第8話 ジョバンニと低い城の女

 これからここに記す内容は、私が実際に目撃し、体験した出来事である。私自身が信じられないと思っていることを表現するのは難しいし、これを読んだ他人から見て気が狂っていると言われても私はそれを真っ向から否定しないだろう。だがどうか私を哀れんだり、薬を飲まねば夜を過ごせない神経症の老人だと思わないでほしい。あの時恐怖で歪みきった私の心を今でも怯えさせるものは、確かにこの世界に存在していたのだ。人が笑い飛ばす私の話を聞く耳のある者が、優秀なる知性をもってこの悪夢としか思えない出来事を解き明かし、私の心に安らぎを届けてくれることを願う。


 私は幼くして身なし児だった。貧しい労働者だった父は私が生まれた翌日に工場の有毒ガス漏れで斃れ、お針子の母も私を学校に通わせることなくして死んだ。寄る辺のない私を育てたのは、当時欧州での戦勝に気が大きくなり、数えきれない人種のひしめくるつぼの中で互いに勇気づけ合っていたシシリー出の大人たちだった。乱暴で、酒を飲んでは私たちに暴力を振るったが、それでも心は常に結びついていた。あるラッキーという男は禁酒法の時代に、十代の私を酒の密売に誘った。ダレッシォという女の下働きだったラッキーは動物が好きで、よく私とイーストサイドの波止場で遊ぶときに色々な小動物を見せてくれた。ネズミが特に好きだったようで、彼はイーストサイド中の彼らにとって名付け親だった。ある時私が風邪にかかって寝込んだときはラッキーが初めに駆けつけて、ドイツ系の闇医者に連れて行ってくれた。内輪に限らず、対立するギャングたちとも彼はまるで家族のように触れ合っていた。ある時正義ぶった警官が私たちの商売を嗅ぎつけて、闇市に乗り込んできたことがあった。半分折れた警棒でその男はレンガの壁際に押し付けた私の背中を何度も殴打したが、ラッキーが彼に何か言って手に紙切れを押し込むとすぐ去った。密輸ルートの開拓を任されたラッキーは誰にも優しく、誰もが彼を好きだった。そう思っていた。だが、才気に溢れたその姿をよく思わない者もまた多かったのだ。彼がファミリーへの背信を疑われ鞭打たれた時、私は自分でも信じられないほど怒り狂って暴れたと、後で私を治療した闇女医から聞かされた。

 ラッキーは幸運にも即死だった。嫉妬に狂った彼の二番手が、力加減を間違えたのだ。人間の友情とはさもしく脆いもので、無私に本能で水管を走り回るネズミたちの方がより相に愛情深いことを私は汚れたシーツの敷かれた上で目覚め知った。彼の痕跡を探して拷問が行われた埠頭の倉庫を渡り歩いたが、見つかったものは酒と偽札にアヘン入りの木箱、それに内臓が破裂して内側から赤く崩れたハツカネズミ一匹だけだった。

  私は大人たちを裏切った。ラッキーは私を弟のように思ってか、みっちりと酒の密輸方法を教え込んでいたから、禁酒法が解かれた時奴らを壊滅させる計略は楽に進んだ。闇市での威勢を失った成り上がりの家族たちを私は全員警察に売り飛ばした。女子供を買い殺し、暴力沙汰を起こして平気な顔をしていたシシリーの大人たちはその時忠実な息子の振りをしていた私を疑いもしなかった。鉄格子向かいに彼らに会うと、皆口を揃えて感謝している、恩を忘れないと言ったが、私にとってはそんな感傷は安ワインにも劣った。間の抜けた純朴な大人たちとの思い出はこれ以上特筆するものではないが、私の兄殺し、二番手の男は一味違った。セラーニォといったその男は小賢しく、三四年にマンハッタンの美術商に転向した私を西のアルカトラズから脱けてまで追ってきた。引退した同業者から手に入れたのか、愚かなセラーニォは雨の日の夜にトンプソン二挺とソードオフした水平連式散弾銃の引き金に指をかけながら引っ提げて、一人でセントラルパークの自宅を襲撃した。不幸にも侵入した彼は大理石の床で濡れた革靴を滑らせ、白黒の囚人服を汚れた赤に染める己の脳天を玄関に撒き散らして死んだ。その時奴の持ち物だった底のすり減ったつるつるの靴は今でも常に私の枕元に置いてある。私はそれに染み付いた潮の匂いが好きだった。私の家族たちは海の男でもあった。

