第24話 それを誇りという。
リッターに誘われて会場に足を踏み入れると、賑やかだった広間が一瞬静まり、アルシェに向かって頭を下げる。それに一礼して答えると、リッターはアルシェを国王の隣の席へと連れて行った。
「ご機嫌いかがですか? 陛下」
「会うのは久しぶりだな。アルシェ」
笑顔を作って微笑ましい親子の会話を交わしながら、視界の隅で自分を睨み付けている義母親の姿を捉える。その隣には半分だけ同じ血をひいた弟が座っている。弟のことは嫌いではなかったけれど、ここまで義母親の監視が厳しいと個人的な接触を取ることはできなかった。
ラーゼルを婿に取れば宮廷内のパワーバランスが崩れる。相当義母親はかりかりしていたようで、正直肌つやがいいとは言いがたいものがある。この現正妃を慮って娘の婚姻の計画に目立つ行動を取ることの出来なかった父の心労も深かろうと心の中で同情した。
「ご無沙汰しております、御義母様」
「ごきげんよう、アルシェ様。とても美しい装いね」
笑顔の中に佇む冷え冷えとした視線を淡々と受けながら、アルシェはどこか冷えた心で思う。
この人も哀しい人だ。息子が大事な気持ちは分る。権力を掌握していたい気持ちも、多分。
けれど、彼女が欲するこの国はとても小さく貧しくて、そこまで固執する価値が本当にあるのだろうか。
――「こんなの置いて、リバインに帰るつもりかよ、あいつ」
権力に結構近い所にいるはずの青年が、そんなにも無造作に投げ捨ててしまえる、そんな小さな国にしがみつく義母親も自分もなんだか虚しく思えた。
適当に会話を切り上げて、弟にも微笑を送るに止めて、アルシェは用意されていた席に座る。国王の家族がそろった正式に夜会は始まり、宮廷楽団が華やかな音楽を奏で始めた。リッターはアルシェの椅子の後ろに控え、シャリィとゲイルはさりげなく壁際に立ち、アルシェを視界から外れない場所を陣取った。
賓客達は次々と王の前に現れては挨拶をしていく。それに合わせてアルシェも穏やかに見える笑顔を浮かべて祝辞を受けた。普段なら早々にこの場を立ち去り踊りに行ってしまうのだが、今日はそういうわけにも行かない。今日の主役は、別にいる。
ふと、入り口の方がざわめいた。夜会に参加する華やかな装いの人々が自然と道を空け、そこから現れたのはラーゼル・ラダ・ランドール、この宮廷の話題を浚った一人の訪問者だった。
「ようこそおいでなさいました、ラーゼル殿」
椅子に座ったまま国王が鷹揚に話しかける。ラーゼルは品のいい笑顔を浮かべてそれに応じた。
「本日はこのような素晴らしい宴を開いていただいて、感謝いたします」
「ささやかな物ですが、楽しんでいっていただければ嬉しい」
「お心遣い感謝いたします」
「この国は気に入っていただけたかな?」
「えぇ、とても。この国の方々は心温かい方ばかりです。私もこの国の一員となれればと心から思いますよ」
軽やかに交わされる会話を聞いてると、自分の未熟さを思い知らされる。相手を不愉快にさせず、しかしアルシェを娶りたいとちらつかせるラーゼルの意志はさらりと流して次の話題へと移っていた。ランドール家の内偵は上手くいっていないらしい。ラーゼルに対する決定的な対応を決められないまま、この時を迎えることになった。今後の交渉は使者を立ててやりとりしていくことになるのだろう。それが、どちらの方向に向かって行われるか、自分の意志を挟む隙間があるのかすら、教えて貰っていない。
そんなこちらの心情になど気づかず国王や椅子の後ろに立つ教育係は最近行われたランドール家の事業の話なんかを和やかに話していて、思わず大きく溜息をついた。
「おや、すいません。姫君には退屈な話でしたね」
「え? あ、いえ、すいません。そんなことは……」
「私としたことが無粋な真似を致しました。陛下、姫君をお借りしてもよろしいですか?」
王に許しを得る形式でアルシェを誘い手を差し伸べる。
「どうぞ、一曲お相手を」
「……はい」
