い感情を持っていなかったので、教えることにした。

 一週間ほどして送られて来た写真は、水中を泳ぐ薫子を右横から捉えたショットだった。レンズを見たマスクの奥の目が、楽しそうに笑っていた。薫子は、あの拷問のような冷たい水の中で、自分がそんな表情をしているなどとは全く気がつかなかった。そんな一瞬を記録してくれた伊東という男に、なんとなく暖かい気持ちが湧いてくるのを感じた。

 スタンドに入れて飾ってあるその写真を見て、遊びに来ていた貴和子が聞いた。

「で、どうなの? その後」

「何が?」

「だから、この写真撮ってくれた男とよ」

「え? 別に何も」

「電話、してないの?」

「うん。お礼の葉書は出したけど」

「まったく、何してんだか」

「なによ」

 いわれのない批難に頬をふくらませる薫子に、貴和子があきれたように諭しはじめた。

「あのねえ。アンタはただでさえ離婚っていうハンデしょってるんだからさ。自分から積極的にいかなきゃダメじゃない。いい?」

 貴和子は、いちだんと身を乗り出した。

「今、酒屋は儲かって儲かってしようがないんだよ。銀座あたりに行くとね、不動産とか金融の連中なんか、凄いんだよ。アイスペールにピンクのドン・ペリとコニャックをがぼがぼって注いで混ぜて、ホステスさんといっしょにストローで飲むんだよ。そんなのが毎晩、何本も出るんだから。酒屋は、おいしいよー」

 そう言われても、それがどういう光景なのか薫子には想像もつかなかった。ドン・ペリやコニャックが、いったいいくらするものなのかも知らなかった。

「ふうん」

 気のない返事をすると、貴和子は念を押した。

「電話しなさいよ、必ず。理由なんか、何でもいいんだからね。チャンスは、後頭部ハゲなんだからね」

「何? 後頭部ハゲって」

「後ろ髪は、掴めないってこと。ちゃんと、電話するのよ」

「わかったわよ」

 うるさい貴和子を黙らせるために調子を合わせたが、薫子は自分から積極的に電話する気にはなれなかった。新しい恋愛をスタートさせるには、離婚で使ったエネルギーがまだ完全に回復しておらず、また恋愛そのものに対して妙に臆病になっている部分もあった。

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