 先にも書いたように、私は大人たちから卒業した後に美術品を買い、売り始めた。シシリーとのコネクションを私は受け継いでいたから、欧州の芸術家たちと接触することは容易かった。だが、順調に進む事業の中で私は憂鬱の影、漠然とした不安に照らされていた。そして、それが現実のものとなって鎌首をもたげたときには既に手遅れだった。数年後、私は贋作を制作・販売した罪で当局に起訴された。欧州で美のことなどわからないナチスの高官たちがこぞって貧乏貴族から美術品を買い集めていたので、安い物を高く売る私の商売は大いに繁盛したが、大いに目立った。それも極めて悪く。結局しかるべき筋、とどのつまり商売敵から訴えられた訳である。

  私は逮捕されたが、終点にはまだ遠かった。世界のファシストたちに軍事的脅威を感じていた一部の軍人から取引を持ち掛けられたのだ。後に戦略諜報局と呼ばれることになる陸軍の部署で、私は対独潜入員としての訓練を受けることになった。美術品への知識と商才を買われたそうだが、その時私には妻子がいたので気が気ではなかった。他にも“コブラ”などと呼ばれる超人的な戦闘力を持つ部隊が編成されていたようだ。私はギャング生活の中で銃を持ったことはなかったが、合法に人を殺す経験を四二年から積むことになった。七ヶ月の後チェコスロバキアでの反ナチ武装組織を支援する部署に入れられ、正規の上陸軍に先んじてイタリア戦線に上がった。補給隊の襲撃が主だったが、グスタフ防衛線近くで出会ったナチス兵の戦闘力は恐ろしく、戦死した同僚たちは五十の木箱に入って帰国することになった。さる自動車製造業の御曹司らしかったジョンという友人は、武装解除したと思った家の子供部屋から発射されたロケット弾で爆散した。九人兄弟の写真が納まった焦げのロケットペンダントが、ジョンの存在したただ一つの証だった。その夜に鉛玉の詰まった家の持ち主たちを私たちは森に埋めなければならず、戦争はいつ終わるとも知れなかった。しかし、結局私たちの知らないところで悪の枢軸は折られた。現地の民衆は連合軍を快く迎えたが、私にはそのいかにも媚びた様子が不快でならなかった。プラハの娘やその母親に気色の悪いにやにやした作り笑いを向けられて、私は自分でも確信を覚えるほど下手な憫笑を返すことしかできなかった。

 終戦交渉が始まった時、コルディッツへ向かう命令が部隊に下された。“Hの字”が死んでなお降伏しないナチスの残党がモラヴィアの奥地に逃げ込んだ、という情報をモスクワの同業者が提供してきたと書面でのみ伝えられた。全員が不満を訴えたが、選択の余地は存在しなかった。指揮官のフェルグス・ハントは、線路のような階級章を私たちの目の前でちらつかせ、理解を示したうえで、進軍を命じた。ハントは有能な男で、シュマイザーの機銃掃射を鼻先五センチに受けても身じろぎ一つせず戦略を構築する天才的な才覚を持っていた。彼は自身がウェールズ出身のアイルランド人で、英軍に入隊を拒否されたので海を越えてアメリカ軍に入隊したと語った。その真偽はともかくとして、ハントはナチスの軍人たちの不安を煽る力に長け、芸術的と言っていいほど巧妙に出し抜いて見せた。例として、彼はアテネのドイツ軍にハントが新任の将軍だと誤認させ、武装親衛隊との同士討ちを発生させたこともある。彼の指揮下で私たちは十全に非正規戦部隊としての力を発揮し、戦力を消耗しズデーテン山地に逃亡したナチスの崩壊など楽勝だと信じていた。