断わる理由はない。今宵の宴はラーゼルのために開かれた物だ。それを国王の娘がもてなすのは当然なことだ。アルシェはラーゼルの掌に自分のそれを重ねるとやんわりと握られて引き上げられる。それにまかせて立ち上がり、階下に降りていった。
ちょっとこじんまりした楽団が奏でる音楽は軽快な物で、ラーゼルに合わせてアルシェはくるくると回る。
握られる手は大きくて温かい。優雅な顔立ちに浮かべられる優しい笑顔。ダンスのリードが上手くて、すごく踊りやすい。理想的な王子様だ。しかもお金持ちだ。あんなに待ち望んだお金持ちだ。この国には見られない優良物件ではないか。
やっと現れてくれた王子様だというのに、心は不思議にも凪いでいて冷静に相手の観察なんかもしていたりして、そんな自分に幻滅する。もうちょっとお姫様らしい所があると思っていたのに。
「アルシェ様? 疲れましたか?」
浮かぬ顔をしているのをそう判断したらしいラーゼルが顔を覗き込みながらそう尋ねてきた。
「ラーゼル様……」
「少し休みましょうか」
ラーゼルは曲が終るのを待って踊りを止めると、そのまま手を引いて広間から出た。外の空気は涼しく、ゆっくり息を吸い込むと、身にまとった薔薇の香りが胸に満ちる。
「いい風ですね。少し散歩でもしませんか」
「えぇ」
ラーゼルのエスコートはあくまで優雅で自然だった。他国の宮殿だというのに、まるで我が家のようにアルシェを庭園へと導いていく。広間の音楽が遠くなり、ぼやけていった。今頃あの仏頂面も一曲ぐらい踊っているだろうか。
「この庭園も美しいですが、今日の貴女の装いも素晴らしいですね」
「あ、ありがとうございます」
「そんなドレスは初めて見ましたよ」
くすくすと笑うラーゼルに、ちょっと顔が熱くなる。生花で飾り付けられたこのドレスは、豪華な宝石で飾る余裕のなかった王家の侍女達が考え抜いた技だ。恥じることではないが、誇れることでもないだろう。
「……よくお似合いです」
心の中を見透かしたかのようにラーゼルは微笑む。
「でも、すこし残念ですね」
「え?」
ラーゼルはついっと指を伸ばして、アルシェの首に巻かれたリボンに触れた。
「少しだけ期待していました。贈った首飾りをつけて貰えるのじゃないかと……」
「……あれは、私には少し不相応なようでしたから」
「何をおっしゃいますか。前にも申し上げた通り、貴女に不相応なのであればこの国にはつけられひとなどいなくなってしまいますよ」
「そういう事じゃなくて……」
「あぁ、それとも色が気に入らなかったでしょうか? では、次には違う石を贈りましょう」
「ラーゼル様」
「アルシェ様はどんなものがお好きなのですか?」
「ラーゼル様……!!」
震えそうな声を必死に押さえて、アルシェはその名を呼んだ。
「……アルシェ様?」
「私、もう貴方から贈り物頂けません」
ラーゼルはきょとんと目を見開き、言葉の意味をゆっくり噛みしめた。
「……それは、どういう意味でしょうか……?」
たどり着いた答えを否定しようと、ラーゼルは少し強ばった声で尋ねた。
「……私、貴方と結婚できません」
「……場違いだなぁ」
シャリィは困り果てたた声でぼそっと呟いた。アルシェが座っているのが見える場所を陣取っているが、正直許されるならば自室に逃げ出してしまいたかった。
「? 何かありましたか?」
その独り言を聞いた遊撃隊の隊員が小声で尋ねてきた。
「あ、いえ。異常なしです。こう、居心地が悪いなぁって思っただけで」
慌てて否定すると、安心したように隊員は相好を崩した。影の護衛を言いつかっているその隊員は制服ではなく普通の礼服を着ていて、素性を知らない者から見ればただの貴族の若君にしか見えないだろう。
「どうぞ。本当は美味しいお酒でも運んできてあげたい所ですが我慢して下さい」
そういって絞りたての果汁が満たされたグラスを手渡され、アルシェは有り難くそれを受け取った。口をつけると爽やかな酸味が広がり、自分が喉が渇いていたことに気づいた。
「それで? どうして場違いって?」
隊員は普通に歓談しているように見えるようにだろう、シャリィの横に立ちつつ、アルシェの姿が視界に入るような立ち位置を確保した。まだ若いように見えるがその辺りは卒がない。教育が行き届いているなと感心する。
