第5話 イブリス国のお姫様
多分、自分はこの世界で五,六番目に不運な姫君だと思う。
イブリス国のお姫様
イブリス王国、それは大陸の東端に位置する小さな国である。気候は温暖、住む人々の性質も穏和ながらも、立地条件がよくないせいか今ひとつ垢抜けぬ国というのが世間一般の認識だった。
「……ホント、なんて特徴の無い国なのかしら」
そして、何を隠そう、アルシェはイブリス王国の王女だ。
アルシェはリッターの机の上に置いてあった書類をぺらぺらと捲って呆れたように呟いた。
その書類は出来上がったばかりの今年の作物の取れ高や工業の生産量などをまとめたレポートだった。
「バラバラにするなよ。この後分析して陛下に提出しなきゃいけないんだから」
「それ、絶対私のお目付役の仕事じゃないわよね……」
リッターの机の上は自分の椅子のような物だ。アルシェはいつものように、そこに腰掛けて足をぶらぶらさせてつまらなそうに紙を捲っていった。リッターは顔も上げずに、それとはまた別の書類を仕上げながらぞんざいな口ぶりで言う。
「見張ってると怒るでしょう、姫様は」
「最近その見張りもさぼってるみたいだけど?」
ここの所、リッターはアルシェの父たる国王に呼び出されることが多く、本業たるアルシェの世話が疎かになりがちだった。
「シャリィがよく見張ってくれてますからね。いい侍女採用したもんです、私も」
その言葉にアルシェは苦虫を噛みつぶしたような顔になる。あの侍女が入ってきたからというもの、リッターがいない時の逃亡成功率が著しく下がってしまった。
「陛下もお喜びですよ。中々上手くやってるようですし。……姫様、その書類返してください」
「……リッター、あんた絶対敬意払ってないわよね、私に」
書類を渡しながらぶすっと言う。
「そんなことあるわけ無いじゃないですか」
リッターは片手でそれを受け取り、もう片方の手でもう冷め切ったお茶を飲みながらさらっといった。
「それに構わないでしょ。どうやら婚約者のようなんだし」
「ちっ……」
一気に少女の顔が赤く火照る。
「ちっがぁう~~~!! そんな約束してなぁい……!!!」
「おやおや、あなたから求婚したくせに」
「十の時の過ちを、一々蒸し返さないでぇ……!!」
アルシェは過去の自分を本当に殴り倒したいと、心の底から思った。
出会って、ちょっと不覚にもこの男に懐いてしまって、そして、その時はなんかそう言うことに興味のある年頃だったのだ。
――「私、リッターのお嫁さんになってあげる」
人間過去には戻れない。一度発してしまった発言は無かったことにすることが出来ない。それを身に教え込ませたその台詞は、今でもリッターにいいように使われて、都合が悪くなるとそれでからかってかわされる羽目になる。本当に、なんであんな事言ってしまったのか。
「夫にするなら金持ちよ」
「権力は?」
「私そこそこ持ってるわ!」
「あぁ、金はないって自覚あるんですね」
「あんたが、世知辛い報告書ばっか突きつけてくるからでしょう!!」
現実を見ないで暮らしていけるならそれに越したことはないのだが、金のないこの国は子宝にも恵まれず、自分とまだ幼い弟しか直系の子どもがおらず、自分が王位継承権の第一位を保有している。基本的に王子が王位を継ぐことが多い国で、自分は継承権を放棄する事もあるのかもしれない。自分よりふさわしい人間がいるのならそちらが継ぐ方が国のためだろう。だが、まだ十歳の弟がどんな王子になるか分らず、自分がこのまま王位を継ぐ可能性は低くない。サロンで女性貴族をあしらう手管ばっかり鍛えているわけにはいかないのだ。
「それで、未来の女王的に、その報告書への感想はどんなものですか?」
背もたれに身体を大きく肘掛けに頬杖をつく。偉そうな態度とは反対にちょっと教師の口ぶりだったから、アルシェは暫し真面目に考えた。
「……平凡な国」
