第27話 あの子は変な娘だった。



 男達の身のこなしに隙はない。じりじりと円を描くように立ち位置を変えようとする男達の動きを床を打って牽制する。こっちは一人だ。多方向から一気に押し寄せられたくない。

 先ほど剣を落とした男の手からは血が滴り床を赤く彩っている。いつも季節にあった花が飾られ優しい匂いのする王女の寝室に鉄の匂いがして、頭がくらくらする。

「何者だ」

「こっちの台詞です」

 手を押さえた男が鋭い眼光で睨み付けてくる。気持ちだけでも負けないように、睨み返した。

 鞭の攻撃範囲は広い。迂闊に足を踏み出せない男達の動きを見逃さないよう目を配る。時間さえ稼げればいい。アルシェは強い娘だ。一人でも最後まで走りきってくれると信じられた。

「……私、あなたたち許しませんから!」

 死角に入ろうとした男に鞭を振るう。突きだした剣を鞭で絡め取り宙に弾き、そのまま駆け寄って、鳩尾に蹴りを叩き込んだ。それを端に、男達が動き始める。背後を取られる。振り下ろされた刃を身体を反らして交わし、その顎に鞭を振り上げる。しなった革がのど仏の辺りを強打した。

「ぐわぁ」

「……うわぁ」

 自分でやっておいてあれだが、痛そうだ。男の首の皮は裂けて、赤い血が滲んだ。殺傷能力の低い物と考えてこの武器を選んだが、死ななきゃいと言う物でもないよな、なんて思い、小さく吹き出す。結構余裕があるじゃないか。

 その笑みを嘲りととったようだ。首筋を押さえていた男が再び向かってくる。痛みと激情で荒くなった剣筋は避けるにたやすい。身体を低くしてやり過ごし、振り返ってがら空きの背中に鞭を二度振り下ろす。服を十字に切り裂き、痛々しい跡を晒して男は倒れ伏した。

 次の標的を定めるべく視線を巡らすと、一人の男がクローゼットの扉に張り付きそれを開けようとしていてるのが見えた。

「させない!」

 その男の背に鞭を振るう。気配を察した男は身体を翻し、鞭は虚しくクローゼットを打った。続けて逃げる男を捉えようと鞭を振るう。男は剣でその鞭を防いだ。その刃に鞭が絡みつく。それを取り上げてしまおうと引っ張るが男も粘り、場が硬直する。動けないシャリィの命を奪おうと、残った無傷の男が駆け寄ってきた。

 斬られる。シャリィは躊躇なく鞭を手放しそれを避ける。引っ張り合っていた男は急に手放され、後ろに蹌踉けた。シャリィはその間を詰め、掌で顎をたたき上げた。歯がかち合う不吉な音を立て、男がふらつく。身を屈めて男の足に回し蹴りを入れ転ばせ、その頭を蹴りとばす。

「貴様っ!!」

「……っ!!」

 先ほどかわした男の追撃、シャリィは急いで鞭を取り返し、その刃を鞭の皮で受け止めた。男の方が高い位置から振り下ろしている。不利だ。歯を食いしばってじりじりと顔に近寄ってくる刃を押し返そうと力を込める。

