第7話 彷徨えるもの、オン、ビーチ
ロトビ山の朝と蛇の体は冷たい。
「敵蛇人を無力化」
襲い掛かってきた蛇男の首を崖下に投げ捨てながら、俺は胸甲の金具に取り付けられた粒ほどの水晶球に向けて叫んだ。通信は混線して使い物にならなかったが、呼びかけ続けていた。状況は極めて危うい。
「メイガスのキルゾーンに踏み込んでしまった、敵の集中魔撃を受けている!」
「バクスター隊十五名死亡!兵を退かせて下さい!」
「こちらヘスラー准長、撤退は認められない。トンネルを制圧してから死ね」
無慈悲に響く指示の声に胸が悪くなり、背中を曲げて岩だらけの地面にしゃがみこんだ。眼下にはまだ熟していない檸檬の木がぽつぽつと見える。
「今日は冷えてるな、どうだ?」
背後から冗談めいて飛ばされた言葉に振り向くと、腕を組んで姿勢よく佇む銀色の姿があった。
「チョー最悪だ。ロードスが天国に思える。ピエールはどうした?」
「奴さんなら楽しく残りの敵を追い詰めてるよ。それで?だからって諦めるのか」彼は踵を返して歩きだした。面食らった俺は少し戸惑って立った。
「おい待てよ、何する気だ?」険しい山道を追いかけながら問を投げる。
「お前に出来ないことだ」彼は一瞥もせずスタスタと距離を離していく。
嫌な予感がして、足を交差させる動きが早くなった。
「一応聞いておくが、お得意の“アレ”をやる気じゃないよな?」
「何か当てられたら私の家をくれてやるよ」と小ばかにした口調の返事。
「その反応!絶対やめといた方がいいぜ!」
「まぁ見てろ」
彼が立ち止まると、崖の上に並べられた木の樽から硝石の臭いが漂ってきた。
「困った時はこいつに限る」ご機嫌な様子で彼が言った。
「あー参ったよ。ダイダロスの次はゼウスの真似事か……」俺はすっかり呆れて樽に歩きよった。
「奴らが持ってた」
「で、どう使うつもりだ?」
「そうこなくっちゃな」彼は〈ヘッセン〉と刻まれた面甲を上げて、不敵に笑った。
奴隷に、金持ち、ならずもの。
数多の人行き交う港の喧噪の中、二つの人影が布製のカバーに覆われたものを荷車に乗せて運んでいた。正体が露見しないよう体に布を巻き付けていた為、二人の外観はまるで前衛的にデザインされたミイラのようであり、かえって人目を惹く結果を招いていた。周囲の視線と南から吹く熱砂の混じった潮風を大きく受けながらも二人は荷車を押して、〈ムーンライト〉と船尾に印された小舟の前まで向かった。古い鉄製の車輪が舗装されていない地盤の悪さによって、ガタガタと音を立てる度に荷物がわずかながら浮かび上がるので、その度に気を配らなければならなかった。雑踏からしばらく離れて小舟の前までたどり着くと、ところどころ布が破れて光沢の見え隠れする人影がもう一人に合図して、荷物を貝殻の混じった地面の上に降ろした。
「着いたぞ。ここまで来たらもうこっちのもんだ。おたくらが万全の状態に戻るにはまだちょっと時間が必要だけどな」ドラガンが呼びかけた。
粗末な麻布の覆いの奥から返事があった。
「そりゃ一体どういう意味だい」
ドラガンは全身に巻かれた布を剥ぎ取った。小舟の中にそれを放り込み、もう一人に周辺の警戒を命令して、今しがた降ろした荷物の覆いを外す。
「つまるところだ、このパイレーツでめちゃアツな海岸から抜け出してあんたが無事に戦えるようになるには少しばかり手を入れなくちゃならないんだな」
「部品がどこかに残ってればいいんだが、新しく作った方が安上がりかもな」心配そうに言った声の主は鋼色の身体を何分割かされたままの状態で、嘴の突き出たフルフェイスの兜の奥から声を発していた。
完全に偽装を解除したドラガンの姿は、空中に浮かんだチェーンメイルが人語を操っているという何とも奇妙な光景だったが、この場にそのようなことを気にする者はいなかった。
「どうだかな」ドラガンは中に入った土砂を身振るいして落とした。「職人はどいつこいつもごうつくばりだ」
「特にドワーフは酷かった」胴体に〈ヘッセン〉と刻まれた鎧が言った。「軽くて頑丈なら値段だって安くできるはずだろうにな」
しばらく二人はだらだらとした口調で不満を言い合った。ほとんどは何度も話した昔の思い出だったが、最近に経験した出来事の内容も少し混じった。
「エジドが来る」ドラガンは過ぎ去った過去を懐かしむように言った。
「学者先生か」ヘッセンは少し驚いて兜を揺らした。「あの人も私たちと同じになってたんだな」
「ああ。なんでも遠い東の方に黄金の王国があるらしくてな。そこに向かうアラゴンの船に仲間がいるらしい」
「この港に入れるってことはろくな奴じゃなさそうだ」
「違いない」
二人はしばらく笑い声を立てて、静かになった。真昼間だというのに、呼吸音一つしない砂浜がいつか探検したクレタの迷宮のように暗く見えた。
「アラゴンか、姫様たちと会ったのはもう何年前だ?」ドラガンが言うと、兜が寂しげに音を立てて揺れた。
