第17話 彼の宝石



「お疲れ様でした、姫様。お茶いかがですか?」

「ん、ありがと、シャリィ」

 一つの授業を終えたばかりのアルシェにシャリィが声をかけると、アルシェはほっとしたように微笑んだ。

 多少イレギュラーな事態は起こっているが、基本的にアルシェの日課は変わらない。毎日の入っている学習の時間が多少滞りつつあるが、その辺りがリッターがそつなく調整している。ランドール家とつなぎを作りたい貴族、あるいは部署はやはり多いようで、せっかく来たコネを逃すものかと色々な人がラーゼルに面会を申し出ているらしく、ここの所はラーゼルの相手をしている時間が大分減ってよかったなと思う。

 今回は大人しく授業を受けてくれたのでシャリィも非常に有り難く、心から労って差し上げたくなる。

「どうぞ」

「ありがと」

 喉が渇いていたのか、差し出されたお茶を美味しそうに飲んでくれた。

「午前中の授業はあと一つだったわよね」

「はい、で、午後の予定の変更をリッター様より言いつかってまして……」

 いくつかの予定変更点を伝えもらさないよう気をつけながら読み上げるのをアルシェはつまらなそうに聞いていたが、ふと声を漏らす。

「……あいつ」

「はい?」

「最近、自分で言いに来ないわよね」

「……あぁ、リッター様ですか?」

 確かに、この仕事は以前はリッターが自分でやっていたが、最近は忙しいようで代わりに自分が伝えている。

「忙しいようですよ。今朝も執務室まで確認に行きましたが、既にお仕事を始めていらしたようですし」

「朝から?」

「既に打ち合わせにいらしてる方がお待ちでしたよ」

「ふ~ん」

「……寂しいですか?」

「職務怠慢だと思っただけよ。あいつ、私の教育係だって事忘れてるんじゃない?」

「そうですね。顔を出すようにお話ししておきます」

 多分素直に寂しいだなんて言えないであろう主に代わり、シャリィは言った。

「……そうですよね、なんか最近ゆっくり一緒にいる時間上手く取れてないですよね」

 別に何がどうしたというわけではないのだろうに、なんだかぎこちなく感じられてしまって、そんな状態だというのにリッターは自分からこの部屋に中々来ることが出来なくて、それはなんだかシャリィにも辛い。

「そしたら今日午後のお茶の時間こちらに来れないかお誘いしておきます、私」

「え?」

「ほら、この前見つけたって言う美味しいお菓子私買ってきますから、だから一緒に食べてください」

「シャリィ……」

「私、この後買ってきます」

「……そうね、それもいいかも」

 アルシェは薄く笑った。

「うん、いいわね。文句溜ってるんだけど言う暇無かったのよ」

 久々に清々しい笑顔が見れた気がして嬉しい。

「じゃ、私早速行ってきます!」

 一つ礼をして踵を返して部屋を出た。ちょっと浮かれていてついつい足早になる。歩いてはいたのだが、結構なスピードが乗ったまま角を曲がろうとした時、向こう側から現れた人影に危うくぶつかりそうになり後ろに飛んだ。

「ごめんなさい!」

「いえ、こちらこそ失礼を。……おや」

「あ」

 そこにいたのはラーゼルだった。

「失礼いたしました」

 慌てて道の端により深々と頭を下げた。

「確か貴方はアルシェ様付きの……」

「あ、はい。シャリィと申します」

「私はラーゼル・ラダ・ランドールと申します。どうぞお見知りおきを」

「あ、いえ、そんな……」

 丁寧に礼をされて恐縮してしまう。

「失礼ですが、シャリィ様はどちらの家のご令嬢で……?」

「は?」

 あまりに唐突な質問に場にそぐわぬ素っ頓狂な声を出してしまった。

「あの、ええと、私は隣の国の生まれで……」

 あたふたするシャリィの言葉の続きをラーゼルは穏やかに微笑んで待っているが、シャリィにはこの後続ける言葉は特にない。カーナという姓を伝えた所で、どうしろと。

「あの、私は、ええと、平民の出なので……」

「え?」

「ええと、はい。そうなんです」

「……ほほう。いえ、これは失礼を……」

 何に対する謝罪なのかもよく分らない。今、何か謝られるようなことがあっただろうか。

 やはり平民の出が姫付きというのは珍しいことなのだろう。この国の人は、というかアルシェの周りはそう言うことに無頓着で、新参者の自分にもとても親切にしてくれるのでそういう常識を覚え損なっている気がする。

