第3話


 突然、左足に激痛が走った。

「痛い!」

「ぎゃああ!」

 薫子の悲鳴と、もう一人の悲鳴が重なって狭い台所に響いた。

「いったぁーい」

 たまらず起き上がって踏まれた足を撫でると、頭の上から不審そうな女の声が降ってきた。

「あんた、だれ?」

 ショートヘアの小太りの女が、上から見下ろしていた。昨日の女ではなかった。

「あ、あたしは……」

 薫子は説明に詰まった。昨晩のことを、なんと説明したらいいのだろうか。

「その、この事務所の前の道で寝ていた女の人に牛丼を食べさせてあげて、そのお礼に、ここに寝かせてもらって……」

 しどろもどろの説明を、女が途中で遮った。

「ああ、加代子かよこがまたやったのね。わかったわ。でも、もう仕事が始まるから出てってくれない?」

「あ、はい。今、何時ですか?」

「十一時過ぎ」

「え? もう、そんな時間?」

 薫子があわてて身支度を整えようとすると、今度は男の声が聴こえてきた。

「ふく子ぉ。加代子、どこに行ったか知らない?」

 ドアの影からひょいと顔を覗かせたのは、昨日の無愛想な男ではなかった。背丈は百六十センチそこそこだろうか。薫子よりも低かった。何よりも特徴的なのは、背の高さに比べ顔が異常に大きいことだった。そしてその顔は、脂がしたたり落ちそうなぐらいにギトギトしていた。

「あれ? だれ、これ。ふく子の知り合い?」

 男が、キョトンとした顔で女にたずねた。

「あ、いえ。あの、その」

 薫子が説明しようとする横から、ふく子と呼ばれた女が答えた。

「加代子さんが、牛丼と引き換えに泊めたらしいです」

「ああ、そう」

 男はさして驚くふうもなく、つまらなそうな顔をして台所から出ていった。

「あの、今のは?」

 薫子が男の去ったほうを指さすと、ふく子は外人のように肩をすぼめてみせた。

「ウチの社長。あれでも、この業界では有名人なの」

「業界って?」

「アニメ制作」

「アニメって、あのテレビとかでやってる?」

「そう。日出生ひじう信裕のぶひろっていってね。昔は、それすごい作品を作ってたのよ。『超人アレスター』とか『東京サイボーグ・ポリス』とか『ギルガメッシュ・ワン』とか。知ってるでしょ?」

 そのどれも、薫子は聞いたことがなかった。

「いえ……。ごめんなさい」

「なんだ。知らないのか」

 ふく子は急につまらなそうな顔をして、寝袋を片づけはじめた。

「失礼します」

 薫子はふく子に一礼すると、台所を出た。隣の部屋では、日出生と、昨日もいた無愛想な五分刈りの男、そしてもう一人、こちらはかなり背が高く、黒ブチの眼鏡をかけ、長い髪を頭の後ろで一つにまとめたヒゲ面の男が何やら話し込んでいた。

「あ、左文字さもんじ監督だ」

 ふく子が、ヒゲ面の男を見つけて素頓狂な声を出した。

「あ、どうも」

 男は、気がなさそうに返事をした。

「どなたですか?」

 薫子がおそるおそる聞くと、ふく子は嬉しそうに教えてくれた。

「左文字りょうさん。『ギルガメッシュ・ワン』の監督よ。あたし、ファンなの」

「はあ」

 薫子がその名前を知らないようだとわかると、ふく子はまたがっかりしたような顔をした。薫子はその顔を見ないようにしながら、出口へ向かった。

 男たちの後ろを通るとき、薫子は小さな声で礼を言った。

「泊めていただいて、ありがとうございました。助かりました」

 その声に、日出生は顔をあげて薫子を見た。

「ねえ、ウチで仕事しない?」

「は?」

「仕事、してないんでしょ?」

「え、どうしてわかるんですか?」

「だって、平日のこの時間に、こんなとこでのんびりしてるから」

 図星だった。薫子が返事に困っていると、日出生が勝手に時間を指定した。

「じゃ、明日面接するから。一一時に来て」

「え? いえ、あの」

「じゃ、悪いけどオレ、忙しいから。明日ね」

 日出生はそう言うと、男たちとの打ち合わせに戻ってしまった。その間に割って入れそうな雰囲気ではなかった。しかたなく薫子は二人に一礼し、事務所を出た。


 西麻布から乗ったバスは異常に暖房が効いて、まるでそれがサービスだとでも主張するように暑かった。薫子はたまらずコートを脱ぎ、つり革にぶら下がった。車窓からは、そこかしこでビルやマンションが建設されている風景が見えた。

 この数年で、東京の風景は激変した。高そうな背広を着たガラの悪い男たちが町を徘徊しはじめると、その数カ月には町内のほとんどが空き地となった。そしてその跡地には、決まって安っぽい作りのコンクリート製の建物がにょきにょきと生えはじめた。ささやかだが落ち着いた暮らしを営んでいた人々は姿を消し、そのかわりに得体のしれない人間たちが跋扈しはじめ、昼と夜の区別もない狂宴を日々繰り広げるようになった。一九八九年という年は、そうした東京の変貌がピークに達しつつある年だった。

 うだるような車内から変貌する町を眺めながら、薫子は日出生という男の言葉を思い浮かべていた。確かに仕事はほしい。貯金は、底をつきつつあった。両親は戻ってきた薫子を何も言わずに養ってくれるが、定年の近い父親にいつまでも迷惑はかけられない。

 とはいえ、あの立木とかいう男の愛人になる気はさらさらなかったし、あのなんとかというアニメ制作会社に就職するつもりもなかった。アニメなど全く知らないし、興味もなかった。だいいち、あの汚らしく雑然とした中で自分が働くということが想像できなかった。自分としては、画廊とか美術商とか、そういう小綺麗なところで働くのが好ましいし、自分の性格にも合っていると思っていた。

 よし。決めた。薫子は、日出生の申し出を断ることにした。電話で断ろうと思ったが、電話番号を聞いて来なかったことに気がついた。しかたがないので、明日また西麻布まで出向くことにした。

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