「どうしてもなにも。私みたいなのがこんなのをきてここにいるなんて。居心地悪いったら無いです」
本来なら給仕に回るべき立場なのにと思うと同僚に申し訳なくなる。もっともそのことを着替えの最中に仲間に告げたら、あんたに給仕が上手くつとまるとは思えないからむしろありがたいとか言われてしまったが。その仲間達は偶にすれ違うとその時だけ真面目な顔が一瞬崩れて笑いを堪えるような仕草をする。怒る所なのだが、その気持ちは分ってしまうので何とも言えない。
「でも、よく似合ってますよ」
さらりと褒められて、頬が熱くなる。
「こんなの初めて着ましたよ」
ゲイルが選んだのは濃紺のドレスで、恐ろしく肌触りがよい。相当高いんじゃないだろうかと思うと、汚してしまいそうで怖い。それに反して、靴は煌びやかな飾りがついてはいるが踵は低く、走りやすそうな柔らかい素材だった。なるべくそちらに意識を持っていくようにしていた。自分が護衛としてここにいると思えば、まだ耐えられる気がする。
「隊長は悔しいでしょうね」
「え?」
「せっかくシャリィ殿が綺麗にしているのに、今回は楽しむ所じゃないでしょうから」
ゲイルは今回の夜会の護衛の総責任者になることを申し出たが、その申請は却下されたそうだ。その裏に、正妃の思惑が絡んでいるらしい。自分で手配が出来ない所が多い分、苦肉の策でシャリィをここに送り込んだり、密かに隊員を配置したりと大変そうだ。そして本人は自らあちこち動き回っている。
「……何か不審な動きでも?」
シャリィの問いに隊員は少し口をつぐみ何かを考えるように黙り込んだ後、「まぁ、いいか」と言って返事をした。
「ちょっとね。ランドール家は古くて大きな家で、隣国の国王ですら扱いには気を遣っています。ガードが堅くて内偵は大変だったらしいですよ」
「へぇ」
「で、ランドール家には私設部隊があるんですが、その一部が動いた形跡があったそうなんです」
「……ラーゼル様も動かせるんですか? その部隊」
「そこが微妙なんです」
隊員は疲れたように溜息をついた。
「ランドール家の中で、ラーゼル殿の扱いはあまり良くなかった。四男でしかも妾腹ですからね。相続争いに参加できるほどの立場ではないのですが、軽んじられることを異様に嫌って、要所要所自分をアピールしようと動いていたようです。プライドが高かったとの証言も得ました」
その時、話題の人物が広間に姿を現した。
ラーゼル・ラダ・ランドール。
美貌の青年は躊躇うことなく国王とアルシェの所まで歩いていく。自分にそれが許されることを知っている。自分が今この国を揺さぶっている。シャリィには彼が、なんだかそれを得意げにしているように見えた。
「……功を焦る傾向にあるようです。ランドール家の長兄と次兄が有能な人物で、どちらかが長となるだろうと周りは予見している。それに張り合いたいようなのですが、その性格のせいで失敗している。最近では父親にも疎まれ気味だとか」
「……あんまり、良くない情報ですね」
国王に向かい挨拶をするラーゼルを見やる。振る舞いに品があり、その顔も文句なく美しい。自分も王族かのように振る舞うことの出来る貴公子だ。しかし、その情報を聞いてしまった後だとなんだかその光景を額面通り受け取ることが出来ない。
ランドール家での扱いを思う。誇り高いのに評価されず、父親に疎まれている青年。その青年に気を遣い、彼の為に開かれた夜会で、注目を浴び、当然のように国主と歓談する。なんだかうそ寒くてぞっとした。
「おや、踊るようですね」
ラーゼルが手を差し伸べ、アルシェがそれを取る。断れるなんて思っていないだろう。走り出して、その手を振り払えたらいいのにと本気で思う。
「……本当は隊長も貴女と踊りたいんでしょうけどね。今回は我慢して貰いましょう」
人の輪の中心へと向かい軽やかに踊り出した二人に視線をやりながら隊員が小さく言う。
「……早く」
二人の踊りはとても綺麗でまるで一幅の絵画を見ているようで、だけど、なんだか怖かった。