「やはりアルシェ様は寛大でいらっしゃいます。昨日も街の者にそれはそれは親切に声をかけていらした」

「昨日は孤児院に一緒に行かれたとか……」

「本当にあの方は心根の美しい方だと感心いたしました。王族自ら出向いて声をかけてやるなんて……」

「ええ、普段はあんなですけど、でも街の者から心から慕われております」

「あんな、とは……?」

「え? あ、えと……」

 授業サボって逃走したり、財政が苦しいのを何時も愚痴っていたり、リッターと喧嘩ばかりしてるということです。

「あんな」の例なら枚挙にいとまがないが、何か言いがたく目を伏せた。

 何がとは上手く説明できないが、空気に交じった微かな棘。穏やかな微笑みは変わらないのだけれど、その笑みが完璧すぎて何か言うことを拒まれている気がした。

「いえ、あの、なんでもないです」

 なぜだろう。舌が上手く回らない。アルシェやリッターの前では一度もこんなことになったことはないのに。しどろもどろになっている自分がみっともなかった。

「アルシェ様は今部屋にいますか?」

「あ、はい。今休憩時間で、あ、でももうすぐ次の授業が始まってしまいますので……」

「結構。お会いできるかは自分で聞きますから」

 言葉を遮るその声は優しいのに。

「あ、はい。……出過ぎた真似を、致しました……」

「賢い人は好きですよ」

 ラーゼルが小さく笑った気がしたが、顔は上げられない。自分が何故こんなに居心地が悪い思いを抱いているのかよく理解できないのだけれど、走って逃げ出せたらいいのにと思った。

「行きますよ」

 側近なのだろうか、国元より一緒に連れてきた青年に声をかけて歩いていった。こちらを一顧だにしなかったのが気配で感じられる。気配に敏感なのも考え物だなんて思う。

「…………」

 唇を噛みしめた。何故瞼が熱いのだろう。わからない。分らないけれど、凄く居たたまれなく自分が恥ずかしい。

「……先、リッター様の所行こうかな」

 独り言言わないと動けない自分がいた。



 唐突の来訪者で色々なスケジュールが狂って、普段より書類の溜るのが早い。こんな中途半端な立場の者に仕事を回して貰えるというのはありがたいのだが(強かな父親に言いように使われている部分も大きいのだが)、ここまで忙しいと、アルシェと引き離しておくための陰謀では無いかと穿った考えをもってしまいたくなる。

 ラーゼルが来てからなんだかちゃんとアルシェと話をしていない気がする。曖昧にしておきたくてお互い避けていた点を、ラーゼルは否応なく突きつけてくる。顔を合わせるぐらいはするが今後の対応をしっかり話し合う時間が取れなくて、けれどそれを忙しさのせいにして逃げている自覚もあった。

「………………」

 忙しいのが有り難かった。目の前に仕事が溜っていてくれればそれをこなさなくてはいけない言い訳が出来る。周りから向けられるなんだか痛い視線も部屋の中に閉じこもってれば浴びなくていい。

「……弱腰だな、随分」

 なんでこんな弱腰にならなくてはいけないのか。自問自答を始めようとすると、曖昧にしておきたい礼の問題に触れてしまうので防衛本能が働いて、自然と仕事に没頭する羽目になる。ちょっと疲れた。