だが、事はそう順調に運ばなかった。

 敗残兵から接収した半装軌のマウルティアに乗って、荒れ果てたコルディッツ城に到着した時、かつて収容所に使われていた建物の中でハントは私を斥候に任じた。犠牲者の多い彼の部隊の中で私は数少ない古くからの生き残りだったからだが、深夜の月明かりが照らした彼の顔に突き合ったこの時、私にはどうも嫌な予感がしてならなかった。自動二輪車のサイドカーに無線機を載せ、ベルトで固定し東へ向かった。哀れな輸送隊への爆撃で穴ぼこになった道路をドイツ製のバイクは軽々と進んでくれた。奇妙なことに、立ち寄ったどの村でも住民の姿が見えなかった。略奪を受けた様子ではなく、まるで朝起きて朝食を一家そろって食べている最中に“消えた”としか表現のしようがなかった。私は神秘などくそくらえだと思って、コルディッツへの通信をオストラウの近くで試みたが、空虚な雑音しか返ってこなかった。何もわからないまま帰る訳にもいかず、私は死んだ街へ向かった。英米の爆撃を受けて荒廃した鉄鋼業の街は、私を拒否するかのよう瓦礫の円壁を作っていた。街に侵入できる地点を探している間にも、オーストリア帝国がこの地を支配していた頃の意匠が残った建物の力尽き、死に崩れる様子を私は数度見た。瓦礫の層が薄い地点を爆破して、徒歩で街に入った。乾いた砂の臭いが漂う街を歩き始めてすぐ、季節外れの生暖かい風が私の首筋を吹きぬけて行った感触を覚え、私は無意識のうちにカルカノ小銃を両手に握っていた。

商店や郵便局の並んだ通りを抜けて市庁舎の前に到達したとき、私は何者かの気配を感じて振り返った。

鈍い灰色のバケツを被った頭がヒューゴ・ボスの鋭角的なデザインの首から上に座った姿は何ともシュールで、ある種の極地へ追究する中途のような美しさがあった。我に返った私は素早くカルカノをハーネスで背中に回した。バケツ頭のナチス兵はゆっくりと市庁舎の前、私へ向かって歩いて来ていた。そのおぼつかない足取りから視界が悪いことは容易に想像できた。それが私の存在に気づいたのは、私がそれの持っていたStG自動小銃を力づくで奪い取った瞬間だった。

 混乱と停止。

 奪った、と思った瞬間に私は宙を舞っていた。

 アスファルトの道路を転がりつつ、私はその瞬間に起きたことを頭の中で整理していた。だが、それは私に回復する時間を与えなかった。私が後ずさりした後にそれの拳が振り下ろされ、黒一色の地面の上にに砂塵が舞った。背のカルカノは衝撃でぐしゃぐしゃに変形していたので、それをバケツ頭に投げつけると私は慌てて逃げ出した。先程までの緩慢な動きと違って、それは私の位置を正確に把握していた。

私は走りながら、腰のホルスターからガバメントを抜き出して発砲したが、バケツ頭は弾丸など意に介さず、真っ白な拳を握り締めると直線的な動きで接近しては私に殴り掛かった。それは人間にしてはあり得ないほど重く、攻撃を回避できなかった私は地面に倒れ、持続する痛みから腕の骨が折れたことに気づいた。意識が朦朧とし、私はそれの為すがままになった。

 薄靄に包まれた私の意識が覚醒したのは、白い部屋の中でだった。小綺麗なシーツに、へこんでおらず垢の付いていないパイプの寝床。私は不思議とイーストサイドを思い出させるその場所を病院だと見当をつけた。次に浮かんだのは、これが全て馬鹿げた幻想ではないかという不安だった。売り物のアヘンで破滅した男の最期を見たことがある。それは全身を細かく痙攣させながら、白目を剥いて、ひきつって横一文字に結んだ口から黄色い液体をとめどなく垂れ流していた。まだ肉体は生きていたが、その男の中身は虚無とはまた別の狭間へ消えていたのだ。やがて彼は死んだ。その躯は七日の間雑踏の中に置き去りにされ、ついに人知れず消えていた。あるいは私がそうなるかもしれなかった。オリーブドラブのジャケットの引き裂かれた跡はざらざらとして現実だった、だが折れたはずの腕は何事もなく伸びていた。