「早く、帰ればいいのに」
それを見つめるリッターの心を思うと胸が痛い。ぎゅっとグラスを握りしめた。
「……あまり力まないでください」
ぽんぽんと背中を軽く叩かれる。
「今日の宴が終れば一時帰国します。ラーゼル殿は今回の訪問で婚約までこぎ着けたかったのでしょうが、リッター殿がそんな早急な真似はさせませんよ」
「……だって、今回のリッター様なんだか弱気なんですもの」
ずっと思っていた不服をそっと言ってみる。
「難しい立場ですよね。リッター様も。男としては同情します」
言いつつも、隊員はそんなに心配していないようだ。なんだかそれに腹が立った。
「アルシェ様が可哀想です」
「可哀想比べしててもしょうがないでしょう」
「そうですけど……」
ぶつぶつと言っているうちに、ダンスは終ってしまった。ラーゼルは何事かを話しかけると、アルシェを誘って部屋の外へと出て行った。それをこの場にいる人間が全員認識していながら誰も口に出せない。それがもどかしい。
「……後、つけます。隊長さんに報告を」
ずっとアルシェの傍に着いていてくれと言われた。ならば追いかけるべきだろう。隊員と短く打ち合わせをすると、二手に別れた。
言った瞬間、やってしまったと言う気持ちとやってやったという気持ちがない交ぜになって、訳が分らなくなった。だが、それは相手も同じようで、それにちょっと落ちついた。
「今、なんと……?」
「貴方とは、結婚できません」
内心ドキドキしているのに、落ち着いた表情を出来ている自分がいて不思議だった。
「……理由を伺っても?」
「……私は、とても愚かなので……」
王族に生まれた以上、政略結婚から逃れるつもりはなかった。何時かどこかで決断しなければいけないことだった。覚悟だって出来ていたはずだった。なのに、リッターがこの国を去ってしまうと聞いた途端に、頭がそれで一杯になってしまって。
「自分の感情ですぐうごいちゃうし、我が儘だし、あんまり後先考えてないし」
――「だから、行動に移す前に一度ちゃんと考えろと何度も言ってるだろうが!」
――「いい加減にしろ! 勝手に約束してくるな! そんな予算が何処にあるんだ!!」
「ほんと、私怒られてばっかりなんです」
ついつい苦笑いが浮かぶ。あいつの傍にいると、自分の未熟さばかり身にしみてしまう。
「だから、私が何か間違いを起こした時に」
――「同じ間違いを何度繰り返せば覚えるんだ、この馬鹿が!」
何時もすました顔で正論を述べてはこちらの未熟さを容赦なく突きつけてくる憎らしい男。
「ちゃんと馬鹿だって言ってくれる人じゃないと、私は駄目になる」
その隣に立ちたくて。あいつに認められたくて。
失いたくない。
失えない。
この国のためにも、自分のためにも。
「だから」
それが引き留める条件になるのかは分らないけれど、なりふり構う余裕など無い。
「だから、貴方とは結婚できないんです」
何があっても、リッターは手放さない。
「……何をおっしゃるかと思えば」
だが、そんな想いは上手く届かず、ラーゼルは表情を変えない。
「貴女は素晴らしい人だ。思慮深く慈悲の心に溢れている」
「……え?」
意味が分らず首を傾げる。
「貴女に孤児院を連れて行っていただきましたね。私は本当に感動したのですよ。姫自ら孤児などに気を配り、優しさを施して差し上げた。そんなことの出来る姫の、どこが愚かだと言うのでしょう」
ちりちりと、腹の底が焦れる。
「……あれは、別に慈悲の心を持って作ったわけではないんです。孤児が増えれば国が荒れるから……」
「国政を案じていらっしゃるのですね。ほら、やはり優れていらっしゃる」
「そうじゃない。そうじゃないんです」
伝わらない。分って貰えない。悔しい。
「あの孤児院建てるのだって、予算取るためにすっごいリッター苦労してて……。施療院と合体させたのだって結構苦肉の策で、しかもあそこ来るのって貧しい人ばっかりだから結局赤字だし……!」
