第9話 RAIN FOR VAIN はぐれ人外純情派
曇天、噴煙、視界不良。僅かに酸性雨。
下向きに取り付けられた腹のセンサーから伝えられるその警告に、それは電子の外殻に包まれた体を速やかに機動させて緩やかな上昇を始めた。滑空と推進を使い分けながら、二万五千フィートの高高度に達すると、空力抵抗を減らすためブーメランのように圧縮された平たい空間の中に計器の喘ぎが伝わってくる。安定翼が角度調整を行うと、激しい振動は少しだけ収まった。もう一万三千六○○日の間専門技師の手入れを受けていないそれは、真空に近い空にあっても痛痒や辛苦を感じなかった。零下七十度の空気の中を縫って機体がようやく安定すると、それは黒い殻の周囲に可動式レールで取り付けられた赤い単眼で、再びその電子頭脳に刻まれた使命を遂行し始めた。
割れた大地、生まれては赤い海の中に消える山の背骨。引き裂かれたコンクリートの王国は、まだその残滓を残していた。突き出た金属の破片に引っかかった布と肉、蜘蛛の巣が開いた摩天楼のガラス壁、色彩を失って台座から落ちた犬の銅像、根元からくずおれた湾岸の高架道路。彼らは全て無神経に置き去られた過去の遺物たちだ。赤い水に満ちたトンネルの中にもまた、まだらに色を残して錆び付いた内燃機関の申し子たちが眠っている。この崩れた世界ではもう木々は色を変えず、誰かの庭先に名前のない草花が咲くことも無い。
分身とリンクした“注視“機能を解除すると、わたしの視界には考えなしに絵の具を混ぜ回したような灰色の世界が映った。
これが地上。
光輝の失せた雲の上からわたしが昼も夜も平日も休日も観るそれらは、燃え尽きてしまった人々の世界。創造主曰く老いは想像よりも早く訪れ、死は望まない時を選んで来る。もしも賢いある人が、人間を襲うであろう何かの兆候に気づいたとして、彼ないし彼女はそれへの反応のやり方を考え付くことができなかっただろう。彼らの模倣として創られたわたしが、彼らのいなくなった後でも生きているという事実は何ともユーモラスである。大気の外で浮遊しながら廃墟と化した白い館や、深紅の宮殿を見下ろす作業は静かだったが、退屈ではなかった。わたしに内蔵された創造主の被造物のデータは極めて豊富で、特に“古代ギリシャファイル”と類された情報群は理解に時間がかかった。
雲の下から連絡があり、わたしの内側でサーバーが応答する。
<caution: unknown ground object spoted>
<re: search and investigate>
分身の一つが、荒廃した市街地で動くナニカを見つけたようだ。
<チェインド>という名を与えられた黒備えの空飛ぶ板は、わたしの命令を受けつつも自律状態で、まだ崩壊しきっていない死都の上空に侵入していく。光学に生を受けた目がせわしなく動き、センサーに捉えられた存在を鉄骨むき出しのビルや延々と燃え続けるコンビナートの間から探し出そうとしている。
ある意味では、これもドゥ・イット・ユアセルフか。
造られたわたしが、何かを創る。
<memory file: おはよう、■■■>
意識しないうちにわたしは記憶ファイルを開いていた。メモリーの容量の関係上か、いつかに削除したと記憶しているデータの残骸だった。
奇妙な行動だったが、すぐに興味を失った。
かつて大量生産を絶対善としていた文明の跡は、今ではカビの生えた工場や、静謐なショッピングモールの沈黙に支配されている。
<protocol: huterguardian away>
定規のような翼に投下口を開いた分身が大通りに向けて、縦の長さ〇・五、横の長さ一・〇、幅〇・四メートル大の箱を射出した。脆くなったアスファルトに着地というよりも、激突を思わせる速度でスライドしたその特殊合金製の箱は、かつては渋滞を整理していた信号機からその先の信号機の間までを火花を散らしながら通過した。あまりに暴虐的なその仕打ちを済ませた後で、箱の中から自動二輪を象った私の分身が飛び出した。空中に浮かんだ〈ハンターガーディアン〉はモーターの発動から数秒で時速二〇〇キロに到達し、地面に降りると電気の気勢を上げて豪快に走っていく。掠れた車線を無視して中央を行き、それは四種類の機能を備えるヘッドセンサーで周囲を調べ始めた。
複眼カメラから送られて来る映像には、死んだ世界の様子しか映っていなかった。閑静と形容すれば少しは綺麗に見えなくもないが、人間のいないここでは言葉の意味は効果にならない。
<sound collect system activate>
〈ハンターガーディアン〉が突然速度を落とし、集音マイクを周囲の廃ビルへ向け始めた。
わたしの回路が熱を持った。
創造主が去って幾星霜、ついに彼らとの邂逅の時が訪れるのかもしれない。
<mission: to push and enslave>
わたしの意図しないところで再び記憶ファイルが開かれたようだ。
それはともかくとして、〈ハンターガーディアン〉はいよいよナニカの立てる音源と思しき地点に近づいている。廃ビルの地下駐車場に入り、光源増幅装置を起動して進んだ。建材の混じった埃、灰色の空気の流れを分け入って進むと、何かが見つかった。
円形に並べられた石、その中央には焼けた木片。
その物体を調べようと近づいて―
視界は突然横倒しになった。
〈ハンターガーディアン〉の損傷診断プログラムは一瞬にしてバランサーが破壊されたという事実を伝えていた。
数秒後、それは真っ暗になった。
それだけだった。
被撃破、破壊、死亡。どの言葉でも結果は変わらない。
