第32話 姫様と教育係
「アルシェ、婚約するか」
「……………………………………」
はい?
長い長い沈黙の後、漸く絞り出せたのはその言葉だった。
「いやか」
「いや、え?」
「どっちなんだ」
リッターが返答を急かすので、まるで自分が悪いような気がしてくる。しかし、そんなことがあるわけない。だってそんな空気じゃなかったじゃないか。
太陽が地平に沈んだ後も延々会議は続いた。リッターとチッターの父である宰相、そして自分の父である国王、その他重臣達数名。
あの毒薬を我が国でとりあつかうことはしない。国王は最初にそう宣誓して会議は始まった。
少なからず、あの毒薬はこの国に富をもたらすという欲を、王は真っ先に潰した。
あの毒薬は富以上の暗い何かをこの国にもたらし、きっとそれをこの小国では制御しきれない。その判断に多少不服そうな顔をしたものもいたが、その判断が覆されることはなかった。
話し合いの中心はラーゼルをどのように使い、交渉をするかだった。直接ランドール家と取引をするか、ランドール家が属する○○国に話をもちかけるか。
「ランドール家を敵に回すはまずいでしょう」
「かといって、あのままあの毒薬を使わせるわけにはいかない」
「もう実用化が進んでいるんだ。破棄したと言われたところで、信用できるわけない」
「解毒剤はこちらにある。毒薬で商売するのは駄目でも、解毒剤なら構わないんじゃないですか?」
「どう取り引きを持ちかけるにしろ、ラーゼル殿の身柄がこちらにあってこそだ。警備を強化しないといけませんね。自殺も困る」
「そのあたりはゲイルにお願いしてあります」
「あの遊撃隊か? 本当に頼りになるのか? ミスは許されないんだぞ?」
話し合うことは山積みだった。失敗の許されない取り引きだ。知恵を寄せあい、様々なシチュエーションを想定し、検討する。アルシェはラーゼルを捕らえた功績をたてにその場に無理矢理同席したけれど、口を挟む余裕はなかった。ただ、ひたすら話を聞いていた。怖い相手と暴力ではない戦い方を、自分は学ばなければならなかった。
だが、流石に一昼夜話し合いを続け煮詰まってきて、一度解散することになった。
「……リッター、何か甘い物食べようか」
途中軽食は出たが、そんなに食べてる余裕はなかったし、何より、今脳が糖分を欲していた。
「こんな真夜中に食べる気か」
「今なら許されると思うのよ」
「……そうだな。許されるな」
二人で厨房に行き、驚く女中相手に、焼き菓子とお茶と酒をねだり、運びますという言葉を断り、自分たちでアルシェの私室まで持ってきた。
大雑把にお茶を入れ、焼き菓子を一心に貪る。美味しい。
からの、求婚だった。
いや、求婚なのか? 求婚ってこんな風にするものなのか?
ラーゼルの求婚は、綺麗な月夜の下で、宝石を携えてだった。
なのに、今はくたびれた顔をして、手は焼き菓子食べたばかりでちょっと油っぽかったりしている。なのに。
「…………え、待って。どういうこと? え?」
「いや、あんまり今日の話良くない流れだったなと思って」
「え? そんな流れだった? どういう風に?」
「陛下はランドール家と事を構える気はない。敵対せずこちらの要件をのませるために落としどころを探すだろう。それはわかるな」
「うん」
リッターは教師モードになってゆっくり話す。頭にしみこむ時間をくれる。小さい頃から変わらない。
「相手を懐柔するのにはいくつか手があるが、一番簡単でよくある手法ってなんだ?」
「……政略結婚か。え、でもラーゼルと結婚しろって言うの?」
「あいつじゃ意味がない。だが、まだ長男も次男も正妻はいない」
「……私しかいないもんね、姫は」
子を成すことも王の重要な仕事の一つだ。母を愛し、没後しばらく独り身でいたことは、娘としてはありがたいが、国を思えば決して褒められたことではなかったと改めて実感する。
「そのうち、お前が俎上に上げられる。なら先にその目を潰した方がいいと思う」
「…………」
ラーゼルの、なんとなくランドール家と繋がった方が得だというふんわりした理由じゃない。
「……そっか。そういう話になるのか」
意図が明確で、結ばれることで確実に利益があるとわかる結婚。恋とか愛とか、そういう甘いものが入る余地のない、政治としての結婚。「……だからって。こんな時に言わなくっても」
「明日の朝になればまた会議だ。その前にこっちの方針を決めておかないと」
「だけど!」
「流石にランドール家に俺はついて行けないとぞ?」
「そんなのわかってる」
向こうからすればわざわざ間諜を引き入れるようなものだ
「多分、明日には政略結婚の話がでるぞ。決めるなら今晩中だ」
「……もうちょっとさぁ。こう、ロマンとかそういうのあるじゃん……」