 私はベッドから起き上がって、その部屋の中を歩き回った。戸口は無く、まるで腕の良い彫刻士が削ったように四面の壁がつるつるとしていた。私の眠っていたベッドの右隣に質素なつくりの本棚があった。物言わず静かに佇んでいたその小柄な棚は年代物で、理解ある所有者に恵まれたであろうことを想起させた。だが、その中に訓練されたナチス党員のように並べられた形容しがたい羊皮紙の山は、どれも冒涜的であることを自己主張するように妖しげな雰囲気を放っていた。私は何故かそれを一枚、一枚と手にとっては好奇心を持って読み通した。総じて極めて旧く、古代ギリシャ語や秦の言葉で記されたものもあった。人間の尊厳など下水に流さんとする意思とこの世からかけ離れた色彩を帯びていた内容は、以下のものである。


 ゾタクアス=カンダキアデス燔祭法八章三四項

 彼は痴らぬもの。敬ひ罰を与へ給ふ。

 彼はいへり。我永遠なるもの。とこしへの世にていましらを待てやらぬ。

 彼は我なるや。唯一であり多元なり。

 彼は外の法を教ふる。犠牲を捧げよや。

 彼はまぐわふ。ことごとのものけがれしときとぶらひて。

 彼は已にみつくろいぬ。選びて顕れ契り結びぬ。

 私にはこれらの意味がさっぱり分からなかった。そればかりか読んでいる最中にとんでもなく恐ろしくなり、これらの記された羊皮紙を違わず元の位置に戻した。

見上げた天井から吊られた電灯一つの明かりのみが部屋を支配していたので、時間がどれほど経ったのか、私が意識を失ってからの時の流れを知る術は無かった。

 「おや、おはようございます」という声に驚いて視点を水平に戻すと白衣を着た女の姿があった。娘、というには成熟した様子のその女は、ばかに丁寧な口調で私のもとへ歩いてくると、無理にお連れして申し訳ございません、といったことをすらっとした英語で話した。私は何だか無精な自分の服装が恥ずかしく思えたが、彼女が書棚に近づいて私が触った羊皮紙の箇所をまじまじと見つめているのを見ると、急に背中をつぅっと垂れていくものの存在を感じた。彼女はのっそりと立ち尽くした私に向き直ってにっこりと笑うとそのまま外へ出て行った。そこで気づいたのだが、私の目の前ではいつの間にか長方形の形に壁が切り取られていた。即座に戸口ができた、としか判断のしようがなかった。切り取られた穴の向こうもまた、白色に支配されていた。外に出ようと思い近づいた時、その戸口からバケツ頭がドス、ドス、という音を立てながら入って来た。私は息を吞んでベッドの枕の方まで飛びのいたが、それはなんと近世の和からくりのように両手にガラスマグの乗ったヒノキ板を持っていた。私の居場所は把握しているようで、迷うことなく眼前に来ると、それはひざまずいて私の手の位置にカップが来るようにした。そのままでいるには不誠実な気がしたので、その透明なマグを取ると、バケツ頭はおもむろに立ち上がり穴から出て行った。カップ―ロシェールのものだろう―には透き通った液体が入っていた。

 単に水か、あるいは毒か。

 私が考え込んでいると、「ご安心ください」と言ってまた白衣の女が入って来た。女はヒルダ・ナイノーと自己紹介し、私が持っているグラスの液体を飲むように促した。彼女の振る舞いにはナチス特有の選民ぶったところがなく、真の意味で上品だったので私はヒルダの言うことに従った。私が質問しようとすると彼女は右手を緩やかに上げて止め、落ち着いた動作で ベッドに腰かけた。私も彼女に続いて一定の距離を取って座ると、ヒルダは昔話でもするような口調で言葉を始めた。