「……こんな刃で……」

 怒りに目がくらむ。

「こんな刃で姫を傷つけようとしてるの?」

「……姫を傷つけるなと命令されている」

「怪我させなければ傷つけてないって、その考え方が狡いのよ」

 力を振るう者の傲慢に負けたくなくて、男を睨み付ける。

 力づくで従わされるのは悔しく、惨めだ。それは肌を通り越し、心に傷を刻んでいく。見えない傷は涙を血として現れていく。

「貴方たちは、ここにふさわしくない」

 この宮廷にあるべきじゃない匂いを充満させた。煙と血の匂い。それは戦場にあるべき物だ。

「帰って主に伝えなさい」

 きっと、今頃暗闇の中一人で泣いてる。

「姫様には指一本触れさせない。力ずくで手に入れようとしたって駄目よ。あの人の心はそんなんじゃ手に入らない」

 それでもきっと、あの人は走るのを止めはしないだろう。

「宝石をいくら積んでも駄目。それが分からない人に、あの人は渡さない」

 一瞬鞭を緩め、再びピンと張って刃を弾き返した。

「渡さない」

 首に鞭を巻き付け締め上げる。

「かっはっ……」

「認めなさい。あなた方はランドール家の手の者ね」

「…………」

「頸動脈決めて落としてあげる気はないよ。苦しみながら死んでいく?」

「……お、れは……」

 掠れた声で口を開く。

「ランドール家の者ね」

「……そ、ぐあぁっ」

「え?」

 濃厚な匂い、血の花が眼前に咲く。男の身体から急激に崩れ、その背後から一人の男が現れる。

「……やぁ、また会ったね、お嬢さん。ご機嫌いかが?」

 ナイフを投擲した姿勢のまま、軽薄な笑みを投げかけられぞわっと鳥肌が立った。

 先ほど尾行した男だった。こんな異常な状態だというのに、廊下で会うのと同じ顔している。

「……自分の部下でしょ、何してんのよ……」

 釣り目がちな瞳が印象的な、どちらかと言えば端正な顔が普通に微笑み、それが歪みを引き出す。

「だって駄目だろ? 身元ばらしちゃさぁ。素直に死んどけっての」

 笑ったまま人を殺せる。こいつは怖い男だ。

「……部下の質が悪いのは、上司の教育が悪いからよ」

 鞭を持ち直して、男を睨み付ける。

 この男には敵わない。まずい空気がピリピリ伝わってくる。そういう直感は外れたことがない。

 姫は逃げ切っただろうか。正直ここから逃げ出してしまいたい。

「そこをどいてもらおうか」

「聞けません」

 クローゼットを背中に位置取り、鞭を構える。

「面白い物を使うな」

「どうも」

 どこぞで会って、軽い挨拶を交わすような口ぶりで男は言う。

「よければうちの部隊に来ないか」

「白々しいこと言いますね。なびくと思ってもないくせに」

「この四人より使い物になりそうだ。一人欠員も出たことだしな」

「あんたが殺したんでしょう」

 男の黒い服には返り血がついていた。それは赤黒く、時間的に先ほど殺した男のものではない。

――それは誰の血だ。誰を殺してきた。

 叫びだしそうになる声を、心で強引に押さえつけた。





 暗闇は時間の感覚を鈍らせるらしい。どれだけ走ったのか全然分からない。自分が思ったように多分走れてない。だって出口がこんなに遠い。

「あっ」

 何かに躓いて転んだ。

「つぅ……」

 大きくすりむいたらしい。膝がじくじくと熱を持つが、暗くてその怪我の酷さを確認することすら出来ない。ちょっと触れてみると想像以上にぐっしょりと夜着が濡れた感触がして、びっくりしてそれ以上そこに触れなかった。

「……痛い……」

 堪えていた物が、堰を切ったようにあふれ出した。

 頬が熱い。チクチクする。

「痛いよ……、馬鹿……」

 どうしてこんな所に一人で私はいるのだろう。

 なんで私はこんな事をしているのだろう。

 こんな生まれを望んだ訳じゃなかった。自分で選んで王位継承権を得た訳じゃない。街に降りる度に見かける町娘達のように、自分の生き方を自分で選び謳歌してみたかった。こんな怖い目にあう必要のない生活を。

 ぼろぼろと零れる涙を甲で強く拭って、その人の名を呼んだ。

「…………」

 その人の叱責の声が浮かんでくる。

――しっかりしろ、アルシェ。

 いつも丁寧な口調なくせに、二人きりの時だけは昔みたいな言葉遣いをしてくれる。

「そうだ、しっかりしなさい、アルシェ」

 壁に縋るように立ち上がって、足を引きずって前に進む。 

 ここにこうして生まれなければ、私はあの人と出会うこともなかった。駄々を捏ねた所でどうにもならないこと言ってる場合じゃない。現実逃避は甘えが許される場所でするべきだ。今、ここじゃない。

