第2話
二
終電の時間は、とっくに過ぎていた。今夜は、貴和子の部屋に泊めてもらうつもりだったのだ。しかたなくタクシーを拾うことにしたが、タクシーは「空車」のサインを出したまま目の前を悠然と通過していった。 何度手を挙げても、停車するタクシーは一台もなかった。
ディスコの入り口で立ちつくす薫子に、黒いジャケットを羽織ったキザっぽい男が声をかけてきた。
「ねえ、彼女ぉ。乗らない?」
栃木ナンバーを付けたポルシェのドアを開け、屋根に半身をもたせかけながら、男は薫子を誘った。よく見ると、その男のポルシェの他にも、ディスコの前の道路には高価そうな外国製のクルマがずらりと並んでいる。そしてそのすべての車のかたわらに男が立ち、ディスコから出てくる女に声をかけるチャンスを狙っていた。
薫子は男たちが次々に投げかけるなれなれしい誘いの言葉を全て無視し、早足で歩き始めた。行くあてはなかったが、とりあえずこの場を早く離れようと思った。
寒い夜だった。薫子は両手に息を吐きかけた。白い息が、煙のように広がって夜の闇のなかに消えていった。両手で自分自身をかき抱くようにしながら、深夜の六本木通りを渋谷の方角へ向かって歩いていった。
街は、異様に明るかった。昭和天皇が崩御され、マスコミも町中もモノトーン一色に塗り潰されたのは、たしか今年の初めだったはずだ。クリスマスが近いということもあるが、一年も経たないうちにこのはしゃぎぶりは、どういうことなのだろうか。薫子は訝った。それに、自分が東京を離れる前は、六本木はこれほど明るい街ではなかったはずだ。どちらかというと暗く沈んでいて、大人が隠れて遊ぶ場所というイメージがあった。それが、ほんの数年でこの変わりようだ。
やがて、頭上から思いきり音程を外した歌声が降ってきた。聞き覚えがあるその歌に、薫子は思わず足を止めた。それは、まだ薫子が東京にいた頃によく聴いた男性ヴォーカリストのクリスマス・ソングだった。CMに使われたことがきっかけで今ではクリスマスの定番ソングのひとつとなっているが、その歌詞は、一人きりで過ごすクリスマスを歌ったものだ。酔っ払いが陽気な大声で歌うには、あまりにもふさわしくない歌だった。
薫子はゆるゆると頭を振って、再び歩き始めた。ときどき通り過ぎるタクシーに手を挙げてみるが、停車する車はなく、みな猛スピードで走り去っていった。西麻布の交差点を過ぎたところで背後を振り返ってみると、また空車のタクシーが近づいてきた。薫子が手を挙げると、薫子を上客と見たのか、タクシーは停車した。開いたドアごしに、薫子は行き先を告げた。
「あの、都立大学なんですけど」
「都立大学? 冗談じゃない。だめだめ、そんな近くは」
タクシーはドアを閉め、他の長距離客を探しにそそくさと発車していった。
薫子は、小さくため息をついた。近ごろの深夜タクシーは乗車拒否がひどいとは聞いていたが、これほどあからさまだとは思わなかった。
冷えきった体を再び渋谷の方角へ向けようとすると、目の端に見慣れないものがちらりと見えた気がした。確かめようと視線を戻すと、そこにはやはり見慣れないものがあった。路地を入ったところに、人が倒れている。 体の上には、段ボールが覆いかぶさっている。ホームレスだろうか。だが、段ボールの下に見えるのは、風体からして、明らかに若い女のようだった。
薫子はおそるおそる近づき、うつ伏せに倒れている女の背中を段ボールの上からそっと触ってみた。何の反応のもない。薫子は、いやな想像をした。
まさか、死んでる? 今度は、もう少し強く触ってみた。
「ねえ、ちょっと」
「何よう」
「ひいいっ」
予期せぬ返事に薫子は腰を抜かし、路上にへたり込んだ。それまでうつ伏せに倒れていた女がむくりと起き上がり、薫子をなじった。
「何で起こすのよう。人が寝てるのに」
薫子を恨めしそうに睨む女に、薫子は少し腹が立った。
「何でって。こんなところで寝てたら凍死するわよ」
「だいじょうぶよう。慣れてるもん」
女は、ホームレスにしては小奇麗だった。年の頃は二十三、四だろうか。化粧っ気がまるでなく、田舎の女子高生のようなオカッパ頭をしていた。
「あんた、帰るところがないの?」
「あるわよう」
「じゃ、こんなところで何してるの?」
「寝てたんじゃない」
