第9話 雫

 控えめに叩かれた執務室の扉。申し訳なさそうに扉の隙間から顔を覗かせた侍女の姿に、今日も彼女の逃走を知る。



 雫



 まじめと言うより律儀な彼女の報告はやっぱり姫様の逃亡を告げるものだった。

「こちらに、姫様いらっしゃってませんか?」

「いや、今日は来ていないが……」

 ふと壁にはってあったカレンダーに視線をやって一人納得した。

「あぁ、そうか、今日は……」

「え?」

「いや、今日は確かにあの子は授業を受けないだろうなと思ってね」

「え、と。どうしてですか?」

「ん?」

 きょとんと目を見開いた少女に微笑む。

「今日は彼女にとって特別な日だからね」

 今日の授業は誰だったか。代わりに謝罪に伺わなければとリッターは思った。




「さ、ばしばしいくわよ」

 小さな国の小さな姫様は、腕まくりをしながら兵舎の前に立っていた。その後ろには似たような格好の侍女たちが控えている。アルシェはにやりと微笑んでから徐に兵舎の中に住む兵たちに呼びかける。

「そろそろ行くからねぇ……! 逃げても無駄よ……!!」

 叫ぶと、義理は果たしたとばかりに微笑み、兵舎に足を踏み入れた。

「レイテとカナンは右からね。ラナとミガンは上から。私とハイアは左から攻めるから、もししつこく抵抗したら私を呼びなさい。いくわよ」

 アルシェはおざなりに扉をノックすると一番左端の部屋の扉を開けた。部屋の主はぎょっとした顔で唐突な闖入者を見やる。

「ちょ、姫様……!!」

「はいはい。ごきげんよう。シーツ持ってくわよ。洗濯物はない?」

「いや、だから、待ってくださいってば……!!」

 懇願を無視して、アルシェはなんだか色々なものが載ってるベッドからシーツを無理やりはがし取った。他にも適当に落ちている布を端から拾ってかごに入れていく。

「この部屋はこんなものかしら。次いくわよ、ハイア」

「はい」

 入ってきた時より荒れた部屋を尻目にアルシェは堂々と去っていく。部屋には、一人部屋の持ち主が呆然と立ち竦んでいた。

 隣の部屋から、悲鳴が聞こえてきた。




「……何をやってるんですか? これ……」

 あちこちから悲鳴が聞こえてくる兵舎の前につれてこられたシャリィは、冷静にそれを眺めるリッターに尋ねた。

「月一の恒例行事だよ。姫発案のね。兵舎があまりに汚いからせめてシーツぐらい洗ってあげようという大層ありがたいお祭りだよ」

「気のせいですか? さっきから、色々とよくわからない布きれも山に入ってる気がするんですけど」

 兵舎の前には既に回収されたリネンが山積みにされている。その黄ばんだリネンの中に見え隠れする下着やらシャツやら。

「あー、やっぱりシャリィの目にもそれが映るかい? 最初はリネンだけって約束だったんだけどね。ほら、男所帯だからほっとくとどこまでも洗濯物を溜め込んでね。段々容赦がなくなっていったんだ、アルシェ様は」

 リッターはどこか遠い目で呟いた。

「まぁ、衛生的にはむしろありがたいから止めないんだけどね」

「……一国の姫君がやることですか? 授業サボってまで」

「やるんだよ、あのお姫様は」

 とはいえ、やるべきことはやるという約束だった。リッターは肩を回しながら兵舎へと足を踏み入れる。

「約束は守らなきゃな。アルシェ」



 アルシェは盥に水を張って洗濯物を放り込んだ。そこに洗剤をざばっといれ盥に入り足で踏んで粟立てる。布が傷むのなんて全く気にせず豪勢に泡立てる。はねる水にあわせてシャボンの泡がふわふわと浮く。脱ぎ捨てた靴に水がかかって濃い染みを作った。