「…………」

 その名を、口の中で小さく呟く。

 何度も何度も、繰り返す。



 それは私と地獄へ行ってくれる人。

その名は、私の誇りと同じ場所に住んでいる。






 男の立ち方は無防備にすら見え、自分一人が緊張していて滑稽だ。逆毛を立てた猫みたいだ。

「……姫様は渡しません」

 大きく息を吸い、床を踏みしめる。

「ならば死んでもらおう」

「やですよ」

 男が剣を腰から引き抜き構える。一つ床を打つ。少しも怯みやしなくて嫌になる。

「中々上手いが、隙が大きい」

 無造作に距離を縮めてくる。こっちはクローゼットを背にしていて下がる場所がない。その足を鞭で撃とうとしたが軽く避けられた。もう一振り、今度は顔を狙うが、手甲をつけた左腕に絡め取られ、逆にこちらの武器が封じられてしまう。振り下ろされる刃を、なんとか避ける。

「身が軽いな」

 鞭のせいで一定以上距離をとることは出来ない。ぐいと左腕を引いて、シャリィは引き寄せられる。打ち下ろされた剣は鞭の柄で弾いた。

「ほう」

 楽しげに呟く。その余裕が、自分たちの力量の差を示していた。

「…………」

「降参したらどうだ? 気に入った。命は取らないでやるよ」

「冗談」

「本気だよ。丁度いいじゃないか。姫君と共にくればいいんだ」

「…………」

 アルシェを傷つけるなという命令は嘘ではなかったらしい。シャリィは鞭を手放した。

「諦めたか?」

「……姫様は渡しません。この扉は開けさせない」

 スカートの裂け目に手を差し入れ、小さなナイフを取り出した。二本、両手に構える。

「ほう……」

「絶対に、姫様を傷つけさせたりしません」

 その男の剣の前に、このナイフじゃあまりに心細い。それでもやるしかなかった。体勢を低くして床を蹴り、一気に距離を縮める。狙うは男の喉。懐に飛び込み切り上げる。男はバックステップでそれをかわす。更に一歩踏み込み左の一撃。男の剣にナイフは止められはじき飛ばされる。右のナイフで腹をえぐろうと突き出すと、男は脇に挟むようにしてその腕を捉えた。男の顔が間近に迫る。シャリィは頸動脈を食いちぎってやろうと首筋に顔を近づける。気配を察した男は腕を離し、シャリィの腹に足裏を入れ蹴り飛ばした。

