第31話 侍女と隊長さん
心地よい気怠さ。体中の澱が外に出て行ったような、妙な心地よさ。
ゆっくりと世界に光が満ちていく。それはとても心地よい目覚めだった。
「…………あー」
頭がぼんやりしている。思わずシャリィの口から声がもれた。
「……私……」
「あ、目が覚めましたか?」
なぜここにいるのだったか、思い出そうとしたとき、優しく声をかけられた。
「……先生……」
そこにいたのは医務室の先生だった。よくアルシェが世話になっている人で顔見知りだった。
「ちょっと失礼」
額に手が当てられ、脈を確かめられる。
「熱は下がったようですね。脈拍も正常です。よかった」
「熱?」
「ちょっと怪我が深かったですからね。あの後、熱を出してずっと眠ってたんですよ。もう二日になる」
怪我。そうだ、この宮廷は襲われたのだ。アルシェを逃がして、ツェリを捕らえ、そして……。
「……結局、どうなったんですか?」
汗で気持ち悪い髪をかき上げながら尋ねると先生はにっこり笑って安心させるように答えた。
「大丈夫。みんな無事ですよ。今は姫様は陛下や重臣の方と一緒に会議をしています。リッター殿もそちらに」
先生は水を絞ったタオルを渡してくれた。冷たくて気持ちが良い。
「ゲイル殿は後始末に駆け回っています。……被害もそうとう出たようなので」
「……そう、ですか。そうですよね」
イブリスは平和な国だった。自分の命を脅かす存在になれてはいない。
「でも、大丈夫ですよ。きっとみなさんがなんとかしてくれますから。今は貴女は傷を治すことに専念してもらわなければ。さて、なにか食事を用意しましょう。お腹が空いたでしょう?」
「……はい」
「こんな時間じゃ女官はいないかな。少し時間がかかるかもしれません。消化の良いものでないと胃が受け付けないでしょうから。寝て待っててください」
「ありがとうございます。先生」
先生が部屋を去ると、静けさが部屋に戻ってくる。シャリィは大きく息を一つはいて、ゆっくり上体を起こした。
「……っ」
痛みが体を走る。
ずっと寝ていたせいか、体の筋肉が不自然に凝り固まっている。刃を受けた肩はまだズキズキと痛み、その存在を執拗に主張していた。
寝台から足を下ろし、恐る恐る肘や膝の屈伸をする。足は平気だが、腕は痛む。ゆっくり右を何度か開いたり閉めたりするが、上手く力が入らない。こっちは時間がかかりそうだ。あとの打ち身等は時間が解決してくれそうだ。
「……大丈夫。歩ける」
寝台の掛け布団を直し、医務室の出口へと向かった。しばらく医者は帰ってこないだろうが、時間はあまりない。
医務室の隅に置いてあった籠を見つける。中にあった傷を押さえるための布を床に落とし、薬品棚から痛み止めや抗生剤、包帯などこの傷の治療に必要な物を放り込む。
「……行かなきゃ」
この国にまだいられると思うほど、おめでたくはなかった。
アルシェ付きの侍女というわけで一応の権威というべきか、シャリィには一室自分の部屋が与えられていた。自分なんかにもったいないと思っていたが、今は素直にありがたい。こんな傷だらけの姿を誰かに見られたらごまかせるとは思えない。
布袋に先ほど拝借した薬類と、いくつかの私物を放り込んだらそれで荷造りは終わってしまった。最後に今まで貯めておいた給金を財布に移す。生活に必要な物は最低限与えられていたため、給金はほとんど手つかずで残っている。少しは贅沢したらとアルシェにはよく言われたが、貯めておいて良かった。
これで、この国を出る準備はもう終わった。
なんとあっけないことか。
素性を明かせない小娘をよくぞここまで雇ってくれたと思うが、流石にやり過ぎた。こんな怪しい人間を、もうリッターはかばいきれないだろう。
手加減したらアルシェを守れなかった。だから戦うことを選んだことに悔いはない。
ないけど。
「……みんな、少しは寂しがってくれるかな」
そうだといいな。せめて、騙していたと怒らないでくれたらいい。
私は、この国の人が好きだった。
とてもとても、好きだった。
「……行こう」
だから、自分から出て行く。
怯えた目で見られたら、もう、立ちあがれないと思うから。
鍵を机の上に置き、メモ帳にありがとうございましたと走り書きを残す。
残った未練をすべて吐き出して、踵を返す。
「……大丈夫。また、きっといいことがあるよ」
無理矢理笑った。
廊下を足早に歩く。足音を立てないように、されど迅速に。
少なかったはずの荷物が重い。ズキズキと痛み始めたのは肩なのか心なのか、目が熱くなるけれど無視して歩く。
どこに行こうか。別の国に行かなければいけない。しばらく国境の監視が厳しくなるだろうから、事が落ち着くまではどこかに身を潜めるべきかもしれない。
「……大丈夫。きっとどうにかなる。
言い聞かせるように呟く。今までだってどうにかなった。
「大丈夫。……大丈夫」
「――何が大丈夫なんだ?」
静かな廊下に響く低い声。
今、一番聞きたくて、でも会いたくなかった人。
「よぉ、シャリィ。どこに行く気だ?」
「……隊長さん」
背後から近寄ってくる気配。振り向けない。顔を見たら決意が鈍る。
「……どうして」
「医者の先生が血相変えて飛び込んできたんだ。患者がいなくなったって」
「早かったな、気づかれるの」
もうちょっとスムーズにこの国を去りたかったのに、最後までかっこ悪いったら。
「で、どこに行くわけ?」
「……この国を出ます」
「どうして」
「いられないでしょう?」
「……なぁ、お前を鍛えたのは、どこの部隊なんだ?」
