第13話 光の果てに 0905 1885


 いつから始まったのか、という問いに答えるものはいなかった。

 どこから来たのか、という議論に終点はなかった。

 だれが最初だったのか、という事実を全員が知らなかった。

 どのように満ちたのか、という経過を覚えているものはみな枯れていた。

 なぜ現れたのか、という理屈が記されては消えた。

 

 そんな訳でどろりとした稀薄な水面の上に白く発光する二本の脚が降りたとき、その主は己が何であるのかをもはや思い出すことが無かった。白い光が立ち寄った世界では弾力と移動の中で小さな粒が固まって繋がり、集まり、それぞれ交換し合ってはより大きな塊となった。光は一列に並び、面をなし、整っていくとともに凝縮されるその種の群れを見ていた。四肢ある光は一つ頷き、徐々に交じり合いつつあるその球の国に自己を飛散させ、溶かしていく。生まれたばかりの球の国は唐突な外来を拒まず、冷却されゆくエネルギーの虚脱感に浸りながら漠然と変わっていった。

 おそらく偶然から生まれたであろうその球は幾度となく自分を結合と増大に目覚めさせ、中身を統べては新しいものにした。そう繰り返すうちに、深淵から色づいたものが現れた。調色された色調の朝、仕上がる輝きが球の薄膜に浮かび上がる。

 これが始まりの生命、多様に纏め上げられた熱の誕生であった。


 「オ、首」

 ヴァン湖の西岸を占めるネムルトの頂を見上げて、私は呟いた。

 太陽の光を反射して白々と光るヴァン湖は、火山の噴火によって生まれた東アナトリア最大の塩湖らしい。らしいというのは、私の前を堂々と歩いていく紳士の言葉だからである。

「ジュニア、あれは紀元前の王が作った石像の一部だよ」

 そう言って振り返った長身の姿は姓をジョオンズと言った。シャツの上にクラシックな背広を堅苦しく見せない風に着こなし、その胸は平坦だったので、容易にはその中身が女性の考古学者だとは見破れないだろう。

「どふして私のことをジユニアと呼ぶので?」

「それは君が素質ばっちりだからさ」

 ハットを両手で直し、ジョオンズ氏は遠慮なく荒れた山肌の上を進み続けていく。

 私は開国から何十年か経った郷土を出てまだ日が浅いのに、このジョオンズなる人はもう極東の島国の言語を流暢に操っている。そも出会いは数か月前、霧だらけの倫教で、出稼ぎ人の私が船着き場をうろついていたところへ彼女が現れたのだった。

 「イサオシ、トモニアゲマスカ」と言って。

 何が何やらわからぬまま蒸気船に乗せられ、色々ごちゃついた土耳古の港に上がり、また蒸気で走る鉄の箱に揺られてここネムルトの近く、ビトリスの街に付いた時にはジョオンズと私は何年来かの友人のように親しくなっていた。

 ところで、私は幼い頃から人には聞こえぬ音を知ることができたようである。

 おさだごわ おさだごわぁ

 文字に書き起こすには困難に過ぎるその音、あるいは声は、今私が足をつけているネムルトの下深くからも聞こえて来ていた。どことなく言い方が郷土のそれと似ている気がしたので、ジョオンズ氏から頂いた手帳に書き付けて、洋装の内袋に入れておいたのである。