「寝るんだったら家に帰れば? こんなところで寝なくても」
「帰っても、寝れないのよう」
「え?」
「あんたこそ、こんな時間に、こんなところで何してるのよう」
語尾が甘ったるく伸びるのが、この女の話し方の特徴のようだった。
「あたしは、その、帰る電車がなくなっちゃって」
「ふーん」
女は、つまらなそうにあくびをひとつした。
「牛丼おごってくれたら、あたしのとこに泊めてあげるけど、どう?」
「え、牛丼?」
女は、通りに面した二十四時間営業の牛丼屋を指さした。
「うん。お腹が空いて動けないんだ」
やはり、ホームレスなのだろうか。薫子は少し考えた。だが、このまま渋谷に向かって歩いてもタクシーがつかまるとは思えない。かといって、自宅のある都立大学まで歩くのはかなり辛い。女の申し出を受けることにした。
「待ってて」
薫子は牛丼屋に入り、大盛と味噌汁を注文した。牛丼を持ち帰ると、女はフタを開けるのももどかしげに容器に口を付け、ガツガツと食べはじめた。食べるというよりも、箸で喉の奥に流し込むといったほうがふさわしい作業を、薫子は目を丸くして見つめた。
「ああ、おいしかった」
「そ、それは、よかったわ」
大盛の牛丼を三分で食べ切る女を初めて目の当たりにし、薫子は少なからずショックを受けていた。
「約束どおり、泊めてあげるね。こっち、来て」
女は蒲団がわりに体に乗せていた段ボールをのけて立ち上がり、小さなビルの裏口とおぼしい汚いドアを開けた。
「ここなの?」
「そうよ。ついてきて」
ドアの奥にあった細い階段を、女が先に立って先導していった。やがて階段の上のほうから、アイドル歌手が歌うポップスの轟音が聴こえてきた。女がドアを開けると、ダムが決壊するように音の洪水が溢れだしてきた。薫子はその勢いに押し流されそうな感覚を覚え、あわてて階段の手すりを掴んだ。
「これだから、眠れないのよう」
「ここは、何?」
「スタジオSGT」
「え? エス、何?」
「S、G、T」
轟音に負けないように声を張り上げたが、女の声はよく聞こえなかった。おそるおそる中を覗くと、部屋の中は真夜中だというのに蛍光灯がこうこうと照りつけ、その下では、わけのわからない絵が書かれた紙だの透明なシートだのがあちこちに山積みになっていた。
床には、そうした仕事で使ったと思われる紙屑類に混じって、お菓子の袋、弁当の容器、飲み物のカン、カップ麺の容器、使った割り箸、丸めたティシュ、折れた歯ブラシ、切れたギター弦、カビの生えた靴下などが散乱していた。薫子はそれらを踏まないように慎重に選んで歩いたつもりだったが、こぼれたジュースの糖分で靴が床に貼り付き、足をとられそうになった。
目が慣れてくると、紙や透明シートの山の中に、小柄な一人の男がいるのがわかった。頭を五分刈りにし、顎にはまばらな不精髭を生やし、服は垢じみていて、もう何日も着替えていないことが容易に見てとれた。一心不乱に何かの書類を見つめ、ときどき思い出したようにシャープペンシルを走らせている。大音量のアイドル・ポップスは、この男の机にあるラジカセから鳴っていた。
「こっちよ」
女は薫子を促して、部屋の奥に進んだ。男の脇を通り過ぎるとき、薫子は軽く会釈をしたが、男は全く反応せず自分の作業に没頭していた。
奥にあったドアを開けると、そこは台所兼食堂のような場所だった。隅には冷蔵と流し台があり、棚にはさまざまな酒の壜が並んでいた。女がドアを閉めると、アイドル・ポップスの大音量はやや弱くなった。
「まさか、ここで寝るんじゃないよね?」
薫子は、そうでないことを祈りながら聞いた。
「あたし、いつもここで寝てるのよう」
女は気にするふうでもなく、慣れた手付きで部屋の中央のテーブルを動かし、隅から寝袋を持ち出してきて床に広げた。
「ほら。遠慮しないでいいわよ」
「あ、あなたは?」
「あたしは、まだやることがあるのよう」
女は、じゃあねと言って台所を出ていった。薫子はしばらくどうしようかと迷ったが、ここまで来てしまった以上どうしようもないと割り切り、思い切って寝袋にもぐり込んだ。寝袋は、なんとも言えない饐えた匂いがした。
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