率直な感想にリッターは小さく眉を上げる。それは怒ってるわけでも呆れてるわけでもなく、続きを促すときの癖だと知っているアルシェは言葉を続ける。
「そこそこ温暖で、年間を通して寒暖の差が激しくないけど、豊かな大地とは言い難いから、作物の取れ高はそこそこ。餓死するような貧しい街はそれほど無いけど、代わりに国を発展させてくれるような特産物は取れない」
壁に掛けてある大雑把な地図を見上げる。
「工業も生活に不自由が生じるほど低くはないけど、場所が悪い。うちの国がある半島と、技術が盛んな大国の間には山脈があって交通の便が悪いから、新しい技術が入って来にくい。貿易もしにくい。鉱脈はそれなりに豊かだけど、外国へ流出は制限をかけておかないと本国の需要に応じられなくなる」
言っててちょっと悲しくなってきてしまった。自分は一国の姫だというのに、認識したくない情報ばかり入ってくる。おとぎ話の姫様は経済の話をどうやらしないようなのに。
「繁栄の要因も失墜の要因も見つけられない。この国を征服する旨みが無いことだけが救いよね」
「随分淡泊なことをおっしゃりますね。姫様にとって、この国の美点とは?」
リッターが若干楽しそうになって来たことに気づかずアルシェは答える。
「……治安の良さ?」
もちろん犯罪が絶えるわけではないが、それでも比較的この国の貧富の差は小さく貧民層は薄い。
「平均が低いだけでしょう」
「それでも住人は安心して暮らしているわ」
アルシェはよく城を抜け出して街の様子を見回っている。決して贅沢はできないが、それでも住民達の顔は穏やかだ。基本的に満たされている。
「数十年大きな飢饉に見舞われたことも、国外から攻め込まれたこともない。それは十分誇るに足りることでしょ?」
「だが、その分、国民の危機意識の低下は著しいとは思いませんか? 今はまだいい、聡明たる陛下がこの国を治めていらっしゃる。まぁ、アルシェ様もそれなりにやってのけると私は信じていますが……」
それなりって何よとアルシェに睨まれるが、リッターは続ける。
「ですが、その後は? 五十年後、百年後はどうなります? 危機意識が低下したところを攻め込まれたら、この国は脆くろくな反抗も出来ないでしょう」
「百年後も先の事なんて、心配してもしょうがないでしょ」
下らないと吐き捨てるようにアルシェは切り捨てた。
「アルシェ様。それは王族に連なる発言としては不適切と思いませんか?」
抑えた声でリッターは言う。だが、アルシェはそのリッターの言葉も傲然と切り捨てた。
「思わない」
堂々と、誇り高く。
「私たちがしなきゃならないのは、百年後を案じることじゃない。するべきは、百年後、その時生きる者達がその事態を切り抜けるだけの才覚がもてるよう、今、しっかりと教育の基盤を整えて体制を作り上げる事よ」
違う?
アルシェは迷いのない声でリッターに尋ねる。
「…………」
出会った時、少女は本当にお姫様だった。傅かれるのが当然で、傲慢な振る舞いをしている自分に気づきもしないような、幼稚な娘だった。
自分が教育係になってからましにはなったものの、基本的な所で気まぐれだし我が儘だしすぐ逃げ出すし、いつまで経っても手を焼かせるお嬢様だ。
その少女が、国を語った。
「……何よ」
無言のリッターに不安になったのかアルシェがちょっと気まずげに言う。
「リッター? あ、あんたがそう言うこと教えてきたんでしょ?」
自分の返答がまずかったのかと焦り始めるアルシェにふと表情が緩む。
「……いや」
少女の成長を一番間近で見たのは自分だと思っていたけれど、一番見えていないのも自分なのかもしれない。
「私たち、ね」
照れ隠しに薄く笑ってみせる。
「俺をひとくくりに入れてくれて嬉しいよ、アルシェ」
馬鹿じゃないのと怒る姿は、年相応に見えて、その触れると溶けてしまいそうな金の髪に指を絡ませた。
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