第12話 BLOOD OF BRAVE 芽る義ぶ

 橋上の敵兵へ向かって剽悍に襲い掛かる青い肌の男たちの姿を、点々と血の飛沫が浮いた水面の下から見ていた。長く伸びた爪を漫然とすり合わせながら鎧皮に覆われた体を動かすと、斬り飛ばされた誰かの右足首がすぐそばを流れてゆく。太陽は真上にあって明晰に輝いていたが、熱気の漂う石畳の上で中身をまき散らしている鋼姿の男たちは全くこちらに気づく気配がない。

 そして、一気に跳躍した。

 最小限の動きで橋桁に張り付き、水滴を垂らしながら躊躇なく上って橋の上に達すると、狭い足場に困ってモゾモゾと間抜けな動きを晒している黄衣の兵隊達の背中が見えた。音もなく続いて来た家族と素早く動いてこれの首筋を狙い、鋭い牙の並んだ口蓋を大きく振るわせた。

 ギチギチといかにも不快さを与える虫の鳴き声のような音を聞いた時には、兵たちの命運は決していた。前にはハイランダー、後ろには黒赤まだらの捕食者があって、彼らはもはや攻撃も退却もできないという有様を晒していた。これはあるハイランダーの男にとって予期が半分、意外が半分というところであり、男は戦列の前に出て敵兵を一人二人と切り捨てながら、背後を突いた者どもを目に収めようとしていた。

 三人、四人と両刃剣を振るい続けていると、やがて恐ろしい声で絶叫する皿兜の並んだ向こう側に血しぶきの跳ねる様子が見えてきた。

 五人目に剣を突き刺し、柄先を足場にして跳ぶ。

 眼下のそれらは人と呼ぶにはあまりに歪で、不具的な変態の様子を見せていた。

 毛のない体が赤黒くぬるぬるとして光沢を放ち、嘔吐物のような臭気を放っている。その人型の前に一回転して降り立つと、形容し難い鳴き声を放ちながらそれは男に真っすぐ歩み寄った。

 首筋にちくりと痛みが一瞬走った後で、男は自分の倍はあろうかというそれの首筋に右手を這わせると、振動する咽頭から紛れもない喜びの感情が伝わって来る。

 名前をまだ聞いていなかったことを思い出して、苦笑した。 


 昔の、大なるブリテンの島が未だ夜魔の深いまどろみの中にあった時代のことである。

 その頃のエドワァドなる王がイングランドを治めていた時、王の野心は北の国、義従弟のジョン・ベイリャルが座っていたスコットランドの王座へと向いていた。ベイリャルは諸侯の信頼を勝ち得ずしてエドワァドの操り人形になることを拒んだので、必然的に敗北を喫することとなった。ベイリャルはロンドン塔獄に幽閉された後、屈従する以上の侮辱、つまり己の身分を証明するものすべてを簒奪されるという辱めを受けた。彼は失意のうちにピカルディで死んだが、ベイリャルの犯罪的な愚かさはスコットランドの民衆にまで悲劇を及ぼした。王に忠実なイングランド人ジョン・ドゥ・ワァレン総督の下でスコットランド民衆は事実上の占領を受けたが、表面的にはそれを受容した。

 時の流れはある男の存在によって方向を大きく変えた。遅春を迎えたグラスゴウ東南の町ラナクで、サー・ウィリアム・ウォレスなるスコットランド騎士が無頼なるイングランド兵の袋叩きに遭遇したのである。この時騎士はある女性の助力によって窮地を脱したが、棍棒と縄を持った兵隊の壁を前にして終に彼女は捕えられ、卑劣なラナクの長官へゼルリグの慰み者となってしまった。その首は斧で打ち切られてなお暴れ続け、クライド川の淀んだ水底へ投げ込まれるまでにイングランド人の腕を十三本食い千切ったという。

 この無法な行いを民衆づてに聞いたウォレスは大いに怒ってレンフル―に駐屯していたイングランド兵の武器庫を襲った。騎士はクレイモアの大剣とクロスボウを二ふり、長弓を一張り持ってヘゼルリグを誅殺し、指名手配された彼を援護する民衆と共に独立軍を結成した。ウォレスの人望は多大なもので、民のみならず諸侯までが彼の抵抗に続いて行った。この予想外の事態にエドワァドは狼狽しつつも直ちに反撃するが、ウォレスたち抵抗の戦士はますます勢いを強めて、スコットランド諸侯の奸計によってウォレスが刑死した後も民衆の戦いは終わることが無かった。