 シャリィの軽い身体は大きく吹き飛ばされた。息が詰まり、咳き込んだ。

「……面白い女だな。お前、何者だ?」

 こつこつと足音を立てて近づいてくる。左腕に巻かれた鞭は後ろの放り投げた。

 俯せの状態から上半身だけようやく腕で立たせたシャリィの顎を男が左手で捉えた。無理な角度に顎を持ち上げられて苦しい。

「……アルシェ様の侍女よ」

 荒い呼吸に紛らせて声を出す。悠長とも言える男の問いが今は有り難い。その一言にかける時間が、アルシェを安全な場所へ運ぶ時間を稼いでくれる。

「ただの侍女がこんなことをするのか。侮れないな、イブリスも」

 にやにやと面白そうに言葉で嬲られる。

「ええ、どこぞの坊ちゃんにそう言って差し上げて。あんたに御せるような国じゃないわ」

 思う存分馬鹿にするがいい。その時間を稼ぐために自分はここにいる。

「悪いが俺は言われたことをするだけなんでね。諫言差し上げられるような立場じゃないんだ」

「だから、詰めが甘いのよ。坊ちゃんは」

 血に塗れた唾を男の顔に飛ばす。自分の目をめがけてきたそれに、男は反射的に顔を逸らした。

 シャリィは右手に残ったナイフを顔の側面を狙って振り降ろす。そのナイフを男は手甲にぶつけるようにして防ぎ、剣の柄で腹を殴る。

 かほっと不自然な咳をして、ふらふらとシャリィは後ずさり、クローゼットの縁に寄りかかる。

「……往生際が悪いな」

 寄りかからなければ立っていられない。

「……姫様を苛めないで……」

 目の前がかすむ。

「姫様に酷いことしないで……」

 痛い。苦しい。怖い。死にたくない。

「姫様を、この国を」

 居場所をくれた国。こんな自分に優しくしてくれた人達。

 温かい笑顔が脳裏をよぎっていく。ゲイル。



「どうして馬鹿にするの?」

 涙が零れた。



「…………」

 こつこつと男が近づいてくる。せめて最後にもう一矢。ナイフを握る手に力を込めたが、すぐにそれをねじり上げられる。

「……ぁっ」

 もう吐息のような悲鳴しかでない。

「……殺すのは惜しいな」

 男の顔から笑みが消えた。

「名は?」

「……」

「教えろ」

「……人に名前を聞くときは、先に名乗るのが礼儀じゃないの」

 乾いた唾を飲み込んで、掠れた声で言ってやると、男は一瞬きょとんと目を見開いた後吹き出した。

「まだ、それだけ言える元気があるのかよ。大したもんだ。そうだな、ツェルとでも呼んでくれ」

「……シャリィ・カーナ」

 左手はまだ空いてて無事だ。シャリィは左手の指を男の目に突き立てようとした。だが、自分が思っているよりずっと遅く、たやすく避けられる。ねじられている手に力が込められ、また悲鳴を上げる。

「いいな」

 男の顔が近づく。暗い光を宿した瞳だ。

「シャリィ・カーナ。命は助けてやろう」

 こんな目は嫌いだ。

「一緒に来い」

 もう、私は温かいそれを知ってしまった。

「いや」

「楽しい思いをさせてやる」

「……今以上に? 無理だよ」

 楽しい日々はここにある。

 これ以上の日々を、誰が提供できようか。

「死にたいのか?」

 後ろに手を回されねじり上げられる。痛みにのけぞると、その首筋に刃が当てられた。

「直属の部下に取り立ててやるぞ?」

「今の直属の上司いい方なんで」

 何か喋ると喉の表皮に刃が当たる。

「給料も倍だそう」

「……お金で釣るなんて卑怯です!」

「え、ここで釣れちゃうの?」

 下らない会話の合間にもぎりぎりと腕は捻られてるし、刃は冷たい。

「……泣くほど怖いなら、諦めればいいんだ」

「泣いてない」

「ふぅん。じゃ、これ何よ」

 頬を伝う雫、ツェルも両手がふさがっているから、顔を近づけ、唇でその涙に触れようとする。

「……!!」

 シャリィは思い切り首を振ってその顔に頭突きを繰り出した。流石に隙を突かれて、力が緩む。シャリィはツェルの腕から抜け出し、床に落ちていた鞭に向かって飛び込み、前転してから立ち上がる。

