第66話 そして、彼の出した結論は

 コンビニで鮭おにぎりとアイスを買って、俺は玲のいる205号室へと向かった。京太郎は一緒に行くと言っていたが、まだ気持ちの整理がついていなかった俺はその申し出を断った。


 今まで意識していなかった物がやたらと目に入って来る。ところどころにコーヒーの染みやらタバコの焦げ跡やらがついた臙脂えんじ色のカーペット。ずいぶん長いことラインナップが変わっていないであろう古びた自販機。壁に飾られた謎の絵画。部屋へ向かうために登った少し急な階段が、やけに長く感じる。

 ようやく部屋の前に辿り着いた俺は、ドアの前で深呼吸をして、ゆっくりと2回ノックした。


「朔だけど、入っても大丈夫?」


 中で何やらゴソゴソ音がしたかと思うと、勢いよく開いたドアが俺の額を直撃した。


「あぶしッ!」


「あぁ! すいません! だ、大丈夫ですか……?」


 不意打ちに悶絶する俺に、おどおどと声を掛けてきたのは真菜ちゃんだった。


「あ、あぁ……大丈夫。一応」


「ホントすいません。ホントすいません」


「大丈夫だから。ビックリしたけど」


 平謝りの真菜ちゃんを責める気にはならない。そのふわふわボディに負けず劣らずの天然ぶりは、既に周知されている。


「玲、中にいる?」


「あ、はい。ちょっと前までベッドで横になってたんですけど、今は起きて元気いっぱいですよ」


「なら良かった。簡単に食べられそうなもの買ってきたんだけど、部屋入ってもいいかな」


「大丈夫です。あの、でもその前にちょっとお話があるんですけど」


「話?」


 真菜ちゃんは後ろ手で静かにドアを閉めて、小さな声で話し始めた。


「玲ちゃん、さっきからすごい元気なんです。不自然なくらいに。詳しいことはわからないんですけど、多分無理してると思います。だから……」


「そっか……うん、ありがとう」


「いえ、玲ちゃんをよろしくお願いします」


 1階に降りていく真菜ちゃんを見送って、改めてドアの前に立つ。そして、意を決してノブを回した。


「玲、おにぎりとアイス買ってきたよ。食べれそう?」


 返事が無い。その代わり、部屋の奥からクックックと笑いを堪えているような声が聞こえてくる。


「玲?」


「ごめんなさい。さっきの朔さんのリアクションが面白くって。あぶしッ! って」


 ベッドの上で丸まっていた玲は、目に涙を浮かべながら振り返った。よほどツボに入ったらしい。


「あれはしょうがないだろ……それより、体調はもう大丈夫なの?」


「はい。さっきはすいませんでした」


「いや、驚いたよ。マジで」


「多分私が一番驚きましたよ。あんな風になったの初めてだったんで」


「琴さんに感謝しないとな。あと京太郎にも」


「そうですね。本当に」


 俺は部屋にあった椅子に腰かけて、コンビニのビニール袋を差し出した。


「食べる?」


「いただきます!」


 袋を受け取った玲は、鮭おにぎりをあっという間に平らげた。


「朔さん」


「ん?」


「ありがとうございました」


「俺は何もしてないよ」


「そんなことないです。今もここにいてくれています」


 玲はアイスを手に取ったまま一瞬だけ俯いて、無言でこちらを見つめてきた。


「ごめんな、玲」


「何で朔さんが謝るんですか?」


「……あの書き込み、俺が玲をバンドに誘ったせいなのかなって……」


 それを聞いた玲は、カップアイスの蓋を開けると、大きく口を開いて一口頬張った。


「琴さんたちは、これはチャンスなんだって言ってたけど、言ってることはわかるんだけど……」


「朔さん」


 また俯いて、玲は俺の方を見ずに言う。


「ちょっと甘えても良いですか」


「え?」


 そのまま俺の胸に頭を預けてきた。そして、大きく息を吸い込んだ。


「あ~~~~~~もう! 何なのマジで! まともにテニスもしないで飲み会ばっかりのくせに! ビッチはどっちだよ! むかつく! むかつく! むかつく! あ~~~~~~!!!」


 吠えるように一気に言葉を吐き出した玲は、今度は俺の背中に手を回して思いっきり力を込めた。


「あだだだだだ」


 俺が発する苦悶の声をものともせず、玲は力を込め続ける。そのまま20秒ほどたっただろうか。疲れたのか、玲は腕をだらんと下ろして、頭以外の体重も全て俺に預けてきた。


「……朔さん」


「こ、今度は何?」


「何で朔さんが誘ったせい、なんて言うんですか」


 玲が言わんとしていることはすぐにわかった。俺だってさっきのは失言だと思っていたんだ。


「私、歌うことが好きです。cream eyesもサラダボウルも大好きです。あの時、朔さんの誘いを受けたことに後悔なんてありません」


「うん」


「俺がバンドに誘ったから、なんて、私の大切な気持ちまで否定しないでください」


「うん」


「朔さん」


「うん」


「朔……さん」


「わかってる」


「……朔さぁああん。うわぁあああん」


 玲は大粒の涙を流しながら、赤ん坊の様に泣き出した。玲の頭を撫でながら、恐る恐るその華奢な肩を抱きしめると、小さな震えが伝わってくる。誰よりも、俺なんかよりも、玲はよっぽど悔しかったのだ。