 曰く、この場所はナチス、連合、共産といった従来の枠組み、国家という垣根に囚われない自由な人々によって設立された研究機関の拠点であるということ。

 曰く、あのバケツ頭は彼女の研究成果の一つであり、他にも並行して進められている計画があるということ。

 曰く、私をこの場所へ招いた理由は私が能力ある人間だと彼女の上の人間が判断したからだということ。

 科学への専門知識が一切欠けている私ではヒルダの話はこのようにしか理解できなかったが、どうもこの場所で私が必要とされていることは理解できた。不思議だったのは、ヒルダとそのご友人方がなぜ私の素性を知っているのかということだった。ヒルダは私の姓名、育った町、犯罪組織との付き合いやその構成員の名前を全て知っていた。ラッキーのことも彼女はお悔やみを申し上げます、と言って目を伏せた。どうして、と聞くと彼女は表情を全く変えずに付いて来て下さい、とだけ言って歩き出した。

 ヒルダを追って部屋を出るとまた白の領域に踏み出した。通路は狭く、左右に通じていた。壁には一定間隔で商店のショウウィンドウを思わせる透明な板が嵌め込まれ、その奥には特異な風貌をしたものどもが陳列されていた。八つの目を持ち六本の腕を持つ人間や口が蚊のように変形した男、全身にバズーカ砲や金属製の杭が仕込まれた武器人間。彼らの姿に私は昔見たサーカス団を思い出させられた。一度だけそういった興業があったのだ。腕長のフットボール選手や、頭の二つある髭女。蜘蛛を操る少年にその師匠の血吸い男たち。ラッキーはその時仕事で私と離れていたが、家族のならず者たちはそれらが芸をする様子を見て大いに楽しんでいた。そのことを彼に話すと、ラッキーは憂愁を帯びた様子でそう、とだけ呟いた。

  ヒルダが何か言ったので、私は我に返った。

  私たちはいつの間にか灰色の領域、溶鉱炉や工場の生産ラインを思わせる場所に出ていた。ヒルダは私を輻射熱を遮るのだという隔壁の中へ招き、バンカーのように覗き穴が透明な板で覆われた窓から“工程”の経過を紹介した。

  ソビエトの中戦車が持つ履帯のように広いベルトコンベアーの上に、人が乗せられていた。彼は新任の諜報員で、私は名前を知らなかった。蜘蛛に食われる最中の蛾のように痙攣する粗末な陸軍服の上にひとりでに動く工作機械が注射を打つと、彼は静かになった。工程が進むと、戦列歩兵のように配置された数多の鋼鉄の腕が諜報員に手を加え始めた。

時間にして、約二秒間。腕たちが彼から離れたとき、若き諜報員は蟻のような頭を持つ男に変身していた。

 ヒルダは口角を淑やかに上げ、優美に微笑むと私に工程の終わった蟻男を見てみますか、と尋ねた。私は頷いて、ラインに歩いて行った。ヒルダが後ろから見る中、私は蟻男の破けた軍服の胸元を擬視していた。

 スコット。

 すまない、スコットと心の中で謝罪し、ヒルダへ向き直った。彼女は私に蟻男のレヴューを求めた。蟻男の外見について私は文句が無いというと、彼女ははにかんで、あれは私の部門が計画している量産品です、と語った。ヒルダはこの施設の中でも高い地位に属している事が伺えたが、あえてその話は持ち出さなかった。私は任務を果たせなかったばかりか、逆に道程を逆算されてフェルグス達を無残に殺したという考えに至っていた。自責の念、というよりはむしろフェルグスがなぜ容易く部隊を損耗させたのかという疑問だった。諜報員のスコットには外傷が無かった。捕虜になったのではないとすれば、他の要因は何か。私はそこで考えを止めた。ヒルダに怪しまれたくなかったからだが、もう一つの、恐ろしい結論に到達してしまうことが恐ろしく思えたからだ。