ラーゼルに語らせると、なんだか本当に美談で終ってしまうけれど、現実がそんなに美しい物じゃないことを知っている。言い出したのは確かに自分の思いつきだけれど、実現は簡単じゃなくて、建物を決めるだけだって、治安が悪くなるのではないかという住民の不安が大きくて、何度も自分やリッターが説明に向かった。費用をどこから捻出するか凄く困ってリネンを手配するのすら苦労したし、医者は中々捕まらないし、本当に大変だったのだ。それを美しい物語でまとめられてしまうのが、なんだか凄く悔しくて。
「リッターがいて、やっと実現したんです。私一人じゃ、とても駄目で……」
「……私なら」
何が悔しいのかよく分らないまま、それでも自分の気持ちを説明しようとしたが、それをリッターにやんわりと止められる。
「私なら、そんな苦労はさせません」
「え?」
「私は妻を大事にする。貴女はそんなことまで気にする必要など無いのです」
優しげに、というには哀れみが隠れ見える視線が自分に突き刺さって、なんだか泣きそうになった。
「貴女は美しく優しい。だからこそ、そんな苦労から開放して差し上げたい」
頭の中がガンガン言って、言葉が理解できない。
「私なら貴女を幸せにできます。ただ、美しく着飾り、子を育み、私の帰りを待っていてくれればそれだけでいいんです」
ラーゼルの語る未来は優しい。甘くてふわふわしていて、世界がなんでも上手くいく感じがする。
だけど。
「……そんなの、嘘です」
「…………?」
俯いて小さく言ったから、聞こえなかったらしい。ラーゼルが首を傾げる気配を感じた。
「そんなの、嘘です」
顔を上げて、もう一度言った。
「世界はそんなに上手く回らない。だから、力が必要なんです」
ラーゼルから贈られた石は美しいけれど冷たい。その冷たさで、この国の人を動かしたくない。
「……私が豪奢な石で身を飾れば、威厳を振りまくことができるでしょう。けれど、それと同時に、人々の心は王家から離れていく」
この国は貧しく、弱い。大した国力もなければ資産もない。軍事力もない。大国に目をつけられぬよう、害も利益も為さない存在でいなければ、あっという間に食い尽くされてしまう。この国の上に立ってきた者達は、賢明にそれを知り、微妙なバランスを保ったまま今まで歴史をつなげてきた。父も、そして何らかの形で自分もその鎖の一部となるのだろう。
「本当に貧しいんですよ、うち。きっとラーゼル様のお家の方がずっと裕福だわ。何か事業一つ立ち上げる度に財務大臣と大喧嘩です」
「ですから、我が家で援助すると……」
「それはおかしい」
アルシェは言う。
「自分で言うのもどうかと思いますが、我が国に投資する旨みは少ないですよ」
本当にどうかと思うようなことを堂々と言ってみた。自分がこの国の者でなければ、関わる必要性を感じない国だ。そうあることを、我ら血族は誇りを持って選び続けてきた。
「そんなことを当主殿がお許しになるでしょうか」
「我がランドール家は裕福です。それぐらいの余裕は……」
「裕福なのは資産運用をしっかりと行ってきたからです。一族を守るために情に流されたりはしないことでしょう」
「それぐらいの余裕ならあります」
ラーゼルの言葉には正直飛びついてしまいたい懐具合ではあるけれども、でもそれを受け入れるわけにはいかない。
「……そうしたら、きっと楽に生活できるようにはなるのでしょうね」
「えぇ、ですから……!」
「でも、きっと国民は誇りを失うでしょう」
それを父も自分も一番恐れている。
「他国の財力に寄りかかる王家と、努力することを忘れた民から成り立つ国に、きっと未来はない」
「そんなことは……!」
必死に言いつのるラーゼルに小さく苦笑する。
「ラーゼル様は、私を、私たちを、かな。慎み深いからとかの理由で贅沢しないって思っていらっしゃるようですが、もっと打算的ですよ、私」
ここまでかみ合わないとちょっと楽しくなってくる。
「贅沢ならすっごいしたいです。宝石で飾り立てておいしいもの食べていいベッドで寝て。でも、こんな貧しい国で王家ばかり贅沢してたら、絶対国民は私たちから心が離れていく」
このか弱く愛しいイブリスの生命線を断つ行為を、自分は決して選べない。