「……ほんと、その粘り」

 左手の袖から小さなナイフが飛び出る。

「うちの部下に見習わせたいよ」

 それを手で受け取ると流れるように投擲した。

「あうっ……!!」

 鞭を取り返したばかりの右の肩にそのナイフが突き立つ。鞭を取り落とし、床とぶつかり音を立てる。

「…………」

 痛みを堪えて、左手でそのナイフを引き抜き、構える。

「……もう一度言うぞ、シャリィ・カーナ」

 ツェルが、大きく肩で息をするシャリィを見据えて言う。

「俺と一緒に来い」

「お断りします。ツェル・イースト殿」

 シャリィは笑った。ここまで時間が稼げれば、姫様は逃げ切れただろう。

「私を生かしておいたら、貴方の命を狙い続けますよ」

 大丈夫。自分は自分の役割を成し遂げた。

「……勿体ないなぁ」

 好きな食べ物を残すみたいな口ぶりでツェルは剣を振りかぶった。




 本当の暗闇があった。光は差さない。何も見えない。目を慣らしている暇などない。伸ばした指先が見えない。無明。

 自分の立ち位置が分からない。天地の感覚すら危うくなる。確かな物は、手の平が触れている壁と、薄い部屋履きの下から食い込んでくる石の感触。

「待ってて、シャリィ」

 怯える心とシャリィの所へ戻りたくなる弱気をねじ伏せて、勢いをつけるように走り出す。

 走れ走れ走れ。

 恐怖は過大な負荷を身体に与える。なんでこんなに身体が重い。本当に私は前に進んでいる?

 息が爆ぜ、肺が悲鳴を上げる。

 心臓が限界を訴えている。時間の進みが、やけにとろりと感じる。

 それでも走れ。足を止めたら、もう動けない。

「シャリィ……」

 時間を稼ぐだけだと言って笑った新米の侍女は、多分あそこを動くまい。

「馬鹿な子」

 要領が悪くて、全然狡くなれない。損ばかりしてる気がしたけれど、こんな時まで命がけの貧乏くじを引いてしまった。引かせてしまった。

 私の為に、あの子は命を落とす。

「…………っ」

 なぜ、この足はもっと速く走ってくれないのだろう。

 なぜ、この腕はもっと強く敵を打ってくれないのだろう。

 なぜ、私はこんなにも無力なのだろう。

 ごめんなさいと額ずいて、それで全てが解決してくれればいいのに。プライド全て投げ打って、助けて下さいといって、それで無事に済むのなら。

 弱い心を制御できない。

 身体が、ただ重かった。



 あの子は変な娘だった。

 商家に勤めていたと言っているのに、侍女としての仕事がいつまで経っても上手くならない。紅茶を上手にいれられない。化粧も上手くない。夜会の服の着せ方がわからない。

 得意なことは、走ること。足が速い自分に平気で追いついてくる。いつまで走ってても平気。こちらが息を切らしてもけろりとした顔で追いついて部屋に連れ戻される。

 庭園の世話が一番上手なのも彼女。人手が足りないときに手伝いに行くと、虫が出ようと平然と放り投げ、時にはつぶし、農作業に黙々といそしむ。どれだけ汗をかこうといやがるそぶりを見せない。

