第7話 彼の眼鏡

 彼の執務室は、いつも本の匂いがした。



 男のものにしては細くて長い指が、今日も書類をめくっていく。色が白くって綺麗で、私はその指が嫌い。

 書類に目に通していくにつれ深くなっていく眉間のしわ。何か私の愛するこの国にとってよくないことが書いてあったのだろう。私の愛するこの国はとても貧乏で、ちょっとしたことでも大きな影響を受ける。まるですぐにむずかる赤ちゃんのよう。母のようにまめで神経質なこの男は気をやすめる暇がない。

 もし眉間のしわが消えなくなってしまったらきっとそれは私の国のせい。確かに以前から目は悪かったけれど、宰相の位についてから視力もどんどん落ちていって、本当は眼鏡を作り直さなければいけないと知っている。

「……姫?」

「何、リッター」

「こんな書類を見ていて楽しいですか?」

「……ううん」

「……今日は何から逃げてきたのですか?」

「帝王学」

「……あなたはそれが嫌いだから……」

 ふとリッターが柔らかく微笑んだので、私は無性に腹が立ってリッターの手にいてた書類を取り上げた。

「私が嫌いなのは帝王学の先生よ。それ自体が嫌いなわけじゃないわ」

「そうですね」

 全然表情が変わらないから余計に腹が立った。

「……破くわよ?」

「勘弁してください」

 リッターはとても自然に私の手からそれを取り返した。

「……何の書類?」

「今年の作物の取れ高の予想額ですよ」

「悪いの?」

「良好とはいいがたいですね。まぁ、いつものことですが」

「そういうの、見てて楽しい?」

「……? 仕事ですから、楽しいも楽しくないも……」

 書類から目を上げて私を見た。その白い顔には怪訝そうな表情が浮かんでいる。

「虚しくない? 他の同年代の貴族の坊ちゃんは、まぁ、基本的に貧乏なんだけどそれでも遊んだり女の子落とそうとがんばったりしてるのに、貴方は毎日毎日部屋にこもって書類とにらめっこして、……結婚する相手も決められちゃって」

 さらっと言う予定だったのに口篭ってしまった最後の部分に、案の定リッターは気がついてふと目を和らげた。

「大変は大変だがな。この選択を悔いたことはないぞ?」

 頬杖をついて、口調が気安くなる。

「…………」

「だからお前がそんな顔するなよ」

 お前。

 人前では決して呼ばなくなったその言い方。

 乳母の息子で、それこそ私が生まれた時から傍にいた人。私はしょっちゅう怒られてばかりだった。

 その人の手がそっと私の頬を撫でる。嫌いな指。触られると泣きたくなる。

「……馬鹿ね」

「お互い様だろ」

「そんなんだから目悪くなっちゃうのよ」

 そう言って、手を伸ばし彼の眼鏡を取り外した。

「私の顔、見える?」

 なんだか腹立たしくて怒って言う。

「いくらなんでも、見えないわけ……」

 いいかけた言葉をふと止めて、リッターは微笑んだ。

「見えないな」

 頬に掌が当てられる。昔より大きくなった、でも変わらない優しい手。

「もっと近くに来ないと」

「……馬鹿ね」

 体を寄せて眉間に手を当てた。

「この皺、消えなくなったら絶対に結婚してあげないから」

「……それは困るなぁ」

 


 全く困ったように聞こえないその声にため息をつきながら、私はそっと額に口付けた。

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