 扉がノックされたのはその時だった。

「はい」

「シャリィです。リッター様、少しよろしいでしょうか」

「……あぁ」

 アルシェがストレスを溜め込んだか、あるいは主思いの侍女が急かしに来たか。逃げてた自分をとうとう追求しに来たかと、覚悟を決める。

「どうぞ。入ってくれ」

「……失礼します」

「何の用だ?」

 誠実な侍女に責められることになるかと、紙面に顔を降ろしたままふて腐れた声がでる。

「あ、あの、忙しければいいんですけど」

「いや、大丈夫だ。何の用だ?」

 シャリィの顔が見づらくて字を書きながら尋ねるという失礼な事をしてしまう。

「今日の午後、時間取れないでしょうか。姫様と是非お茶を一緒に、と、思ったんですけど……」

「午後か、そうだな……」

「あ、あの、本当に忙しければいいんです。私が勝手に言ってるだけなので……」

「シャリィ……?」

 なんとなく気まずくて上げられなかった顔を上げて、シャリィをみると、何故か彼女も俯いていた。下を向いているせいで顔がよく見えず、わずかに見える口元に浮かぶ笑みは何かを誤魔化す様で薄っぺらい。

「……シャリィ?」

「あの、私……」

 そこまで言って、口元に手を当てた。

 この少女らしくない仕草だった。

「どうかしたのか?」

 椅子を回転させて、シャリィに向き合う。シャリィは俯いたまま、何かを謝っている。

「本当にどうした?」

 この少女らしからぬ態度が嫌な感じで、リッターは立ち上がり少女の前まで歩み寄る。肩に手を置くとびくっと震えた。

「……何かあったのか?」

「……いえ、別に……」

「とにかく顔を上げて……」

「いえ、今、私みっともない顔してるので……」

 ごめんなさいと、覗き込もうとする顔を遮る様に掌が向けられる。

「シャリィ?」

 何時も生き生きとして、アルシェと並べておくと本当に姉妹の様に戯れていて微笑ましい。その彼女に何をすればこうなるのか見当がつかない。

「本当にどうした? 何があったんだ……?」

「や、あの本当に何でもないので。なんでも……」

 なんてばればれの嘘なのか。言った傍から声が滲む。

「なんでもないなら、顔を上げろ。シャリィ……」

 駄々を捏ねる少女に苛立ちが起こり、強引に顎に手をかけ上を向かせた時、涙一つぽろりと零れた。

 本当にまさに、その時だった。

 ゲイルだった。


「……え、何やってんの、おたくら」

「待て、誤解だ!」



 扉に寄りかかる青年の影。

 冷え冷えとした目と声が、別に後ろめたくないのに、痛かった。





 結構自分は単純なのだとアルシェは思った。

――「そしたら今日午後のお茶の時間こちらに来れないかお誘いしておきます、私」

 シャリィのその一言で、なんだか色々喉元につかえていたものがさらっと流れてしまった気がする。どうせならゲイルを呼んであげてもいい。そして遠慮するに決まっているシャリィを無理矢理席に着けて、いつもみたいに下らない話をしよう。

「……何かいいことありましたか?」

「え?」

「ごきげんがいいようですね」

「別に、そうでもないけど」

 午前中最後の授業の民俗学を教えてくれる教師は口べたではあるが知識量が豊富でそれを訥々と語ってくれるのが結構気に入っていた。

「そうですか?」

「えぇ」

「ここの所ふさぎ気味だったように感じていたのですが」

「……そんなことありません」

 見抜かれていた様で気恥ずかしくふて腐れて言うとくすくすと笑われた。

「いいから続き話してよ」

「はい、失礼いたしました。何処まで話しましたっけ」

「アズウォール地方の風土病の起こりについてよ」

「あぁ、そうでしたね。昔から原因不明の病は、何らかの原因を見つけたがるものなのですが、まだその頃は医学も発展していなかったので……」

 リッターもそうだが、頭のよい人間というのはどれだけ頭の中に知識を蓄えられるのだろう。何も見ずににこにこと世間話をするかの様に豊富な知識を披露する様は見ていて心地よい。その口上を妨げたのは扉をノックする音だった。