こつんと、すぐ背後に立つ気配がする。この男に背中を見せているのは、正直怖い。
「……ランドール家の私設部隊を撃退しておいて、ただの侍女ですなんていいわけが聞くとは思っていません。そんな怪しい人間を姫様のそばに置けない隊長さんの事情もわかる。だから、私はこの国を出ます」
「……どうして言えないんだ」
「隊長さんの手間を省いているんだから、邪魔をしないでください」
後ろを見ないまま再び歩き出す。その肩を掴まれた。
「……っ」
怪我をした方の肩だった。激痛が走る。
「っ、すまん」
すぐに肩に置かれた手が離される。その隙に走り出す。
「おい、待て……!」
だが、すぐに手首を掴まれ引き戻される。
「油断も隙もないな、お前は!」
「放してください! なんで邪魔するんですか! 自分からいなくなろうとしてるんだから、好都合でしょ?」
「あぁ、もう、暴れるな! どこを掴んでいいかわからん!」
掴まれた手から放たれようと暴れる。落ち着くように押さえたいのだが、また痛みを与えるのではないかと思うとどこを触ればいいかわからず、囲い込むように体を腕の中に閉じ込めた。
「逃げないでくれ。頼むから」
怪我をしていない方の肩に額を押し当てる。
「……だって」
「……お前を探しに行く間、ずっと後悔してたんだよ。お前にどう思われようと、何が何でも聞き出しておくべきだったって」
「……」
「お前が一人でどこまでできるものなのか。ちゃんと明らかにしておけば、今打つべき手をちゃんと考えられるのに。自分一人で急いで駆けつけるべきか、少し時間がかかっても応援を連れて行くべきなのか。……もう無駄だと諦めて、姫さんの護衛を強化するべきなのか」
ゲイルは俯いて、一言一言かみしめるようにつぶやく。こんな姿を見たいわけじゃなかった。
「心配かけてごめんなさい」
そう、この人は、本当に自分のことを心配してくれていたんだ。こんな私のことを。
「……ごめんなさい」
こんな私のことを心配してくれる人がいる。こんな、私を。
「……私の親、あんまりいい人じゃなくて……」
首筋をくすぐるゲイルの髪の感触、当てられた額の温かさ。何かが溶けるように、涙が落ちていく。
「だから、家にいられなくて……。体力と運動神経だけはあったから、だから、拾ってくれた人がいて」
その人は、寝る場所と技術、仕事をくれた。
生きる術と、生き抜く力を与えてくれた。
「その人が言ったんです。ここから逃げろって。お前の力を利用しない人のところに行くんだって」
「どうせ、元からないような命だったんだし、別にどうでも良かったんだけど、でもその人、言ったんです。ここから逃げろって。幸せになるんだって。それ聞いたら、私――」
私も、幸せになれるんじゃないかって。
私も、誰かに必要とされるんじゃないかって。
「……そんな夢を見て。ここに来たら、本当になんか幸せで」
涙ぐんだ声で、すすり泣きしながら小さく言葉を紡ぐ少女。
「分にあわない夢を見ました。でも、もう終わりにするから、このまま行かせてください。もう。みなさんに迷惑かけませんから」
「なんでそうなるんだよ」
思わずイライラする。腕の中にいる彼女はとても細く、このまま力を込めれば折れてしまいそうに思える。なのに、強情で、こちらの思いを汲もうとしない。
「……よくやった」
「……え?」
けれどイライラをぶつけたら、この少女はここから逃げ出し、そして本当に二度と姿を表すことないだろう。
「先に言うべきだった。お前はよくやった」
だから、胸の内の感情を押し殺し、ゆっくり話す。
「……隊長さん……」
「よく姫さんを守り抜いた。礼を言う。お前がいなければ、姫さんはあの男に捕らえられて、交渉の人質にされていた。お前がこの国を守ったんだ」
「……私……」
「この後の交渉は陛下やリッターが上手くやる。大丈夫だ、姫さんの願いだ。死ぬ気でかなえる」
「そうですね」
シャリィがようやく小さく笑う。
「うん、そうですね」
「……だから、お前もここにいればいいよ」
「…………」
体から力が抜けたかと思ったら、再び緊張する。
「お前もここにいればいい。姫さんの願いを叶える一翼に、お前もなればいい」
「……私、昔のことを話す気はありません」
「いいよ、もう。どうでも」
「どうでもって」
「だが、そうだな。シャリィの力を測りかねるのは困るから……、うん、お前、俺の部隊に入るか」
「…………は?」
耳元で怒鳴られる。
「は? 何言ってるんですか!?」
「いや、案外いい案だろ、これ」
アルシェの近くに護衛を増やさなければいけないと思っていたところだ。遊撃隊には男性隊員しかいないが、シャリィなら侍女としての実績もあるし、女性だけの場所にだってついていける。
どこで鍛えられたかは何があっても話さないだろうが、少なくてもあの襲撃に置いて4人の刺客を撃退し、隊長であるツェルとも渡り合った腕だ。悪くない。
「で、ちゃんと訓練して、お前の力見定めて、もう一度警備計画立て直してさ。だから」
体を離し、顔をのぞき込む。
大きな瞳が、涙に濡れてキラキラ光っている。
紅茶色の短い髪に指を差し込み、彼女が持っているバッグを取り上げた。
「いいから、ここにいろ。なんでもいいから、俺から離れるな。ここがお前の生きるべき場所だよ」
くしゃっと笑う少女。
涙が再びこぼれ出す。
そんなに泣くなよと思う。目が溶けてしまう。
そんな少女が無性に愛しく、その目元に唇を寄せた。
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