第6話 変な子。




 嫌いな授業を抜け出して、アルシェは宮廷の人目につきにくい回廊を選んで走っていた。この宮殿の中なら、誰よりも知っている自信がある。そこらの侍女程度では自分の後を追うことなど不可能だ。

 アルシェは何度か侍女やら兵士やらをやり過ごして、最近よく潜り込む部屋へと入り、その出窓に腰掛けて外を見下ろした。そこからは兵の練兵所が見下ろせる。

「…………」

 片膝を折り曲げてそこに腕をあずけ頬杖をつきながらぼうっと眺めやった。別に時間がつぶせればいいという目的だけで選んだこの場所だが、剣を振るう人間たちを見ていると思いの外飽きないことに気がついて以来、よくここで練習を見学している。リッターの進言の元設立した遊撃隊はこの場所は訓練に使わせてもらえない。アルシェにはよくわからないパワーバランスがあるようで、ようやく手に入れた自分の小さな牙を潰されないためには、あんまり自己主張しちゃいけないらしい。だから、これは敵情視察だと自分に言い聞かせる。別にサボってるわけじゃないのだ。

 そんな訓練風景が、ここ最近様変わりをしている。

 毎日、しっかりと、誠実に重ねられている訓練、その一角に不自然な人だかりができている。普段訓練には顔を出さないような軍の上層部の連中が小さな少年を取り巻いている。

「……大きくなったね、ネルヴィス」

 そこには母違いの弟、ネルヴィスがいた。

 死んだ母親と瓜二つと表される自分に対して、弟は国王たる父親の容貌を色濃く残している。多分二人並んでいても姉弟だとは気づかれまい。他国から嫁いできた母親には、国内に親戚などおらず、嫁ぎ元からの積極的な支援もほとんどない。それに対して義母は国内でも有数の貴族で、そりゃ自分よりも弟につくよなと、今なら客観的に見れる。今自分の後見をしているのは現宰相のリッターの父親、クライスラー・リク・ザインだ。父親のよき片腕が後見に着いてくれているのは素直に心強いが、自分が王位に就く可能性が決して高くない以上、このまま自分の後見をさせ続けるのも申し訳ないような気がしてしまう。しかし、彼が後見をやめるということはリッターも自分の教育係を辞してしまうことだろう。

 辞めていいよ。

 どうしてもその言葉は言えない。

 ネルヴィスは、国王となるべく教育を受け、その中で王位を継ぐ者の意識を育て、当然のように自分が王位に就くと思うのだろう。自分自身、ネルヴィスに対する憎しみはない。母方の親族がこの国にいない自分にとっては、数少ない血縁だ。親しくできるのならばそうしたいけれど、周りはそれを許さない。これからどんどん大きくなっていく中で、ろくに話したことのない第一位の継承権を持つ自分のことを、一体どう思うのだろうか。王道を妨げる石ころとして、蹴り出そうとするのだろうか。自分と敵対する道を彼は選ぶだろうか。

 その時、自分はどうするだろう。受けて立つのか、譲ってしまうのか。自分でもどうしたいのかわからない。自分の即位をクライスラーも多分リッターも望んでくれている。でも本当にこの国を背負うことができるのか自信はない。その地位に、自分は固執するのだろうか。

 辞めてもいいよ。

 言えない。

 リッターがいなくなってしまったら、誰が自分のそばにいてくれるというのだろう。

 一人はいやだ。

 窓の下では、取り囲まれることが当然だと思っている過去の自分がいた。どうやら今日の訓練は終わりらしい。この窓からは死角になっていたところからネルヴィスの母親が出てきて、柔らかい布を持って最愛の息子の汗を拭いてあげていた。可愛くて仕方ないのだろう、その表情は慈愛にあふれ、彼のためならば何でもするのだろうなと確信が持てた。

 ……独りはいやだ。

 去っていくネルヴィスの後ろ姿を見送りながら、アルシェは熱くなる自分の眼をなんとかやり過ごした。




 次の教師が来る時間には戻るつもりだったけれど、そんな気が無くなって、アルシェは中庭の片隅に設けられた果樹園の中を散歩することにした。収穫を間近に控えた果実の匂いを胸一杯に吸う。空を見上げながら歩いていると、コツンと何かを蹴飛ばした。枯れた棒きれだった。何気なしに軽く振ってみる。ひゅんと空気を着る音がした。