 無防備で、自分の身元を隠したがってるくせに脇が甘い。

 要領の悪い、愚かな娘。

 時間を稼ぐだけと笑ったあの娘は、きっとあそこを動くまい。

「シャリィ」



 あの子が、死んでしまう。





「……っ」

 遠くに灯りが浮かんだ。足を止める。

 誰だ。心臓が早鐘を打つ。

 久方ぶりの光に、すぐにでも駆けつけたくなるけれど、それを必死に抑える。

 誰かを見定めなければいけない。敵に自ら駆け寄るような愚は犯せない。隠れる場所はない。せめてもと息を潜め、身を屈める。

 だが、その緊張はすぐにほぐれた。

「……とうに、ここか……げてるのか」

「この時間帯なら、姫様は就寝前だ。寝室から逃げる可能性が高い」

「……っ!!」

 この、声。

「リッター……!!」

 叫ぶ。

「リッター、リッター……!」

 足の痛みも忘れて駆け出した。

「リッター……!」

「アルシェ……!!」

 名を呼ぶ。返事が返ってくる。ただそれだけのことが胸を熱くさせる。

 膝に痛みが走りがくっと転びそうになる。それをリッターが受け止めた。縋り付くようにしてアルシェは叫んだ。

「リッター! ゲイル!! シャリィが! シャリィが……!!」

 その声に最初に反応したのはゲイルだった。

「賊は何人いましたか」

「わからない。来る前にシャリィが逃がしてくれたから。シャリィは、部屋に残って……」

「わかりました。お前達は姫の護衛を。一人は応援連れてこい」

「はっ」

 部下達の返事を背に、ゲイルが走る。

「……リッター、どうしよう、リッター! シャリィ、シャリィが……!!」

 堪えていた涙が、リッターの顔を見てもうどうしようもなくなった。

「私のせいだわ! 私、私が……!」

 もう足に力が入らなくて、リッターに縋り付く。

「どうしよう、シャリィが……」

 シャリィが死んじゃう。

 怖くて言葉に出来ない。

 あの子だって怖かったに違いないのに、あの場に一人残して来てしまった。

――貴女が逃げ切れたと思ったら私もしっぽを巻いて逃げ出しますから

 それが嘘だと分っていたのに、あの子の命を贄に、私が逃げのびた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……!!」

 私が、シャリィを殺す。

 歯の根が合わない。体の中はカッカと熱くたぎっているのに、震えが止まらない。

「……シャリィ……!!」



 腕の中に取り返した、熱。

 がくがくと震える体、触れ合った所からバクバクと伝わってくる心臓の鼓動。

 背に回された手が弱く自分の服を握りしめるのを感じ、少しでも多くの場所を触れ合わせたくて更に抱き寄せ、その髪に頬を寄せる。少女のすすり泣く声が耳を打つ、押さえきれぬ嗚咽の息が首筋をくすぐる。