「何?」

 基本的に授業中は来客を断っている。何か緊急事態でも起きたかと緊張する。

 扉を開けたのは侍女で、恐る恐ると言った体で顔を覗かせた。

「授業中失礼いたします。あの、面会の申し込みを受けたのですが……」

「今は授業中よ。わかってるでしょ、断って」

 今更こんな初歩的なことを言わなければいけないのかと溜息をつくと、侍女はさらに申し訳なさそうに言葉を続けた。

「それが、その面会を申し出ているのがラーゼル様で……」

「……あぁ」

 今この宮廷の中にある最大のイレギュラー。侍女の戸惑った顔が理解できた。

「そう、ラーゼル様が」

「姫様、私の授業なら後回しにして構いませんよ」

「先生、でも」

「外交は姫様の大事なお仕事ですよ」

「……うん、ありがとう。とりあえずラーゼル様をお通しして」

 侍女は一礼して下がると、しばらくしてラーゼルを伴って現れた。

「ご機嫌麗しゅう、アルシェ様。……おや、そちらは……?」

「こんにちは、ラーゼル様。こちらは私の民俗学の先生で」

 簡単に紹介すると、ラーゼルは驚いた様に目を見開いた。

「これは失礼を致しました。授業の途中とは知らなかったものですから」

「いいえ。大丈夫です。どういったご用件でしょうか?」

「いえ、ただ会ってお話ししたかっただけなのですが……」

 ラーゼルがさりげなく民俗学の教師に目をやると、彼は穏やかに笑って席を立った。

「では、姫様。続きはまた今度に」

「いや、それは悪い。私が出直します」

「いいんですよ。どうぞごゆっくり」

 去っていく教師の背中を二人で見送る。扉が閉まるとラーゼルが口を開いた。

「……申し訳ないことをしてしまいましたね」

「いいえ、お気になさらず。今お茶を用意させます」

「ありがとうございます」

 ラーゼルは教師が座っていた席に腰掛けると、開いたままだった教本を捲った。

「アルシェ様は勉学にも勤しんでいらっしゃるんですね」

「え? ええと、あはは……」

 どちらかというと逃げ出すことの方が得意なアルシェは誤魔化す様に笑った。

「本当に貴女は素晴らしい方ですね。知れば知るほど、そう思いますよ」

「あはは、はは」

 困ったどうしよう。早くお茶を持ってこさせよう。アルシェは侍女を急かしにはしった。



「この国の紅茶はとても美味しいですね」

 急いで持ってきたもらったが、気に入ってもらえたらしい。ラーゼルは嬉しそうに口をつけている。

「この城の一角にハーブ園があるんです。結構色々な種類を作っていて、そのハーブを色々調合して入れているんです」

「へぇ。このお茶は特に気に入りました。ほんのり舌に甘みが残るのがいいですね」

「ではお土産に包みましょうか。気に入っていただけて嬉しいです」

「ありがとうございます。家の者も気に入るでしょう」

 相変わらずの品の良い笑顔には恐れ入る。アルシェよりよっぽど王族っぽい。

「よろしければ、そのハーブ園を見せていただけませんか?」

「えぇ、いいですよ」

 アルシェは立ち上がると、誘って廊下へと出た。

「ところで、よかったんですか、ここに来ていて」

「どういう意味ですか?」

「ラーゼル様にはお会いしたいという者がたくさんいるでしょ?」