「誇りの無い王家を、民は守ろうとは思わない。それは民の誇りを汚すことでもあるのですから」
恐ろしいほど、自分の心に迷いがなかった。やっと、自分の気持ちを相手に伝えられる。安堵すらあった。
「アルシェ様には、政治というものが分っていない。私がいれば……!」
「……ラーゼル様」
ラーゼルの甘い言葉にも揺らがない。
「私たちには私たちなりの方法で生きていく術を知っている。この国は決して裕福ではないけれど、不幸せではないのですよ」
街に降りれば、簡素な装いをしている民達に出会う。美しい布ではないけれど、何時も清潔にしている。守りたいのは、そんな素朴な良質だ。
「今ある場で、今できる精一杯をしている民達が私は誇らしい。だから」
手に入れたい未来がある。霞にかかって見えなかったそれが、今開けて焦点を結んでいく。
「あの人達を守るために、私は貴方と結婚できないんです」
自分の隣にいるのは、ラーゼルではなかった。
「……失礼だが、貴女は甘い」
「…………」
ラーゼルは俯いてそう言った。
「理想を語るは容易い。けれど、そんなに現実は美しく進みはしない」
ラーゼルの言葉は感情を抑えこもうとしていたけれど、失敗して、暗い何かを滲ませていた。
「力なき者は、強き者に押しつぶされる。どれだけ優れた物を持っていようと、権力の前には無力だ」
「……そんなことはない」
「ある」
ラーゼルが顔を上げた。底が見えない、昏い瞳。
「貴女は何も知らない。踏みにじられることの悔しさが。生まれのせいでまともに評価して貰えないことの屈辱が……」
「それは、違う」
「何が違う……!!」
激情を押さえかねたか、ラーゼルが声を高くする。見慣れた貴公子然とした姿はそこにはないけれど、アルシェは怖くなかった。
「弱い者は哀しいけれど、無力じゃない。イブリスは弱いけれど、自分が弱いことを知っている。強くなることは簡単にはできないけれど」
首に巻いたリボンに指を伸ばす。そこにある小さな薔薇が一輪。
「弱さを知るものは、じゃあどうすればいいかを考えます。そこから全てが始まるって、私は信じてる」
まだふさわしくないと赤い薔薇は取り上げられてしまったけれど、けれどあの人は自分を何時だって一人の人間としてみてくれた。
「私は、その弱さを愛しく思う。そして、私も弱いから、一杯考えて、でも全然足りてないから、仲間と協力して欠点を補い合って」
この花は、我が民の心。
「それでやっと一人前になれるんです」
この花は、我が国の心。
「私の夫となる者は、我が身よりこの国を愛し、この国の為に死ねる者だけです」
「……だから、彼なのですか……?
「え?」
ラーゼルの声は小さくて聞こえず、聞き返した。
「だから、私ではなく彼なのですか? ランドール家の私でなく、まともな地位も得てはいないリッター・イム・ザインなのですか!?」
「…………」
屈辱に震えている。誇り高い人なのだろう。それがいっそ憐れに思えた。
「……誰かと比べることに、何か意味があるのですか?」
思わず聞いてしまった言葉に、ラーゼルは大きく身体を震わせたけれど何も答えず、ただ目線を落とした。
「……それは、この国の意向なのですか?」
「え?」
「国王陛下が、この結婚を許さないと、そうおっしゃったのですか?」
「いえ、私の判断です」
「そう、ですか……」
その時、気のせいだろうか。前髪に隠れて目は見えなかったけれど、口元が微かに歪んだ笑みを浮かべた気がした。
「ラーゼル様……?」
「……貴女のお気持ちはよく分りました。申し訳ないのですが、先に戻っては頂けないでしょうか」
「…………」
「……少し、一人にして下さい」
「…………」
アルシェは何か言おうとして、けれど無言で一歩下がり、せめて心を込めて一礼する。見ていないことは分っていたけれど、最上級の敬意を込めて。
どうか、彼の未来に安らぎがあるように。
余計なお世話だとあの教育係なら言うだろうけれど。
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