 エドワァドは賄賂をもって捕えた大逆者ウォレスを死ぬ寸前まで痛めつけては蘇生し、断たれたその首と四肢をニューカッスル、ベリク、スターリング、そしてパースのほかスコットランドの三都市で晒して見せしめとした。恐怖を持って愛国心を消し去ろうと試みた訳だが、スコットランド民衆のイングランドへの反感は絶えることが無かった。しかしながら、同じくしてスコットランドの民の持つ弊風が彼らに一致団結して戦わせることを許さず乱世に陥った。ウォレスの後釜を狙ってジョン・カミンらスコットランド諸侯が争い、特にロバート・ドゥ・ブルースというウィリアム征服王の系譜に連なる男は“コウモリ男”として悪名を馳せていた。ベイリャルの時代には彼への敵愾心からエドワァドを支持し、ウォレスの抵抗に便乗したかと思えば私欲を持ってロバートと同じく王位継承権を持つライバルのカミンをダンフリーズの教会で殴り殺した。

 戦役によって人財を失ったイングランドではエドワァド王が死ぬと二世のエドワァドが即位したが、この王は政治よりも男遊びにうつつを抜かしていたので在位二年で愛想をつかした王妃の命により殺害された。結局のところ疲弊した両国の争いは、お家騒動の行く末と同期して平和条約が結ばれる形で一応の終息を迎えたのだった。


 月光の翳る曇天を背に、ダンバートン城の砦の上を歩く姿があった。

 その男が角形の端から下を見ると、暗く濁ったクライド川から霧が湧いている様子が映り、その尋常ささえ疎ましく思われた。

 茶褐色に変形した皮膚を指で二、三度掻くと、ボロボロと男の表面が崩れて行った。今となってはそれも大して苦痛でなかったが、終わりが近づいてきているという事実が身を少し震わせる。

 男が護衛の一人も連れずにこの暗夜へ繰り出したわけには、理由がある。

 一歩、一歩と石を穿つ音が男の立っている角砦の逆端からわずかに聞こえてくると、男は金の刺繍がいくつも施されたコットを翻して向き直った。

 一瞬の跳躍と、重々しい着地。

それは目というべき部位を持たなかったが、確かに怒りの篭った視線を男に向けていた。

 猪のような臭気と滴る粘液の不快さを考えながら、言葉を贈った。

 「遅かったな」

 カチカチと肉を割くためだけに備えられたのであろう歯を打ち合わせながら、それは地面に四足を置いて近づいた。

 「不満があるなら言えばいい。お前たちの命運まで保証すると約束した覚えはなかったと思うぞ?」

 吐き捨てるように言うと、それはギチギチと威嚇音を立てながら男を端に追い詰める。

 「スターリングでは勝った。フォルカークでは負けた。だがお前たちはまだ生きている」

 怒りの視線が細まった。

 「奴のことはご愁傷様だよ。退き時というものを知らなかったのだから。それとも何か、俺が颯爽と助けに現れるなんて思っていたのか。愚かなことだ。アビニョンに純粋さは罪だと申し立てようか。お前たちには悪いが政治というのはそういうものだ」

 冷ややかな言葉にそれは内で激高する素振りを見せたが、すぐに憂鬱さを取り戻して押し黙った。

 「ところで、あれを、頼む」

 男が言うとそれは不満げにグロテスクな頭を上下させて、一歩下がった。

 ひどく腹を立てた風体を崩さずにそれは口をパカリと開けると、小振りな内口が現れ、伸びた。人間で言えば舌にあたる部分であり、一つ違った用途に使うこともできるのである。

 首筋にそのインナー・マウスが突き刺さると、男は胸をどきどきさせながら痛みを甘受した。血の通う部分にそれが噛み付き、血と異穢気が交換された瞬間に男の肌は生気を取り戻し、夜気の冷たさを再び感じる。

 それが内口を納めると、男は憂愁を帯びた笑みで応えた。

 「わかっている。これは気休めだ。だがやる気が出ないよりはマシだろう?」

 それは忌々しそうに頭を振ると、大柄な体を動かして足早に去ろうとしたが、男の呼び止める声を聴いて振り返る。

 「これを」といいながら男は青地に赤い十字が染められたシクラスを差し出した。

 「持っていけ、これから色々と大変だろうからな」

 それは探るような気配で羽織を見ていたが、突如ひったくるようにしてそれを受け取ると、大きく飛んで姿を闇に消した。

 男も息をつくと、城の頂上から降りて行った。

 

 ブルースからランカスター公の時代まで、ブリテン島の北では赤い十字を纏った謎の一座が奇妙な手をもって不具者を治して回ったおったそうな。こうしてある種の化象が人と同化したことを、誰も知らない。


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