 言うと、ラーゼルは優しい微笑みを浮かべた。

「私は貴女にお会いしたかったんです」

「そ、そうですか……」

 ラーゼルの言葉は何時もストレートで、逃げ場が無くて本当に困る。

「おや、こんにちは、姫様」

 ハーブ園の入り口でここの管理をしている老人にあってほっとして、アルシェは笑顔を浮かべた。

「テナンス、少し入らせてもらってもいい?」

「えぇ、どうぞ」

「ありがと。あ、そうだ。さっき淹れてもらったお茶美味しかったの。ラーゼル様が気に入ってくださったからお土産にって思うんだけど、乾燥させた奴まだあるかしら」

「おや、それは嬉しい。では厨房に行って何を淹れたのか確認して調合しておきましょう」

 そう言って笑うと陽に焼けた顔に深い皺が刻まれる。自分が生まれる前からこの城でここを守っていた老人に礼をいう。昔からリッターから逃げてるときによく匿ってくれた。

「では、こちらへどうぞ」

 よく整備されたハーブ園へ誘うアルシェを見て、ラーゼルは優しい、どこか儚い笑顔を浮かべた。

「……本当に貴女は優しい人ですね」

「え?」

「下々の者からも慕われている様です」

「はぁ、そう、かな」

 何のことだか分らず適当に頷いておいた。

「……何故」

 ラーゼルは自分に呟く様に囁く。

「何故、貴女はそんなにも人に優しいのでしょう」

「え? いえ、そんな大層なものでも……」

 優しいとはなんかもっと、こう、慈愛に満ちた人に送るべき形容詞であって、しょっちゅう街中に脱走している自分には似合わないと思う。シャリィを困らせてばかりだ。

「優しいですよ、貴女は。誰にでも分け隔て無く接している。……怖くはないのですか?」

「え?」

 今度こそ本当に質問の意味が分らなかった。

「怖い、って……? 何が、ですか?」

 ラーゼルは寂しげ笑顔で(それはアルシェが初めて見る完璧でない表情で)、アルシェを見つめていた。


「私は怯え続けられてきたのですよ、兄たちに」




 自分より年下の青年リッターは、その年に見合わぬ冷静さでいつも落ち着いていることが多いから正直今の状況はゲイルにとってものすごく面白い物だった。

「ちょっと待て、本当に誤解だからな」

「や~、別に? 誤解も何も? 俺別に何も言ってねぇし?」

「だったら、その目を止めろ!!」

 扉にもたれ掛かったまま冷たい目で棒読みで言うと、リッターはますます慌てて声を荒げる。

「生まれつきの目だし? 止めろと言われましても?」

「というか、ノックもせずに扉を開けるな!」

「ああ、すいませんでしたね。お邪魔した様で」

「だから誤解だと言ってるだろうが!」

 ただ、これぐらいの意地悪は許されても良いと思う。

 だって相当びっくりした。

 中に人の気配はするのに返事は無いし、そっと覗いてみたらシャリィの顎にリッターは手をかけ強引に上を向かせ、しかも涙が一粒零れた瞬間とか目にしてしまったのだ。動揺するのも当然だろう。てか、本当になんで泣いてるんだ、この小娘は。一向にその理由をリッターは告げようとしないから苛々がまして、だから意味のないいじめなんて物をしてしまうわけで自分はそんなに悪くない。