 生きている証、その全てが愛おしく、ただ強く抱きしめる。

「リッター。……リッタァ……」

 迷い子のように、ただ自分の名前を呼ぶ。

「……大丈夫だ」

 柔らかい髪に指を差し入れ、くしゃくしゃに撫で回しながら言う。

「大丈夫だ、アルシェ。もう大丈夫だ」

 耳元で囁く。少女の心が落ち着くよう低い声で、自分の魂を吹き込むかのように心を込めて。

「大丈夫だから、アルシェ」

 アルシェが唇をきゅっと結び、小さく頷き、ぎゅっと縋る手に力を込めた。そんな、動作一つ一つが。

「……シャリィなら大丈夫だ。そんな簡単にくたばる奴じゃない。ゲイルも向かった。心配しなくていい」

「だけど! 私のせいで、シャリィが……!!」

「大丈夫だ、アルシェ」

 それが魔法の呪文であるかのように繰り返す。

 両手で頬を包み込み、その瞳を間近から覗き込む。長い睫に絡む涙が炎の光を受けて、宝石のごとく光る。


「俺が何とかするから」

 この少女の望む未来は全てかなえてやりたい。


「俺が、全部何とかしてやるから」

 何一つ取りこぼすことなく、少女の前にさしだしてやりたい。


「俺が、ずっと傍にいる」

 この少女を悲しませるもの全てを排除し、ただ脳天気に笑って、喧嘩しあえる日々を与えてやりたい。



「……だから、泣くな」



 少女の細い両腕が、リッターの首筋に回される。

「……リバインに帰っちゃやだ」

「あぁ」

「私の傍にいて」

「あぁ」

「ずっとよ」

「あぁ」

 子供のようにぐずりながら約束をねだるアルシェの頬を落ちる涙を親指で拭ってやる。

「……絶対?」

 心細げに揺れる瞳を閉じさせて、その瞼に唇を寄せる。言葉にすると、大切な何かが溶けて消えてしまう気がした。

 不意に落ちた淡くくすぐったい雰囲気を、二人で飲み込む。

「……お父様は?」

「……陛下の身柄は確保してある。既に護衛に守られて安全な場所においでだ」

 やらなければいけないことがある。

「火災は?」

「鎮火した。今火の出所を確認しているところだ」

 一つ一つ、手探りで大切なことの形を確かめる。

「怪我人は?」

「若干」

「火傷以外の人は」

「いる。何かの薬草を焼いた煙だった。吐き気と目眩にやられている」

「ラーゼル様は?」

「部屋におられる。護衛は差し向けた」

「監視じゃなくて?」

「…………」

 何も答えないリッターにアルシェは問いを重ねる。

「……どこまで押さえてるの」

「まだ、証拠は何もない」

「……私、ラーゼル様とのこと断ったわ」

 探るようにリッターの瞳を覗き込む。涙はまだ残っていたけれど、理性の光は戻っている。

「……推測だけで動くには相手が悪すぎる」

「わかった。私は広間に戻って指揮を執ります」

「…………」

 リッターは無言でアルシェを見た。

 逃がしたい。安全な場所に匿いたい。リッターの本心を無視して、こちらを案じる心は踏みにじって、アルシェは見つめ返す。お互い分っている。したいこととしなきゃいけないことを混ぜちゃいけない。

「移動しよう」

「その前に怪我人の所へ連れてって。被害の具合も見たいわ」

「わかった」

 薄い夜着の少女の方に、自分の上着を脱いで掛けてやると、ちょっとだけ嬉しそうにアルシェは笑って、それを受け入れた。

 連れだって歩く。

 着ているものは夜着で、転んだせいで埃と血がついている。使う者の少ない隠し通路には蜘蛛の巣が張っていて、それがまとわりついた髪も酷いものだ。

 それでも、堂々と歩く少女の姿は誇り高く、侵しがたい何かを放っていた。




 初めて会った時は、ただ変な娘が入ったとしか思っていなかった。ドジでそそっかしくミスばかりしているくせに、妙に動きが軽くて、人の気配に敏感で。どう見ても町娘という外見、見た目で人を判断する愚かさは知っていたつもりだが、少女には裏道を生きてきた者が持つ特有の暗い影が無くて、戸惑った。

 笑う顔があまりに無邪気だった。最初は他国のスパイかと警戒したものの、それにしては間抜けすぎる。

 本気で怪しめたのは最初だけで、段々それをネタに彼女をからかうのを楽しみ始めた自覚はあった。どうやら自分はそれなりに慕われてもいるらしく、警戒しているくせに、妙にこちらを気にしていて、ちょっと警戒を緩めると近寄ってくる。野生の動物を餌付けしている気分だった。

 認めがたい事実だ。生家を捨て、傭兵として渡り歩き戦果を上げ、己の腕だけを頼りに生きてきた。仲間と信じてきた者に裏切られたことだって何度もある。自分だって誰かを切り捨てられるつもりでいた。事実そうしてきた。

 その俺が、情にほだされ、明らかに怪しい経歴の少女に振り回されるなんて。

「……どうかしてるよ、全く」

 今自分が一番しなければいけないことは、仕えるべき主、アルシェの保護だ。分っているというのにたかが一侍女を救うために必死で走っている。部下の応援を待つこともなく単独行動など愚行の極みだ。

 分っている。全部分っている。

 なのに体は正直だ、全く速度を緩めようとしない。

 黴臭かった空気が、新鮮なそれに入れ替わっていく。それに紛れて届くのは、嗅ぎ慣れた鉄の臭い。

 松明だけが光源だったが、行く手に光の筋が現れた。出口だ。

 ゲイルは更に加速すると出口――クローゼットの扉を蹴破った。

「シャリィ……!!」

 


 そこは何度か足の踏み入れたことのある部屋だった。それも変な話だ。この国の王位継承者たる王女の部屋に入ったことのある男って何だ。もっとこういうのは秘密の花園的禁断の地であるべきじゃないのか。

 物の少ない、けれど手入れの行き届いた部屋。殺風景にならないのは侍女達が何時も摘んできた花を飾るのを絶やさないからだ。

 何時もと同じ部屋。争ったって、荒れるものすら少ない部屋。

 違うのが、四つ。

 花の香の代わりに立ちこめる血臭、ゲイルが蹴飛ばし外れたクローゼットの扉、床横たわる少女、それを見下ろす、見知らぬ男。



「……シャリィ……?」



 初めて贈った濃紺のドレスの肩口に、赤い花が咲く。





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