「…………」

 両手で構えてみる。振り上げて、おろす。横に薙いでみる。頭の中では先ほど手ほどきを受けていたネルヴィスの動きをなぞっているのだけれど、なんか違う。

 ぎゅっと握りを強めて木の枝と振り下ろす。

「…………っ」

 力の加減ができぬ子供のように強く打ち付けた木の枝は、反動を手のひらに容赦なく伝え、痛みを感じて枝を取り落とした。

「……痛い……」

 手のひらに木のとげが刺さっていた。じんわりと血のにじんでいく指を、ぼうっと見ている。

「……姫様? どうなさいました?」

木の茂みから姿を見せたのは、最近雇ったばかりの侍女だった。

「……シャリィ」

――「よくわからないですが、なんだか面白そうなので」

 大切な主君に仕える人間を選ぶには、不適切そうな言葉で、リッターはシャリィと引き合わせた。この国の女性には珍しく肩の辺りで切りそろえられた髪は、きれいな紅茶色をしている。同系色の瞳はきらきらと輝いていた。職務に希望を持っているのがとてもよくわかるのだが、能力がそれに伴っているとは言い難い子だった。お茶を入れさせればやたら苦いのを出してくるし、料理を運ばせれば途中で転ぶ。皿は割る、壺も割る、布なら裂く。本当に何を考えてこの少女を雇い入れたのか本当にわからない。とにかく賑やかになったことだけは確かだった。

「あれ、今お勉強中じゃありませんでしたっけ?」

「……別に。私の勝手でしょ」

「あ、そういうものなんですか?」

 そんなわけがない。王族にそんな自由などあるわけがない。けれどそう言う常識に欠けている侍女は、自分のぶっきらぼうな口調に機嫌を悪くするわけでもなくあっさりとだまされた。

「あれ、血が出てますよ?」

 シャリィはアルシェの手を取って言った。

「木の枝刺さっちゃいましたね」

 靴紐が解けて大変というのと同じような口ぶりだった。

「…………」

 その落ち着いた口ぶりが物珍しく、アルシェはシャリィを見つけた。

「とげが残ると面倒ですね。すぐ抜きますから、どうぞこちらへ」

 シャリィはそういうと、使用人部屋のある棟の方へととことこと歩いて言う。アルシェは断る隙がなくて、その後を着いていった。

 宮廷勤めになれていないとリッターが言っていた。それは本当なのだろう。主を連れて歩いているというのに、着いてきていると疑わず全然後ろを振り返ろうとしない。しょっちゅう宮廷を抜け出している自分だ、そこそこすばしっこい自信はあったのだけれど、シャリィは普通に歩いているようなのになんだか速度が早い。小走りしないと追いつかない。

「ちょっとこちらで待っててもらえますか」

 そう言って、走り去ろうとして、ふと足を止め、ハンカチを取り出すと広げて、花壇の煉瓦にそれをしいた。ここに座れと言うのだろうか、きょとんとシャリィを見ると得意げに笑い返して、再び走っていった。

「……座るべきなのかしら……」

 そのハンカチをしばし見つめる。少し古くて端がほつれかけていたけれど、清潔に洗濯されたハンカチだ。だが、そんな面積だけじゃ、ふわっと広がるスカートを汚れから守りきることはできない。

「…………ま、いっか」

 アルシェはその心遣いを受けいれてあげることにしてそこに座った。

 すぐにシャリィは戻ってきた。

「ちょっと見せてくださいね」

 シャリィが行った場所は、針子の部屋だったらしい。新しい布と、針を手に持っていた。あの侍女が針を持って笑っている。怖い。

「そんなに深くないからすぐとれますよ」

 手を引こうとしたけれど、逃げるまもなく捕まれる。

「…………!!」

 何をされると身構えるが、シャリィはちょちょっとなんだか楽しげにすら見える表情で針をいじくる。あれだけ不器用な侍女が、痛みを感じるまもなくあっという間にとげを抜いてしまった。

「……上手いわね、貴女」

「えへへ」

 日頃の失敗が嘘かのようにシャリィは手際よくとげを取り除いてしまった。ぷっくりと膨らんだ血を丁寧に拭いながらシャリィは言う。

「木登りでもなさってたんですか?」

「…………」

 木登りは得意だ。だが一国の姫に聞くことではない。そうだと返事する姫君がいると思うのだろうか。するけれども。

「……そうだと言ったら、どうなの?」

 薄い笑いを浮かべながら言う。自分に味方は少ない。もっと媚びればよいとはわかっている。社交的に振る舞い、外見をもっと利用して要領良く立ち回れば少しは味方も増えるだろう。それを拒む無駄なプライドの高さを、けれど失いたくないのだ。