「あぁ、とにかく本当に誤解なんだ」

「言い訳すりゃするほど、怪しいよな」

 そもそも自分に言い訳する必要な無いことをリッターは失念しているし、それを突っ込む気のない自分も自分だ。

「悪いが俺はアルシェ様に用がある」

「あ?」

「だから後は任せた」

「は?」

 俯いたままのシャリィを押しつけて、リッターは部屋を出て行ってしまった。

「うっわ、逃げたよ、あいつ」

 本当に誤解なのだろうが、もしこれが男女のもつれだったりしたらどうしてくれよう。シャリィは俯いたまま目元をごしごし乱暴に擦っていて何も釈明しようとしない。

「そんなに擦ったら赤くなるぞ」

「いえ、平気ですから。あの、私失礼します」

 その言葉だけを置いてさっさと立ち去ってしまおうとするシャリィの二の腕を掴んだ。

「事情の説明ぐらいしてくれないか。気になって仕事にならん」

「いえ、あの、本当に。私がちょっと落ち込んでただけで……」

「落ち込む? なんだ、なにか失敗でもしたのか?」

 言いながらそれはないだろうと思った。何かと失敗だらけの侍女だが、そう言う時にはもっとぎゃあぎゃあ騒いで失敗した内容が筒抜けになるタイプだ。

「本当になんでもないです。心配していただいてありがとうございます。もう大丈夫ですから」

 そういって二の腕にかけられた手をさりげなく解いて歩き出し、扉を引く。

「……行かせてください」

 その扉を背後から押して差し込んできた光を追い出す。

「事情を聞かせてもらってないんだが」

「私がちょっと失敗して落ち込んでた所をリッター殿が気にされたっていうだけです」

「俺の顔見てそれ言えよ」

「そんな。……畏れ多い……」

「は?」

 ぼそっと呟かれた言葉、良く意味が分らない。

「お願いです。行かせてください。隊長さ、……ゲイル様」

「……なんだ、それ」

 わざわざ言い換えられた呼称。頭がかぁっと熱くなる。

 どこのどいつだ、こいつに余計なことを吹き込んだのは。

 何故、自分がこんなに怒っているのかよく分らなかった。





 ラーゼルは手入れの行き届いた小径をゆっくりと歩く。

「お兄様に……?」

「私が四男だという話はしましたね?」

「えぇ」

「ランドール家は大きな家です。家督を継ぐとそれだけで莫大な権力と財産が手に入る。兄弟達は皆それを欲しがっている。男だけではないですよ。姉や妹も力ある婿養子を手に入れようと工作を繰り返しています」

「それだけの魅力がありますものね」

「四男なんて順当に行けば家督を継ぐことなんて無理なんですよ。順番なんて回ってくるはずがない。普通であれば」

 風にそよぐハーブに手をかざしながら歩くと、手に触れたそれは大きく傾ぐ。

「だから長兄は何時も怯えています。普通でない手段で自分の立場が奪われるのではないかと」

「…………」

「長兄は凡庸な人間です。決して悪い人ではないのですが、ランドール家を継ぐには能力が欠け、本人もその自覚がある。だから自分の位を奪われないようにと殊更に他を低く見ようとする傾向があって……」

 ラーゼルは苦笑した。

「私は息子の中では唯一妾腹の生まれですから風当たりは余計強かった。長兄は正妃の息子ですから妾腹であると言うだけで攻撃の的になるし、他の子供達にとっても蔑むにはいい口実で……」

 ハーブを一房摘み鼻先に当てて大きく息を吸い込んだ。

「私は生まれた時から蔑まれることを宿命づけられてきた。どれだけの能力を持っていようと正当に評価されることは許されず、ただ何時か反旗を翻すのではないかと怯えている兄にこれ以上いたぶられることの無いよう従順を誓い続けるしかない」

「……ラーゼル様……」

「だけど、私はそれでもランドール家の子息だ。例えどれだけ兄弟達に軽んじられ続けようと、家臣達にまで侮られる訳にはいかない。実力を示し続ける必要がある」

「……そんな生き方は、辛くはないですか?」

 初めて見る厳しい横顔。それは優しい笑顔を浮かべている時より、ずっとラーゼルという人物を表しているように思えた。

 寂しげに笑う顔が、なんだか可哀想で、アルシェは思わずラーゼルの頬に手を伸ばした。触れた時、一瞬驚いて目を見開いた後、嬉しそうに顔をほころばせた。優雅さに欠けた無邪気な笑みだった。