  ヒルダは私の言い分に満足したのか、蟻男の評価表にAサインを連打していた。私はこの場所が気に入ったので、責任者に会わせてほしいと言った。ヒルダは万年筆を動かす手を止め、ブラウンの両目で私の目を見据えた。理性の体現者であるようなその眼差しに、私は少しだけ身震いした。

  足音と共に「任務ご苦労」という聞き覚えのある声が、つい先ほど私が入った隔壁の入り口から聞こえてきた。その方向に振り返らずに、手に保持していたロシェールのグラスを満身の力を込めて投げた。呻き声の主を突き飛ばして私は蟻男の下へ走った。

  その後の記憶は曖昧であり、ここに残すべきものではない。

  私はオストラウ郊外の森で気絶しているところをNKVDの援護部隊員に救助されたようだ。ダンコという大口径の拳銃を持った男はヒルダと名乗った女に似て一切感情を見せない人間だが、誠実だった、私の言い分を信じてハンブルクまでレンドリースされたウィリス・ジープで送ってくれた。ダンコは終始必要以上に言葉を発さなかったが、英軍との境界線で別れる時、サイレンの音が聞こえた、とだけ言った。ダンコとは以後会うことが無かったが、聞くところによれば今はカブールに赴任しているらしい。

  三年後、連合国の各諜報組織の審問から解放された私は戦略諜報局を辞して再びマンハッタンの美術商人に戻った。欧州の生活は悪くなかったが、私はあの土地に好かれていない気がしていた。フェルグスの部隊は存在しなかったことに決められ、私の罪状も消滅した。奇妙だったのは戦前に私を引き抜いた軍人もまた影を残さず消えていたことだった。そのバウアーと名乗った男やあの気違い城について私は大枚をはたいて調べたが、唯一見つかった情報は、アルジョエル・ベルジーニ・ベルトロというイタリア王国の軍医が医学者の妻と共に、私たちがコルディッツ入りした翌日にミラノの自宅から消えているということだけだった。このベルトロという男はナチス残党の脅威についてGHQに訴えていたが、受け入れられなかったようだ。ヒルダという女とは親族の関係にあったようで、二人は何か軍事的な意見を書簡でやり取りしていたようだ。このヒルダというのは偽名で、実際は三六年からナチスのラインハルト・ハイドリヒと交流していた謎の人間だ。ハイドリヒが暗殺されてからは全く名前が見つからなかった。例の羊皮紙について記憶の断片を頼りに類似の文献を探したが、南太平洋に呪文の意味が似た土着信仰があることしか判明しなかった。

 私の友人たちはこれらの経験を忘れるよう促した。私には妻子がいた上に、檻の中の家族たちの世話もまたする必要があったからだ。結局のところ私はただの商人であると言い聞かせ、ナチスの残党のことなど忘れることに決めた。

  だが七三年の今になって状況が変わった。マンハッタンの街を何か大いなる恐ろしいものが見ている。その確信がある。ベトナム・ウォ―の渦中で正体不明の軍事組織が動いていると戦中の闇市仲間から連絡があった。どの超大国も関与していないことは明白で、その集団はパラセル諸島の南ベトナム軍を内側から操っていると言われた。

[newpage]

 私には聞こえる。ラッキーが私を呼ぶ声が聞こえる。苦しみ、嘆き、なぜ助けなかったと叫んでいる。天蓋付きのベッド上で耳を塞いでさえ脳内で反響し続けるその声に私は今にも狂いそうだ。ラッキイイイイイイ

 タ コの味知 るスツーカ

 シュヴ ァルペ油 に付け揚げ

 補 欠の ハインケ ル君は 遅刻です

 三分フ ォッケウ ルフ




 私はこれ以上私をだまし続けることはできない。

 彼が私を見ている。

 彼は私だ。

 彼は遠い空から犠牲を求めている。

 彼は私に安らぎを与える。

 彼は私と交わって子を為す。

 称えよ!其は空の火鼠なり!




 私は彼の壊れる様子を階下で耳にした。

 彼の妻、今では私のお茶飲み友達であるお嬢様が驚いて大理石の階段を駆け上がってゆく。

 そんなに急ぐと、元も子も亡くしますわよ。奥様。


 






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