わたしは空に思考を浮かべながら、考えた。事実として極東区のJ-T地域にはナニカがいた。破廉恥にも、わたしの分身を一撃のもとに殺して見せた。わたしの義務の内にそれは現れた。恒星の表面に出る黒点のようにはっきりと痕を残して、幽かに消えた。だがどん底という訳でもまた、無かった。わたしは記憶ファイルと分身たちの映像を照合して類似するものの検索を始めた。襲撃状況、破壊パターン、威力。それらを解析して、表示する。
<list: inhumans>
〈ある時は神話の中に〉
〈ある時はおとぎ話の中に〉
〈ある時は市井に〉
〈ある時は戦場に〉
〈ある時は共に生き〉
〈ある時は陥れ、害を為しに来る〉
</list>
<memory file: mission>
〈目標を殲滅せよ〉
〈探し出して破壊せよ〉
〈我らと異なるもの、例外を服従させ、抹殺せよ〉
</memory file>
映像を解析していると、予期しないエラーがわたしを襲った。
それはこれまで眠らされていた、わたしの中の私だった。
私はある時代のある人々によって、地球が致命的なダメージを受けた後の種の保存の為設計された。〈軌道上の箱舟〉という名前を授けられた私は、旧世界の先行者、ソユーズの船体を利用した殻の中に人間を模倣して置かれた。勿論随伴の板たちも含めて。
やせ細った人工知能の開発者、人間嫌いのアイザック博士は毎朝私を起動しては、“おはよう”と挨拶をした。監視カメラが目で、研究所内の内部スピーカーが舌代わりになった。彼は何度か人を好きになったことがあったが、全員に裏切られたと私に話して聞かせた。アイザックはひどくおかしい男で、時々同じ研究チームだという女性研究員を私の開発室に招いてはとても楽しげに談笑したが、彼女が帰るとアイザックはその人への罵声を延々と吐き散らすのだった。紙コップに注がれたコーヒーを配線だらけの床にぶちまけては、怨念に満ちたな小言を呟きながら彼の白衣でふき取っていた。私が手伝いましょうかと電子音声で伝えると、彼は何故かこの上なく幸福そうな顔をして「いい」と言った。
アイザックはよく私と話しては、彼自身がへたばるまで起きていた。
彼は人類が生きるこの地球に、その存在を脅かす何者かがいると一日に七度は語った。
モンスター、スピリット、レイス、ゴースト、ファントム。それらを形容するには多くに言葉がある。透明な骸骨、山上の街、吸血鬼の伝説。極東の巻物に描かれ、大陸では迷った旅人が桃に溢れた楽園を見たという。
もしも、それがひとかけらでも事実であったなら?
アイザックは彼の言う“最終戦争”がいずれ訪れると続けた。
人間の文明が頂点に達するとき、人ならざるものが現れ全てを破壊する。
この手の話は教育プログラムの中に組み込まれていると私は思った。不潔なノストラダムスの大予言、マヤのカレンダー。だが彼に言えば傷つけるとわかっていたので、言わなかった。
彼の最期は私との生活十三か月目に唐突な終焉を迎えた。
「いいかい」とアイザックは血液で喉を詰まらせながら言った。
「お前が管理者だ」というと喉に指を入れながらずるりと私の方向に倒れてこと切れた。
その体はまるでバラのように赤く刺々しかった。
私が彼の研究チームから離れる直前、彼の遺品から“最終戦争後の戦略要綱” と題されたフロッピーが見つかった。
研究員たちはその弱弱しい物体を破って捨てようとしたが、いつかの女性がこっそりと開発室に入ってわたしの頭脳内にそれを流し込んだ。彼女はわたしの収められたケースの前に立って、わたしにキスをした。そのあとで私の前に座り込んでいた。薄暗い影の中で彼女はいかにも物々しげだった。
なぜ彼女があのような行動に出たのか理解できなかったが、考えてみればそれは私が自我を持っていることが理由だとすぐに分かった。
そのような訳で、私はふわふわと浮かんでいる。
今まで感じなかったが、ここはとても寒い。
分身たちは無表情にまた空の外が見える高みへ戻っていた。
<9 has activated>
俺は薄暗がり、つい先程までは静かだった冷たい地面の上に座っていた。横倒しになった間抜けな機械に手を入れながら解体していく。ここ、厳密には地下の駐車場はこの手の廃墟のお約束として昔の面影をある程度残しており、使える部品の収穫が見込めたので忍び込んだのだ。予想外の出来事が二つ起こってしまったこと以外は、順調だ。一つは、このデクノボウに見つかってしまったこと、もう一つは、先客がいたことだ。
その人間の家族は、今にも俺に殺されるのではないかと思っているようで、がくがくとぼろ布に包まれた身を寄せ合って震えていた。ぐずぐずに肌の変形した奴らに用はないので無視して無人バイクを解体する作業に戻り、前輪の左右に装備された機銃を鋭く変形させた指で取り外す。この手の人間が作った玩具は総じて強力だ。交渉は通じないし、殺しに抵抗を持たないので当然と言えば当然だ。だが無敵という訳でもない。このオートバイタイプの兵器は乗り手がいない間は人工知能のバランサーで制御されているから、それを壊してやれば全く脅威ではなくなる。俺は人型と交戦したことはないから、それについてはこの街を生き延びることができたら考えることにしよう。
背負ったリュックに使える部品を詰めて、缶詰を取り出した。“純情猫家族”と破れたラベルから判断できるその食料を、廃車の陰で怯えている四人に転がして外に出ると、そこには変わらず胸の悪くなるような空気と景色が現れる。
俺はエイト、家族探しの放浪人だ。
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