「ランドール家に生まれた者の勤めだと、今は覚悟しています。……すいません、姫君には少し難しい話をしてしまったようです」

「いえ」

「……私は、貴女が他人のように思えないのです」

 頬に触れた手に、ラーゼルは己の手を重ねた。冷たく、けれど滑らかな肌だった。

「生まれた瞬間に、自分の人生を定められてしまった貴女を助けて差し上げたい。その想いでここまでやって来てしまった私を、笑いますか?」

 その瞳は真剣で、動けない。

「貴女は優しい。誰にでも。そんな貴女を知ることが出来て私は嬉しい。けれどだからこそ配なのです」

「心配……?」

「貴女の優しさを、愚かな者は勘違いしていないかと。かけられた慈悲に奢ってしまうのではないだろうかと」

「…………」

「どうぞ、間違われないように。思慮に欠ける民達は貴女に慈悲をかけられるのを当然の権利と思い上がり、貪ろうとするかもしれない」

――「貴女に王位を継ぐに足りる資格がない。そう思ったから人は去ったんだ」

 人生で一番自分に恥をかかせた台詞は何時でもすぐに甦る。

「……別に、私は優しい人間じゃありません。そんな人物なんかじゃないんです。でも……」

 いつかリッターにされた話が思い出される。

「人を蔑ろにしたらいけないって、リッターが言ったんです。人は蔑ろにされると悲しくて、傷つくからって」

「貴女は王族です。民に嫌われることを恐れる必要など無い身分なのですよ」

 ラーゼルは窘めるように優しく言う。リッターにこの話をされた時、自分はとても納得したのだけれど。

「本当に貴女は慈悲深くいらっしゃる」

「私は……」

 言いたいことがうまくまとまらなくて必死に考えていると、ラーゼルは頬にあったアルシェ手を自分の胸の前に移動させ両手で握った。

「今日は実は貴女に贈りたい物があって来たんです」

 私の話はまだ終わっていない。

 妙に早くなる動悸に気づくはずもないラーゼルは嬉しそうに自分のポケットから天鵞絨の張られた細長い箱を取り出した。

「貴女の姿絵を見た時、きっとこの石が似合うと思っていたんです」

 箱を開けると、そこには大粒の紅玉の首飾りが納められていた。蔦を模した鎖は繊細な彫りが施され、一目で高価な品だとわかる。

「こんな貴重な物、いただけません」

「貴女がつけられなければ、この国で誰もこれをつけられませんよ。貴女はこの国で一番貴い女性なのですよ?」

 ラーゼルは悪戯めいた笑みを浮かべてそう言うと、箱からそれを取り出しアルシェの背後に回り、首に鎖を回した。

「…………っ」

 首筋に触れる冷たい感触に一瞬びくっとする。

「思った通りだ。貴女の白い肌に良く映える」

 背後から満足げな声が聞こえて居心地の悪い想いをしていると、不意にその両腕がアルシェの身体にまわり、抱き寄せられた。

「……ラーゼル様……?」

 首筋に押し当てられる髪がくすぐったい。背中に触れる身体が熱い。

「……お慕いしております、アルシェ様」

「…………」

「私を憐れと思うなら、私にもその慈悲を一欠片与えてください」

「……私……」

 ラーゼルの掠れた声が、耳元で響く。動けず、口は言葉を紡いでくれない。ただ、動けずにいると、不意にその拘束は解かれた。

「……申し訳ありません。貴女を困らせる気は無かったのに……」

 苦笑いを浮かべる顔は、優雅な青年のそれに戻っていた。

「貴女を急かす気もないのです。……先ほどのことは忘れてください」

「あっ、あのこれ……」

 立ち去ろうとするラーゼルに首飾りを返さねばと慌てて声をかけるが、押し止められてしまう。

「どうぞ、お受け取りください。それで貴女の心を買うつもりはありませんから」

 それだけ言い残して、今度こそハーブ園からラーゼルは出て行き、アルシェは取り残された。

「…………」

 悲しそうなラーゼルの顔が消えない。初めてラーゼルの心に触れた気がして、無碍に扱えなくなってしまう。

 自分の気持ちがよく分らない。

 慕われて嬉しい。やっと本質の一端に触れられて、多分それも嬉しい。悲しい顔が可哀想で優しくしてあげたい。

 それらの気持ちは、もっと発展した形に繋がっていってもおかしくなさそうなのに、心の底に違和感が沈んでいる。孤児院でも感じた、上手く口に出せない何か。

「……大きな石」

 ぎゅっと掌で握りしめる。

 そうでないと、触れた所が冷たくて仕方なかった。



 いつも明るく笑っていて、失敗すれば大騒ぎして、とにかく元気で生命力に溢れている。それがシャリィという少女だと思っていたから、こんなに頑なに何か確実にあったはずの辛いことを閉じ込めておく技術があるとは思わなかった。辛いことでもあれば大げさに嘆いてみせそうなのに、時折見せる年に見合わない自分を押し殺した態度に戸惑う。

「おい、シャリィ。顔上げろ」

 ぐるっと自分の方を向かせて俯く少女の顔を両手で挟み込み上を向かせる。

(……あぁ、さっきのはこれか……)