「さぁな。一々数えてない。こんな体になったんだから年月は意味がない」ヘッセンは言って、一言だけ付け加えた。「弟はもう毛が白くなってるかもしれん」
ドラガンは急に何かを失った気がして、既に消え去った手で鎖帷子の両肩を撫でた。
「帰りたいと思うか?」
「いいや」ヘッセンは突き放すように言った。「今は眠りたい。永遠に」
ドラガンは朽ちた体で砂の上に寝転んだ。感触は薄く、乾いていた。
「生涯現役だと息巻いてた頃が懐かしいぜ」ドラガンは視線を点々と白いぶちのついた空に向けた。
その視界に、割り込んできた影があった。不精に巻き付けられたぼろ布に性格が出ている。
「ピエール、お迎えか?」ドラガンが質問すると、彼は短弓を持った右腕を突き出して、北を示した。
ドラガンは起き上がって水平線を見た。
帆を広げたその大きな影は、錨を下ろしつつあった。甲板の上に他の人間達とは異なる、光沢のある姿が見えて、ドラガンは安心した。
「味方だ」ヘッセンが兜だけのまま言った。
ピエールが海に入って小舟を引く準備に移った。ドラガンもヘッセンの体を再び布で包み、小舟に運び入れる。
「感謝してくれよ、あんたの体を取り戻すのに随分と苦労したんだ。ヴェネチア商人ってのは商売になると実に面倒なやつらでね」
「貸しを忘れてないだろうな。トラキアじゃお前をケンタウロスから助けてやった」
「それじゃこれでおあいこだ」
ピエールが櫂を水に突き入れて漕ぎ出した。同じにドラガンも櫂を動かし、小舟は岩だらけの海に進みだす。真上の太陽の明るさが少し増した気がした。
失われた者達の道行きは、まだ始まったばかりだ。
【一九四二年七月におけるエル・アラメイン戦において負傷した兵士の証言】
尋問員:話してくれ、何があったんだ?
ジョン・ローソン二等兵:私の部隊はドイツ軍の戦車の砲撃を受けて、壊滅状態に陥りました。あたり一面が燃えていて、二線陣地まで後退することは不可能だと思われました。ですが……あの、この質問に答えれば帰して頂けるのですか?
尋問員:そうだよジョン、君の助けになりたいんだ。知っていることはすべて話してくれ。非現実的だと思ったことでも構わないから。
ジョン・ローソン二等兵:火傷を負って意識がはっきりとしていなかったのですが、突然私は何者かに引きずられて、いつのまにか防衛線の外にいました。
尋問員:それは君の仲間じゃなかったのかい?
ジョン・ローソン二等兵:はい、間違いなく英国軍ではありませんでした。まるで、その、中世みたいな……
尋問員:それは鎧だったのか?プレートアーマーかね?アーサー王のおとぎ話や伝説に出てくるような?
ジョン・ローソン二等兵:はい、そうだったと思います。
尋問員:尋問終了。
マイアミの太陽はイカロスを殺しそうな程に眩しかった。
「オイ見ろよ!このヤブ学者“迷宮は存在しない”なんてほざいてやがる」
数分前からずっと助手席のドラガンが広げた新聞に唾でも飛ばしそうな勢いでまくしたててている様子を見て、私は苦笑し た。金色のキャデラックの上では下品な振る舞いも霞んで見える。海の向こうでスラヴの民が何か陰謀……みさいるとか何とか を企んでいるとドラガンの広げた端に見えたが、私たちには関係のないことだ。
「仕草が汚いぞ」
「うるせぇや!俺は確かにあの中に行ったんだよ!」
目立つ行動は避けるべきだが、偽装の腕も最近では上手くなっていると自負していたので、周囲の目はそこまで気にならなかった。
そもそも天井無しの黄金クラシックカーという選択がまずいという点を除いては。
「言っておきたいことがある」ハンドルを前にしながら私は言った。
「おう何だよ」ドラガンは不機嫌に答えた。
「この乗り物は実に野蛮だと思わないか?火を使って車輪を動かすなんて」
「何言ってんだよ、使えるモンは使った方がいいだろ。そーゆーこと言うのはオジンの証拠だぜ」とドラガンは果物柄をした 布に包まれた頭を振った。
「……俺たち、パリコレに出られるかもな」
突然彼が言うと、一瞬の内に私は堪え切れずに笑っていた。
ドラガンも弾けるようにして笑った。
後部座席に軽く何かが落ちてきた気配があった。
「ピエール、奴らはいたか」ドラガンが言う。
二人の間で矢のように素早くやり取りが交わされ、小さく頷いたドラガンが地図を広げた。
「見つけたぞ、裏切り者のルチアーニさんよ」と地図上のランドマークを指さす。
「慌てるな……本当に敵とは限らんだろう」私は高ぶる気持ちを抑えながら言葉を絞り出した。
私たちは何故まだこの世に存在しているのだろうか。その理由を突き止めねば。
細かい都合なんぞ知ったことか。
嵐が来る。
三人の彷徨える兵士は戦場に行った。
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