第3話 斑入りの屍人たち 0304 1999

 遠くから踏み切りの音が乱れた息遣いに混じって聞こえて来ていた。

私は右手で相手の首を掴み、左手でその顎を強引に持ち上げた。左腕の肘から先が、急かすように内部のモーターを激しく唸らせている。覗き込むと影がかった相手の顔は、獣のように黒い毛で覆われてざらざらとしている。両腕は力なく垂れ下がり、口腔からは苦しげな息がしきりに白い色を帯びて吐き出されている。暗闇の中で光るその目があまりに充血し赤くなっている様子を見て、強く殴り過ぎたろうかと思った。その矢先に、野犬のような風貌の男が諦めと憎しみの入り混じった口調で言葉を吐き出した。

 「やれ」

 心が折れたな、と確信を得て少し残念に思った。

 男に与えたダメージの総量は、細かに左目の電子回路を伝って私の脳内に報告されていた。頭蓋骨にひびは入っているものの、肺はまだ片方残っている。足は腱が切れただけだろうに。根性のない奴だ。

 失望の感情を噛みしめながら、私は鋼鉄製の左腕を振りかぶった。

 高架下の暗がりで起きたその事実を、月の光が不気味に強調していた。


 一九九九年四月三日。土曜日。

田舎道の段差に揺られて左道は赤のホンダ・シティを運転しながら、後部座席を占拠している袋の存在に思いを馳せていた。荷物は出来るだけ小さく分けたつもりだったのだが、和製ミニを思わせる小ぶりなこの車ではやはり性能不足ということが分かった。

「趣味に走ることの愚かさを知りましたか?」

 助手席から怜悧な印象を持って放たれたその言葉に、左道は顔を歪ませた。

 「こいつが悪いわけじゃありません。運転する分には問題ないですし、小型だからこそ走りやすいんです。……でもね」

 「でもね、とは」

 「どうせなら最新型を頂いたほうが、仕事も上手く進められると思うんですよねぇ」

 乱暴に言葉を続けてハンドルを切る。

 車は砂利道を抜けて、コンクリートで舗装された一般道に入った。深夜2時ということもあってか、週末だが行き交う車の姿は少なかった。

  先程まで雑音を出すだけだったカーラジオが電波を拾って喋り出す。

 「前にも言いましたが、私が使える予算は必要最低限の要件に限られています。その左腕のメンテナンス費用がいくらかかると思っているのですか」怜悧な声が鋭さを増して左道の左耳に届いた。

 波長の合わない奴と話していても仕方がない。

 左道は大きく頷くと、ドライブウェイの先に見え始めた門に向かってアクセルを踏み込んだ。

 その門の前には、警備員が立っておらず、更には看板すらも付けられていなかった。

 門の中に入って聳える建物を見たならば、それがいつか病院として使われた存在だったことがわかるだろう。

 左道の車は門に入りきったところで右に曲がり、廃病院の駐車場へ進入した。

 崩れかけた塀が真正面に来た位置で左道は車を停め、エンジンを切った。

 「ところで貴方は何故この仕事に?」

  助手席から聞こえたあまりに唐突すぎる質問にキーを抜く手が止まる。

 「何故と言われても、他に出来る事が無かったんですよ」左道は楕円眼鏡の下で眉を寄せた。

 「強いて言うなら、人間に興味があったので。もう少し性格がこじれていなければ、学芸員にでもなっていたかもしれませんが。人間とそうでないものの違いを知りたい、そう思っているうちに人間じゃないものの方に考えが進んでいたんです」

 「人間じゃないもの、ですか」

 「何か文句でも?」

 「いいえ。貴方のことですからただ単に破壊衝動からかと思っていました」

 「無いと言えばうそになります。育った環境が環境だったのでね。もういいですか」

 「ええ。次の要件は追って連絡します。それまで待機していて下さい。荷物は404号室に」

 怜悧な声の気配がドアを開けて去っていった。

 左道はキーを内ポケットにしまうと車の中で一人、今の質問について考え込んだ。

 何故あのような質問があったのか、わからない。

 あの声の主――<ドクター>と名乗る女について、左道が知っている情報は極めて少なかった。一つ、外国人であること。二つ、医師のような装いをしているが、おそらく正式な免許は持っていないであろうこと。三つ、まるで死人のように体が冷たいこと。

 胡散臭さの権化のようなあの女は一体何者なのだろうか?

 とはいったものの、胡散臭さでは私もいい勝負か。

困惑は消える気配がなかったので、左道はその考えを振り切って車外に出た。

月の光が雲に遮られて濁りながら廃病院を照らし出している。

まるで斑入り模様だと思った。


 深夜。

私は数時間前に切断された毛むくじゃらの四肢を抱えて階段を下りていた。

一定間隔毎に吊るされた裸の白熱電球が、橙色の乾いた光をおぼろげに放ち、一歩進むたびに舞い上がる埃が照らされる。

階段を下りきると、通路の壁に“50“と赤色で書かれた文字が地下数十メートルの低みに到達したことを知らせている。

何故あのようなことを聞いたのだろうか?

廊下を歩きながら、私はそのようなことを考えていた。

左道瑠美。

私の“仕事”の補佐役として雇われてきた義手の女。

他の情報は知らされていない。

少々仕事が粗いところがあるものの、手際よく問題を片づけるといった点においては信用できる。

気が付くと廊下の突き当たり、アルミ製の扉の前で立ち止まっていた。

仕事に戻らなければ。

白衣のポケットから電子片の仕込まれたカードキーを取り出し、扉の取手にかざす。

この先にまだ三重の警備システムが備えられていることを思えば、別段急ぐ必要もないのかもしれない。

「ようこそ、ベルトロ研究主任」

私は電子音声に迎えられながら自分の仮の住まいへと帰った。


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