 思いがけず先ほどのリッターと同じ行動をしてしまったゲイルはようやく誤解を解いたが、落ち込んでいる原因は相変わらず不明だ。

「……本当に何があったんだ?」

 もう涙は零れていなかったけれど、瞳は潤んでいて、見慣れぬ表情が痛ましい。

「私用事があるので、もう行かないと」

「何の用事だよ」

「……姫様に、お菓子買ってくるって約束して……、……街に降りたくて……」

 よくある用事の何処に後ろめたさを感じてるのか分らないけれど目が泳いでいる。

「わかった。じゃ、俺も行く」

「いえ、そんな」

「いい。休憩時間だから」

 嘘だが、それぐらいは隊長特権だ。

「行くぞ」

 返事を待たず少女の手を握り引っ張るように歩き始めると、半歩遅れた場所を少女もついて歩いてくる。

「…………」

 掌の中の少女の手は小さい。握りつぶしてしまわないように、けれど逃げられないように、力の加減が難しくて妙に気を遣った。

 ちらっと見るとやはり少女は俯いていて、何があったか知らないが落ち込んでいる。なんだかこれじゃ俺が苛めたみたいだ。参ってしまって空いてる手をうなじにやって手持ち無沙汰を誤魔化す。

 廊下を手をつないで歩くと、通りすがった人間が興味深げにこっちを見ていく。何やってるんだと本当に思う。

「……なぁ、シャリィ」

「隊長さんは……」

 沈黙に耐えかねて声をかけた時同時にシャリィが話し始めたので先を譲る。

「隊長さんも貴族様なんですか?」

「……急だな」

 唐突な話だったので思わず目を見開くが、シャリィは俯いたまま真剣に聞いてるので真面目に答えることにした。

「……ちょっと混ざってるよ。けど他の国だし、偉ぶれるほどいい家でもなかったし、基本平民と変わらないよ、俺も」

 答えると、シャリィは歩みを止めた。

「シャリィ?」

「……私、今まで失礼な態度を……」

 唇を噛みしめているのが見えた。

「……言いたくない台詞なら言うな」

「お詫び、しないと」

「シャリィ」

「本当に申し訳なく……」

「シャリィ!!」

 言葉を遮り、大きく溜息をつく。

「誰に、何を言われた」

「…………」

 押し黙ればだまし通せると思ったら大間違いなのに。今更身分どうこうを取り沙汰にされる不自然さから鑑みれば大まかな原因などすぐに察せられる。

「……何を言われたんだ」

 そうやって押し黙って感情を殺しているようなそんな殊勝な表情はどうせ似合わない。

「……別に、お前が何をどう思おうと勝手だけど」

 もう一度握る手に力を込めて、引っ張って歩き出す。

「お前が引こうと、姫様は変わらないだろうし」

 また、半歩遅れた場所をシャリィが歩き出す。

「リッターだってそんなことで態度変えるとは思えないし」

 腕を強く引っ張って無理矢理自分の横に並ばせる。

「……俺だって面倒くさいし」

 シャリィがゆっくりと自分を見上げたのが感じられたけれど、前だけ向いて言う。

「だから、あんまお前も無駄なことすんな」

「……無駄なんですか」

「お前想像できんの。畏まって会話する姫様とお前って」

「……一応私なりに気は使ってたんですけど」

「あれで?」

「だ、だって、誰もそれに注意とかしなかったから、別に大丈夫なんだろうって……」

「あぁ、だから大丈夫なんじゃないの?」

「……やっぱ」

「ん?」

 再び地面に視線を落として、口を歪めていたけれど、それは子どもがするような表情で。

「やっぱこの国変だと思います」

 ふて腐れた声で言ったから、つい小さく吹き出す。

「俺らには丁度いいんじゃない?」

 む~っと不服そうに口を尖らせる少女に心底ほっとして(怒っている時人は元気だ)、ゲイルは歩みを始めた。

「ほら、俺の休憩時間が終わっちまう。早く買いに行くぞ」

「私一人でも行けます!」

「いいから、行くよ」

 握られたままだった少女の手に力がこもり、握り返してきた。


 それなりの速さの歩みに遅れることなくついてこれる侍女の手を引いて、通用門から街へと降りていく。

 通りには人が溢れ、活気に満ちていた。



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