第11話 千夜を越えて
素手で触ればたちまち燃え尽きそうな砂の海の下、乾季のカッターラには水を求めて遊牧民が集まる。熱を抜きにして地平を見渡せば、湿った塩の沼やチーターの住むアカシアの森、段々に色の変わる崖が目に入るかもしれない。不毛の土地と呼ぶにふさわしいこの土地はずっと、ファラオやムスリムの戦士、キャラバンをも跳ね除けてきたのだ。ここで異邦人が生き残る道は獰猛なトゥアレグやベドウィンたちのガイドを受けて進む以外にない。
支配的な熱を持った風がサハラを吹くと、その後には誰の足跡も残らない。一秒ごとに変わりゆく荒砂の彩は命を容易く吞む色をしていた。
砂と岩がキャンバスの風景の中に、天へ向かって真っすぐに突き出た茶色の腕。何かを伝えようとして、あるいはその途中で息絶えたかのような躍動感。その腕にはリベットの痕やその他の溶接を受けたような痕跡が残っていた。そこから数メートル離れるとまた、錆び付いたバケツ状の兜や、一見不格好な玉ねぎに見えないことも無いような穴だらけの頭甲が埋まっている。陽に溶かされず、雨季の豪雨にも流されずにカッターラの凹地にいつの頃から居座るその姿は、さながら守護の対象を永遠に守り続ける騎士のようだった。
ここにいる者はみな死んでいる。
神が塩の塔を立たせた時のように残ったその突き出た鋼の半身や、あらぬ方向を向いて黙っている兜の数々は、受けるべき埋葬を受けずして逝った者たちの墓標であり、打ち捨てられた旧世界の憂鬱だった。
その中に私もいた。なぜ死んだのか、という理由付けは忘れて、ただ世界の果てのような野の姿をぼんやりと見ていた。内は空洞、外は鋼とはなんという冗談かと思いつつ回る日と月の動きを来る日も来る日も見ていると、次第に話し相手が増えてきた。朧げな記憶の中で口調や話す言葉の雰囲気を思い出し、腕や脚だけの友に死んだ名を再び呼びかける。砂の吹く中でも会話は途切れずに続き、やがてその低地の中で会の輪を作った。
とりとめのない思い出や顔に皺のできるような話で盛り上がると、少しずつ、だが確実に私たちは己の事柄を思い出していた。呻き声から始まった輪はやがて討論の場になり、まるで幾度となくそれを繰り返してきたかのように規律に基づいた奇妙な世界を創っていった。
私はと言えば、自分を取り戻すのに千年の時が必要になるのではないかという危惧を抱いていた。体は劣化しなかったが、変わらぬ日々の中、熱した凪は確実に私たちの心を蝕んでいった。
何十季が過ぎ、砂と交わりつつある私の心を揺り起こしたのは、千切れた一枚の布だった。おもむろに私の空になった兜へ被さった彼女は名乗らず、春眠を優しく起こそうとする伴侶のように私へ語りかけた。
聞こえる?
聞こえている。眠っていたようだ。
皆そうなるわ。暗いと冷えるね。
この砂は熱を留めておけないんだ。
私たちもそう。
……心配することはない。信じて待つんだ。
根拠はなかった。彼女もそれは理解していた。
このままでもいい?
こちらからも頼むよ。
そよ風でさえ吹き飛ぶだろうその一片はどうしてか、私が眠りに落ちそうになる度に背中をさするような声で留めた。
とても懐かしく思われるその仕草を受けつつも、私は彼女の名を思い出すことはできなかった。
やがて私たちを覆う砂の膜は引いて寄せるサハラの力で剥がれて行った。ゲルマニアの暗い原生林を覆う苔を思わせる速度で自由になる感触。それを感じるたびに私たちは歓声を上げた。彼女の声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
私は動けるようになった他の鎧の助けを受けて、四肢の揃った姿を砂の上に浮かせた。続々と仲間たちが動き出すと、月明かりの中で数十の人影が蠢く影絵を作り出した。黒ずんだ布はまだ頭の上に残っていたが、地上にはその特徴を見ることのできる残骸さえ見つからなかった。
ふと月を見上げると、雲の無い夜空に14番目の美しさを余すところなくそれが光っていた。急かすように涼しい風が一吹きすると、手中の布はたちまちに流されて行ってしまった。
「ありがとう」
淑やかに去っていくその姿に向けて、私は呟いた。自己紹介を忘れていたことを申し訳ないと思ったからだ。
私の名はアル・エジド。また会おう。
砂風が少し渦巻いた後で消える様子を見て、朗らかな気持ちになった。
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