「姫様のご要望に応えたまでですが」
「要望?」
「……傍にいろと言っただろ」
「…………っ」
――『私の傍にいて』
自分が言ったときの台詞を思い出し、頭に血が上る。
そうだ、自分はなんてことを。
「あんなに熱心に口説いてくださったのに、ずいぶんつれない反応では?」
「あ、あの時は必死で……!」
「求婚に答えてくださるんですが? 駄目なのですか?」
「リッター……!」
からかわれているのが悔しくて声を張ると、リッターはふっと表情を緩め苦笑した。
「……悪かった。態度をはっきりさせなくて」
「……え?」
リッターは、酒を入れたグラスをゆっくり揺さぶった。
「お前が結婚相手に俺を選ぶと言うことは、この国に残ると言うことだ。俺がつけば、自然と宰相もお前につくことになる。お前の意図がどうであろうと、弟君と王位を争うと思われるだろう」
「……そう、でしょうね」
継母は当然弟のネルヴィスの即位を望んでいる。それに対し、まだ父はどちらを後継者とするかの考えを明らかにしていない。まだネルヴィスは幼く、国を背負うに値するか判断できないからだ。
「……お前を、政権争いの場に置いていいのか、わからなかった」
「…………」
「結果、後手に回った。……もっと早く立場をはっきりさせるべきだった」
片手で目元を覆い、大きく息を吐いた。
「……落ち込んでるの?」
「……そりゃな」
「……珍しいね」
滅多に見ることのないリッターの後頭部をゆっくり撫でた。
「リッターはさ、いつも誰かのために動いてるじゃない」
「ん?」
リッターの髪は、思いのほか指触りが良くて面白かった。
「勉強好きなのに、私の世話係になるために学校辞めさせられてさ。国のために仕事して。……だから、たまには自分のために生きてもいいんだよ」
「どういうことだ?」
「……リバインに戻って、勉強の続きしたいとかさ。もし、考えてるなら……」
髪を撫でていた指が、リッターの手に捕まった。ゆっくりと顔を上げるリッター。
くまが出来て疲れた目。それでも、その眼差しは、強い。
「いいよ。俺の人生、お前にやるよ」
机の前にばかりいる男の手のくせに、絡められると、自分のそれより大きく見える。
「勉強なら、まぁ、そのうち暇になったらいつでもできるさ。だけど、お前が他の男の妻になって、俺が誰が別の娘を迎えて……」
それは、やっぱり無理だ。
耳元で囁かれる声。珍しい弱音に小さく笑った。
もう片方の手で、リッターの右手の中指を撫でる。ペンだこで硬くなった、その指。
「……うん。ちょうだい」
ゲイルに比べたら頼りない手。だけど、この手もずっと自分を守ってくれた戦う人のそれだ。
「やりたい事があるの」
この国をもっと豊かにしたい。他の国の動向に脅かされることなく、一国として尊重される暮らしをさせたい。その為に行動をとる権力を与えられて生まれた幸運を手放したくない。
「誰かにありがとうって言われるのが好きなの。生きてていいよって言われる気がする」
無条件の愛情を注いでくれるはずだった母親は早くにこの世から去った。国王たる父は私情に流されるわけにはいかなかった。
リッターに教えられたことが体に染み込み、行動の仕方を覚えて、やっと。
「だから、ごめん。私はリッターを手放せないよ」
やっと、私はこの世界に仲間入りしたのだ。
「私に全部ちょうだい」
「やっと、すっきりした」
リッターがくっくっと小さく笑う。
「何?」
「ずっとモヤモヤしてた。周りからは無責任につつかれるし」
「リッターがはっきりしないからじゃない」
「お前だって似たようなもんだろ。……あぁ、駄目だ。もう終わり」
「え?」
「眠い。頭がこれ以上働かない。陛下にどう話すかは起きてから考えよう」
珍しく無防備にあくびをしながらリッターは立ち上がり、無造作にアルシェを抱き上げた。
「わっ……! ちょ、なに?」
そのまま寝台に向かって歩き、ちょっと乱雑に寝台にアルシェを下ろすと、自分もその横に体を投げ出した。
「おやすみ」
「は? ここで寝る気?」
「もう、動けん」
リッターの目はもう開いていない。抱き枕のようにアルシェの体を抱き寄せ、すぐに健やかな寝息を立て始めた。
「……眉間、すごい皺ね」
夢の中でも会議の続きをしているのではないだろうか。眉間を思わずなでる。
半開きの口が間抜けで、そんな顔を見せることを許されたことに、実感がわいてくる。
「……お休み。リッター」
その額に唇を寄せる。
もう、この手の中にいていいんだ。
顔をリッターの胸に寄せ、アルシェも目を閉じ、幸せな夢の中に身を投じた。
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