第15話 吐息が交じる
「……ねぇ」
「なんだ」
リッターの執務室にあるのは本ばかりで、来ても全然心ときめかない。来る度に新しい本が増えている。机の上にある書類はいつでも新しい物で、それに加えてアルシェの教育係だってそつなくこなしている。リッターが出す課題は何時だって難しいし、出した答えに対する対応だって丁寧だ。教師として不足はない。不足に感じるのは一人前の成人男性としてだ。
「ほんっと、なんて部屋なのかしら」
「入って来るなり何なんですか」
入ってきた扉を後ろ手に閉めて扉にもたれ掛かってそういうと、書類から顔も上げずにリッターは答えた。
「別に今更どうでもいいんだけどさ」
よっと身体を扉から離してソファに座る。リッターが書類を手にしたままいくつかの資料をもう片方の手で掴み上げて、机の椅子から部屋の中央のソファへと移動してきた。アルシェもその隣に座る。
「リッターって、何時から執務室もらったんだっけ」
「脈絡のない会話を振ってきますね」
「あるわよ、脈絡」
「ほう。どこにありましたか」
「自分で探しなさい」
我ながら勝手な口をたたくが、リッターはこれぐらいじゃ焦りもしない。腹立たしい男だ。
「……ほんと、何時だっけ」
「…………」
リッターがやっと紙面から顔を上げた。
「…………」
「何時?」
無表情のリッター、きっと私も同じような顔をしてる。
「……四年になりますね」
「そっか」
四年、それは彼が国政に関わりだした年月と等しい。
リッターはどちらかというと宮廷の中において、正しくない存在であり、正しくない出世の仕方をしようとしている人間だ。
言ってしまえば、『姫様のお気に入り』である。目をかけられているのをいいことに、アルシェを傀儡にして政治を操ろうとしている。遊撃隊もアルシェが設立したという名目になっているが、段取りを組んだのが全てリッターであるのは、宮廷のほとんどの人間が知っている。
それが許されているのは、リッターがアルシェだけでなく国王からも信頼を得ているということが周知の事実だからであり、後に重職に就くであろうと納得されるだけの才覚と努力を見せているからである。
「執務室と言っても、ただの資料置き場ですけどね」
「確かにね」
如何にもリッターらしい部屋だ。余計な物はなく、ただ本と資料と書類を書く場所を確保してるだけ。
「私、昔リッターは魔法使いだと思ってたわ」
「……ええと、本当にどこに脈絡は落ちていらした?」
自分に対する指導時間と自分の勉強の時間を合わせると、リッターだけ違う時間軸を生きている気がしてならなかったのだ。
「……違うか」
「残念ながら」
「魔法使いだったら、視力治せるものね」
「いや、それが何処の伝承に出てくる魔法使いか知らないですけどね」
何かいってるリッターを無視して、その眼鏡を取り上げた。
「返して下さい、姫様」
「どれくらい視力悪いの?」
「ぼやけて何も読めません」
「私の顔、わかる?」
「中々愉快な顔になってるので、返した方が身のためですよ」
「全然わからないの?」
「分らないというわけではないのですが、こう、全体的に薄ぼんやりとしてて」
「ふぅん」
アルシェは視力には何の問題ものないので、正直よくわからない。
「どこまで近寄れば見える?」
「相当近くないときついですね」
「これぐらいは?」
ちょっと身を乗り出す。
「まだ無理です」
「じゃ、これぐらいは?」
「まぁ、少しは」
更に身を乗り出すが、芳しくない返事。
「……これは?」
隙間を、縮める。
前髪が触れ合う距離、目の前でリッターが瞬く。
「私が、わかる?」
リッターの視線が、真っ直ぐにアルシェを捉えている。
自分の声は、なんだか小さかった。
「…………」
二人の間で、吐息が交じる。
今、リッターには自分しか映っていない。
「……お前、なんでへこんでるんだ?」
心臓が止まってしまいそうな沈黙の後、リッターも小さな声で言った。恋人同士の睦言のような距離でも、揺らぎがない。
「ラーゼル殿と、何かあったのか?」
――貴女の騎士は幾重にも貴女を包み込んで
ホント、騎士なんて大した者じゃないんだ、この男。守るべき自分に今は騙されて欲しかった。
「……別に、何もないけど」
リッターの父親には、本当に感謝をしなければならない。
このぶれない男を私に与えてくれてありがとう。この男を得られなければ、私はどれだけ愚かな娘になっていただろう。
――「貴女に王位を継ぐに足りる資格がない。そう思ったから人は去ったんだ」
今まで生きていて一番恥ずかしかった言葉をくれたのはリッターだった。
それでも、今は一緒に揺れて欲しかった。
「……手、握られただけ」
「……そうか」
「別に、やじゃなかったけどさ」
「…………そうか」
リッターの掌に眼鏡を返してやる。リッターは自分で眼鏡を戻して、また書類を捲り始めた。
紙の音だけが響く。なんとなく気まずいのが凄く嫌だ。
リッターのせいだ。あんな冗談で私をからかい続けなければ、もう少し政略として今回の事態に臨めたのに。
――「それに構わないでしょ。どうやら婚約者のようなんだし」
ねぇ、私、ラーゼル様と結婚するの?
「……そろそろ行くわ。次、文学の先生の授業なの」
俯いたまま答える。
「そうですね」
「嫌いだけど」
「寝ないで下さいね」
「逃げるかもね」
「探しに行きますよ」
「…………」
何時まで、リッターは探しに来てくれる?
言えやしないので、踵を返して部屋を出る。
かつかつと足音を立てて歩く。なんだか苦い。
「何やってんの、私」
理性的でない自分を戒めるために、声に出して呟いてみるが、苦みは何処にも行ってくれない。
それならせめて、リッターもこの苦みを感じればいい。
隠しきれぬ苛立ちは、足早な靴音となって、宮廷に響いた。
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