 そして、今もこの侍女を試そうとしている。王家にあるまじき振る舞いを行う姫君に対して、どう反応するのか。

 ……今の私がその場にいたら、絶対にアドバイスしてあげたことだろう。そんな無駄な質問をするんじゃない、と。

 シャリィはその質問に、二度パシパシと目を瞬きさせたあと、その表情のまま首だけ傾けた。

「え、どうなのって、別に」



 どうでも。



 少女は戸惑ったまま、ばっさりと切り捨てた。

「ちょ……!!」

 瞬間的に頭に血が上ったことをよく覚えている。

「あ、あなたねぇ!」

「え? は、はい」

「あなた私に仕えてるんでしょ……!」

「あ、はい。……ええと、私何か失礼なこと言いました……?」

 怒っている理由が本当にわからないようで、戸惑ったようにシャリィは尋ねる。

「仮にも仕えてる相手からの質問にどうでもいいって、どういうつもりよ……!!」

「え! え、だって、でも……!!」

 後で聞いたとき、怒られた理由はわかっても、それが怒られた理由になることが理解できなかったとシャリィは言っていた。だから、ドジだけれど誠実なこの侍女は一生懸命理由を話してくれた。

「できることが多いっていうのは悪いことじゃないですよね。でも、だからってお姫様が木登りできないからって困ることってそんなに無いでしょ? ……ないですよね。だから別にできてもでき無くってもどうでもいいんじゃないですか」

「そういう問題じゃないの……! 一国の姫が木登りしてるなんてはしたないと思わないの?」

「そういうのあまり詳しくなくて……」

 手を髪にやりながら、申し訳なさそうにシャリィは言う。気を遣う場所を間違えている。

「そういうものなの! 良家の子女はもっと優雅に音楽をたしなんだり、刺繍を嗜んだりしてるものなのよ」

「へぇ。姫様もそういうのをしてたりするんですか?」

「私は嫌いなの、そういうの!!」

「あ、そうなんですか?」

「ちまちま細かいことするのいやなのよ。面倒くさいじゃない!」

「あ、はい! 私もです。私、手先が不器用で……」

「待って、貴女と同レベルにしないで! 流石に貴女よりはましよ、私! ……なんで、そこで不服そうな顔をするのよ!」

「だって、姫様、私が刺繍してるところとか見たこと無いじゃないですか」

「見なくてもわかるわよ! 私、あんな苦い紅茶を入れられたの初めてよ!」

 白い陶器のカップに注がれたそれは、明らかに黒く濁りきっていた。

「嫌がらせかと思ったわ……!!」

「だってもったいないじゃないですか。まだ色出るのに」

「そう言うところを競う飲み物じゃないでしょ!」

「で、姫様は結局木登りできるんですか?」

「急に話を戻さないで……!!」

 自分の好きなように話を進める侍女にめまいがする。自分が主のはずなのに。怒ってやろうと思ったけれど、興味津々な目でこちらを見つめてくるので、面倒くさくなった。

「……登れるわよ、悪かったわね」

 ふてくされたように応えると、シャリィはそれは悪いことなのか?と目で語る。本当にわかりやすい娘だ。

「悪いことなのよ。貴族のお姫様が木登りなんて、ね」

 すっかり血の止まった手のひらを眺めた。

 はしたない。情けない。

 そんな台詞なら散々言われた。今更それぐらいじゃ傷つきもしない。

「それで、木登りしてトゲ刺しちゃったんですね」

「違うわ、登ってないわよ」

「え?」

 納得しかけたところを否定してやる。混乱している様子がありありとわかった。

「……剣の素振り、してたの」

「あ、木刀だったんですね。だったら、持ち手なにか布とか巻いた方がいいかもしれませんね」

「そんなたいそうな物じゃないわ。ただの木の枝よ」

「え? 姫様なのに、そういうので訓練してるんですか?」

 どうもこの娘の突っ込みどころはずれている。ちょっと疲れる。

「別に訓練じゃないわ。ただ、真似しただけよ」

「真似? 誰のです?」

「……ネルヴィス」

「……って誰でしたっけ?」

「ねぇ、貴女本気で私に仕える気あるの……!?」

 話が進まない。

「私の義弟よ、新しい母親の息子」

「あ、あぁ!! はい、知ってます知ってます」

 褒めて欲しげに目を輝かせたが、当たり前だ。

「そのネルヴィスが剣の訓練を始めたのよ。だから……」

 だから、何だというのだろうか。次の言葉をつなげなくて戸惑う。

「へぇ。ネルヴィス様偉いですねぇ」

 目の前の侍女がなんだか脳天気な感想を言ってて腹が立つ。そもそもなんでこの娘にこんな話をしているのか自分でもよくわからない。

「別に偉いって訳じゃないでしょ。あの子は王子だもの」

 国を負うべき者として育てられるべく生まれた命。軍事にも精通していなければいけない。

「姫様も剣を習ってるのですか?」

「わ、私は……」

 突かれたくない場所を聞いてくる娘だ。この話を打ち切ってしまいたいけれど、シャリィの悪気のない顔を見ていると、それは自分がただのわがままを言っているように思えてしまう。