 太陽の光は緩やかに傾いていた。

 「さて、もうすぐだ」

 彼女がそう言ったので私は背負っていた背嚢を下ろし、小走りで彼女の下へ駆け寄った。

 自身に満ちたその横顔を覗き込むと、ちょっと驚いたような色に変わって微笑む。

 「あの湖の底には何があると思う?」 

 向き直った紳士服の人が訊く。外見の若々しさに似つかわしからぬギラリとした眼光が私の視線と交わって、ヴァン湖の周囲に堆積した火山灰の層へ動く。

 「魚でさうか」と事情を呑み込めないままに言うと、ジョオンズ氏は意気揚々として「歴史だよ」と答えた。

 彼女が上着の胸に付いた小袋から鏡が前後に付いた筒を取り出して山の麓を指さし、私にそれを渡す。

 私が促されるままに透明な鏡面を除くと、ちらちらする湖面の上に何か孤のようなものが映っている様子が見えた。驚き、筒を離して見るとその半円はたちまちに形を無くした。

 「先生、あれは一体何ですか」

 「頂の首と同じに古代の遺物さ。始祖の先行種族が作りしもので、今ではただの幻だよ」

 それまで砂を運んでいた風が全く感じられなくなったので、不安になった私は筒 鏡をジョオンズに返した。空の色が青から真鍮色に移ろいつつあった。

 「始まりの人が誰かということを考えたことがあるかな。君たちの存在がどこから枝に分かれたのかということを」

 ジョオンズ氏は石像の首を背に腕を組んで話し始めた。

 「あの遺物は昔に外の世界との橋代わりとして使われたもので、最近まで封印されていた。だが今になって色が濃くなりつつある」

 「全く現れるとどうなるので?」

 「奴らが来る」と言いかけて彼女は口を噤んだ。その視線が私から逸れたので振り返ると、山頂から広がって四十人ほどのジョオンズ氏が立っていた。スーツに革靴という出で立ちは彼女と変わらなかったが、どの眼にも熱というもの一切が無かった。

 「郷のご家族で?」恐る恐る聞くと、腕を組んだままジョオンズ氏が口を歪めて嘲る調子で言った。

 「生き物としては近いが、違うね。彼らはただの奴隷で、私は楽しみを覚えた農民さ」

 私たちの会話を冷めた目のジョオンズ氏の一人は黙って聞いていたが、やがて鋭い目付きをこちらに向けて、横一文字の口を開いた。

 「そのような話し方を我々は知らない。楽しみという言葉は登録されていない。お前は模倣すべき相手の型式に記録すべきでない独創を加えすぎた」

 下深くから聞こえる声が大きくなり、私の耳の奥へ刺すような痛みを与えた。

 おさだごわ おさだごわぁ!

両手で音の入り口を塞いだが、変わらず響く崇念の響きに叫び声をあげて転げ回る。

 「ここには変わりゆくものたちが大勢生きている。この場所が好きだ」

 と言ったジョオンズに向かってジョオンズが指先を揃えた両手を向けると、その第一関節までが一斉に点火して放たれる。

 起き上がることができないまま、私の知るジョオンズ氏が倒れた。取り落とされた筒鏡が転がり、山の傾きに促されて私の足元へ来る。

 だが、私は苦痛にのたうつままに―

 全体重をかけて、左腕からその上に倒れこんだ。


 響きと衝撃の中で太陽が猛烈に回転し、私の意識が飛ぶ。

 白い光が幾度か点いては消え、銀の裏地を見た。

 そして、真っ暗になった。


 

 ちょび髭を蓄えた左道は炎天下の中、三十八式小銃を肩に掛けた護衛を数人連れ立って、大陸の土を掘り返していた。馬革の軍靴で地面を踏みしめつつ、期待を胸に徴用した捕虜たちの作業する傍を通る。やがて森の中に人工的な窪みが見え、左道の心は年甲斐もなく弾んだ。

「博士、左腕は見つかりませんでしたが、それ以外は無事のようです。ボストンからの情報通りでした」

 と耳元で報告する一つ星の兵を手で下がらせ、掻き乱される心を撫でつけ、窪みに降りると、慎重に残土を軍手装着した手で払い除ける。

 沈黙するそれはここに来て古くない。というよりもどういう訳か、生きていた。

 一九四三年 四月十一日 日曜日

 ワレ不死性奇人発見ス。

 江北にて 大日本帝国陸軍省医務局員 左道式

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