 自分の努力を知らない人間に、いい加減な陰口を言われたことが。本質を見ようともせず、無責任に放たれた言葉で傷つけられたことが。それに傷ついてしまった自分が。そして何より、無関係な内容で大切なバンドまで貶められたことが悔しかったのだ。


「あぁ。そうだよな。むかつくよな。俺は絶対にあいつらを許さない。絶対に玲の歌を、俺たちの音楽を認めさせてやる。そのためなら、何だってやってやる」


「あいつらぶっ飛ばしたいです」


「それはダメ」


 玲は俺に預けていた体をガバッと起こした。


「今何だってやるって言った!」


 そして、泣いて真っ赤になった顔のまま、今度は笑い始めた。


「暴力はダメだろ」


 俺も笑っていた。嬉しくてたまらなかった。


 玲が俺以上に悔しがってくれたことが嬉しかったし、そこから跳ね返る強さを持っていたことが嬉しかった。きっと、玲だってこんな経験は初めてだったはずだ。見えないところから石を投げられるという行為が、どれほど理不尽で悲しいことなのか、俺にはまだ想像することしかできない。玲は確かに傷ついていた。辛かったと思う。


 それでも、玲は立ち上がった。


 俺の気持ちが間違っていないと思わせてくれたことが、ただひたすらに嬉しかったのだ。


「俺さ、琴さんも京太郎も何であんなに冷静なんだろうって、今の状況をチャンスだなんて言ってさ、なんかイライラしてたんだ。でも、その通りなんだよな。この気持ちを晴らすには、このチャンスを掴んでやることが一番なんだ。二人はこのことにすぐに気が付いていただけで、きっと同じように悔しかったんだろうな。俺らより大人だったんだ」


「私たち、子供ですね」


「だな」


「あ~、でも子供なんでやっぱむかつきます! 今から一緒に、これから一緒に殴りに行こうか!」


「玲、おまえ何歳いくつ?」


 俺たちはまた笑いあった。


「俺たちはバンドをやってるんだ。音楽で黙らせてやろうよ。この状況を、きっちりチャンスに変えてさ」


 玲は無言で頷くと、真剣な顔でこちらを見つめてきた。


「ところで朔さん」


「何?」


「ひとつ抗議してもよろしいでしょうか」


「こ、抗議?」


 このタイミングで一体なんだ? もしかして、さっき頭を撫でたりしたことをセクハラだと言われてしまうのか?


「何でラクトアイスなんですか」


「は?」


「cream eyesのリーダーともあろうお方が、メンバーを慰めるために用意したものが乳固形分10%未満とは何事かと聞いてるんです! そこはアイスクリームじゃないんですか! ハーゲンが良かったです!」


 説明しよう。アイスと一口に言っても、その種類は大きく四つに分けられる。乳固形分が3%未満の「氷菓」、乳固形分3%以上10%未満の「ラクトアイス」、乳固形分10%以上かつ乳脂肪分3%以上の「アイスミルク」、そして乳固形分15%以上かつ乳脂肪分8%以上の「アイスクリーム」である。つまり、アイスクリームを名乗ることができるのは一部の選ばれし者だけなのだ。


 当然、今する話ではない。


「いや、ストロベリーチーズケーキが好きだったと思ったから。コンビニにはそれしか無かったんだよ。それ、安くないんだぞ?」


「濃度よりもフレーバーを優先したというわけですね! そういう訳なら良しです!」


「良いのかよ!」


「はい。えへへ。朔さん、私の好きな味を覚えててくれたんですね」


 玲は満足そうに少し溶けはじめたアイスを頬張った。笑ってはいるが、まだきっと無理をしている。傷ついた心はそう簡単に癒えるものじゃない。この先も傷が消えることは無いのかもしれない。

 前に進んで行けば、これからもきっとこういうことは起こるんだろう。だから、傷つくことを怖がっていたらこれ以上は進めない。それでも、玲が笑って前に進もうと思ってくれているなら、俺も笑ってそれを支えてあげたいと思う。一緒に傷つくことも、俺のやるべきことなんだ。俺のやりたいことなんだ。


「俺、ドMにならなきゃな」


「え!?」

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