「……兵法は修めてるわ。護身術程度ならできる。けど、私のために作られた軽い模擬刀だけ。あれじゃ本当に戦えやしないわ」

「姫様は、それを負い目を感じてるんですか?」

 本当にいやなことを聞く。シャリィは気づかないふりをしてくれる大人じゃない。純粋で、だからこそ残酷だ。

「別に剣が習いたいわけじゃないのよ」

 身体を動かすのは好きだ。けれど人を傷つけるための術を手に入れたい訳じゃない。

「……本当に私が王位に就くなら、戦わなきゃいけない。そのための準備だって、確実に進んでるの」

 リッターは少しずつ国政に関わるような仕事を取ってきては第一王女の名前を売り込もうとしている。遊撃隊という名目で、実働部隊も作った。

 この国のことなら愛している。心から愛している。この国をよりよくできる立場に生まれた幸運に感謝している。王位に執着するつもりはないけれど、そこに立つことが一番効率的に民に利益を還元することができる方法なのだろう。

 でも、そこに立つために、排除しなければならない者がいる。この国で、唯一同じ血をひく存在と、自分は争わなければならない。話し合いで上手くいけばいい。けれどリッターも、遊撃隊の隊長に抜擢したゲイルも、そんなに上手くいくわけがないと思っている。

「私が王位に就くためにね。武力を使わなければならないことがあるかもしれないのよ」

 もちろん避けられるものなら避けたい。それはネルヴィス側の陣営とて同じことだろう。けれど、実際に争わせることはないにしても、争うのは不利だと思わせるだけの力を手に入れておかなければならない。もしかしたら何らかの実績を作らせるために、戦争をさせなければならないのかもしれない。

「私の命令で、兵に誰かの家族を殺させるかもしれない。なのにね」

 手のひらを見る。柔い手のひら。こんな手じゃ、誰も守れない。



「私の手だけ綺麗なままでいいのかな」




 シャリィはしばし黙った後、小さく呟き始めた。

「えっと、私はですね」

 そういって自分の手のひらを広げて見せた。

「結構色々な仕事してきたので、ちょっと荒れてるんですよね」

 触ってみてくださいと言われて手を伸ばす。指の付け根に触ると、そこの皮だけ厚くなっていた。

「姫様の手は白くてすべすべしてますよね。私の方が多分色々できる手だと思います」

 彼女の手の上に置いてしまうと、自分の手は人形めいていて、無力さを感じる。

「でも、だからって、姫様が私より怠けているって訳じゃないでしょう? 姫様は私よりずっと頭がよくて、難しいことを知ってて、ダンスとかもきっと上手で、字も上手くて……」

 シャリィは乗せられていた手を握り返しながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。


「この手で、姫様は戦っていらっしゃる。生きていくために人を傷つけるのって別に難しいことじゃないから、お給金しっかり払えばみんな戦いますけど、でも」

 シャリィは朗らかに笑う。


「尊敬する人のために戦う集団は怖いです。理屈じゃなくなるから。だから本当に兵とともに汚れる覚悟があるのなら、そういう人であり続けるって言うのも戦い方の一つだと私は思います」

 怖いほどあどけなく。


「自分も剣で戦って苦しんでるからと贖罪を願っても誰も得しませんから」

 彼女は、心の中で自分が望んでいた行為を断罪した。



「……部屋に戻るわ」

「え? あ、はい」

「先生、まだいるかしら」

「呼んできます。大丈夫ですよ。先に行ってますね」

 侍女らしからぬ素早い走りであっという間に姿が見えなくなる。

 アルシェは立ち上がって、引いてもらったハンカチを見る。

「……変な子」

――「よくわからないですが、なんだか面白そうなので」

「確かによくわからないわ」

 思わず吹き出した。でも、確かに面白い。



「悪くないじゃない」



 ハンカチを丁寧にたたんで、アルシェは怒っているであろう教師の待つ部屋へと歩き出した。

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