「全く、放っておくとどんどん洗濯物ためちゃうんだから、あの人たちったら」

 文句を言いつつ、顔はとても楽しそうだ。

 そんなところを遮るのは本当に申し訳ないのだが。リッターは一つため息をついて女性たちの社交場に足を踏み入れた。

「アルシェ様」

「リッター」

 頬に泡をつけて、嬉しそうに振り向いた姫君。年よりか若く見える。

「なに? 貴方も何か洗濯してもらいたいものがあるの? いいわよ、私が洗ってあげる」

 持ってらっしゃいとにっこり微笑む少女におもむろに近づく。

「リッター?」

「姫」

 リッターも微笑む。

「帝王学の先生がお待ちですよ」

「……見えないのかしら、リッター。私仕事中なの」

 アルシェの視線が急に冷え冷えとしたものになった。

「約束だったはずですよ。姫様のお勤めに支障が出ない限りで行うと」

 リッターも冷たい微笑で答える。

「今はこれだって大事な私のお勤めなの」

「ここまでくれば貴女がいなくても大丈夫ですよね」

「まだよ。今日こそゲイルの部屋に押し込むんだから」

「……まだ諦めてなかったんですか」

「だってあの男一度もリネンの洗濯させないのよ……!?」

「貴女にやられるのがいやなだけでしょう。散らかってはいましたが、不衛生な部屋ではありませんでしたよ?」

「ちょっと、リッター!! 貴方ゲイルの部屋に入ったことあるの?」

「えぇ、まぁ」

「ずるいわ! 私のことは絶対部屋に入れないくせに……!!」

「……ずるいって言われても……」

「もう! 今日こそ絶対シーツ取ってやるんだから……!!」

「はいはい。もう、行きますよ」

 そういって少女を肩に担ぎ上げた。

「な! ちょ、リッター!?」

 戸惑う少女を無視してリッターは落ちていた靴を拾い上げると歩き出した。

「ちょっと、降ろしてよ! 降ろして……!!」

「駄目です」

 裸足の足をばたばたさせると、細い体躯の宰相では少し危うげに見える。

「ちょっと、リッターてば……!!」

 暴れるが下ろしてくれる気配はない。リッターはアルシェを担いだまま後ろに控えていたシャリィへ呼びかけた。

「シャリィ」

「え? はい」

「姫様の代わりにゲイルの部屋に行ってシーツ略奪してきてくれないか」

「え? 私がですか?」

「うん、多分シャリィならできるよ」

「えぇ!? え、ちょっと、そんな、困ります……!!」

「頼んだよ」

「ちょ、無理ですよ、リッター様ぁ……!!」

 宰相の肩に担がれて「私には無理だっていうの?」と叫びながら去っていく姫様の後姿を眺めながら、自称しがない侍女は切ない叫びを上げたのだった。



「ちょっと、リッター。リッター!! いい加減降ろしなさい!」

「降ろしたら速攻逃げるだろう、お前は」

 廊下を歩きながらあたりに人をいないのを確認してからリッターは答えた。

「に、げないから」

 逃げるつもりだったんだな。

 言葉を詰まらせた少女にそう確信する。姫君を裸足でおろすわけにもいかず、リッターは肩に担いだアルシェを胸の前に抱きなおした。

「さ。授業を受ける気になったか?」

「……いやよ。受けたくない」

「アルシェ」

 わがままを言う少女をたしなめると、アルシェは視線をおろしてきゅっと唇をかみ締めた。

「……どうしてそんなに嫌がるんだ?」

「……リッターが悪いのよ」

「俺が?」

 きょとんと目を見開く。

「そうよ、リッターのせいだわ。リッターがあんな教師を雇うから……」

「……あの教師が不服か? 優秀な男だぞ。 わざわざ招いたのに」

「だからよ」

 きっと顔を上げてアルシェは鋭く言った。

「あの男の語ることは全てあの国を基準にしてる。確かにあの男がいた国は大国だったかもしれないわ。動かす物量も権謀術もこの国とは規模が全く違うのでしょうね。だからって、この国を侮り馬鹿にしているような男から一体何を学べというの!?」

 激しい感情。

「私の大切なこの国を小国と見下し鼻で笑うあの男を師とは仰げない。それはこの国のために対する裏切りだわ」

「…………」

「……貴方が教えればいいのよ、リッター。貴方の方があの男よりよっぽど生きた知識を持ってる。この国のことを知ってる。私が知りたいのはどこかの本から引き出したような凍りついた文字じゃない」

 微かに涙が浮かんだ強い瞳でリッターを見据える。その眼差しの美しさにこの国の未来を感じる。だからこそリッターはあえて拒絶の意を示す。

「……お前はあの男から色々学ぶべきだよ」

「リッターは悔しくないの? あんな人の国を端から馬鹿にしている男に学ぶなんて」

「だからこそ、お前はあの男から学ぶべきなんだよ」

「…………」

 リッターは少女に右の靴を履かせる。

「知識なら俺がいくらでもやる。国の治め方は国王を見て学べばいい」

「だったら……!」

「いずれお前が王位に立った時、お前が戦わなければらない相手は誰だ?」

「……」

「あの男は、お前の未来の敵なんだよ。いずれお前が肩を並べなければならない相手は、この国を侮り見下し、こんな国などどうとでもなると考えているんだ。それは事実で悔しかろうと変えられない現実だ」

 アルシェは唇をかみ締めた。冷たい口調で諭すリッターが優しく左足にも靴を履かせた。

「お前は学ばなければならないんだ。いずれお前が立つべき場所に立つために」

「…………」

 リッターは大切に大切に少女を床に下ろすと、ゆっくりと主を見つめた。

「……できるな?」

「……貴方は……」

 少女は唐突にリッターの足を踏みつけた。

「なっ」

 思い切り踏まれて思わずしゃがみこむ。

「何考えてるんだ、お前は……!」

「言うのが遅いのよ、バカッ……! そういうことはもっと早めに……」

 アルシェはくるりと背を向けて言った。髪の隙間から覗いて見える耳が真っ赤に染まっている。照れくさくてリッターの顔が見れない。

「わかったわよ、やればいいんでしょやれば! あの馬鹿男からたっぷりその馬鹿っぷりを学んでくれば……!!」

 半分やけになりながら足音を立てて歩いていく少女の後姿を眺めて、リッターは軽く苦笑して立ち上がった。

「その意気でお願いしますよ、姫様」

「授業終わったら、ゲイルの部屋に乗り込むの手伝いなさいよ……!!」

「……それはまた別の話でしょう」

「約束したからね」

「してませんって」



 リッターの台詞を無視して、アルシェは走り出した。

 翻ったスカートの裾から、濡れたスカートの雫が空に散った。

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