第63話 The bigining of the changing

 合宿二日目。


 午前8時に食堂に用意された朝食は、トーストとハムエッグにサラダとスープだった。簡素だが、大学生の一人暮らしの身分からすると、久しぶりのしっかりとした献立だ。京太郎を含めまだ起きてこない人も多いが、おそらくそういう人たちは朝食を抜くのだろう。


「朔さん、琴さん、ちょっといいですか?」


 寝癖だらけの頭でパンに齧りついていると、ジャージ姿の玲がにこにこ顔で声を掛けてきた。


「どないしたん」


 琴さんは持っていたプレートを俺の向かいの席に置いて腰を下ろした。さすがモデルと言うべきか、すでに着替えもメイクも済ませてきているようで、朝イチなのに隙が無い。


「これ見てください」


 差し出されたスマートホンの画面を覗き込むと、先日の渋谷SHAKERでのライブ写真が表示されていた。


「おぉ、めっちゃ良く撮れてる」


「ほんまやねぇ。ええ写真や」


「ですよねですよね?」


 玲は画面をスワイプしながら、何枚かの写真を見せてくれた。各メンバーの写真に加え、ステージ全体を写したものもあった。そのどれもがとても綺麗な写りで、素人目に見ても撮影者の腕が確かなことがわかる。特に玲の写真なんか、所謂「奇跡の一枚」と言えるほど美少女に見える。いや、もともと玲はけっこう可愛いのだが。


「これ、誰が撮ったの?」


「この前ライブに来てたお客さんが撮ってくれてたみたいです。これも見てください」


 次に玲が見せてきたのは、SNSの画面だった。cream eyesとして登録し、主に玲が管理しているアカウントに、写真の撮影者からメッセージが届いているようだ。


「えっと、どれどれ」


 俺はメッセージの内容を読み上げた。


「初めまして! 趣味でバンドの写真を撮っているtakuと申します。先日のシェイカーでのライブを見て、一発でcream eyesのファンになりました! そして勝手かとも思いつつ、勢い余って写真を撮ってしまいました……もしよろしければ、撮影した写真を私のアカウントで投稿したいのですが、いかがでしょうか? ダメなら画像データも削除します! ちなみに撮影した写真はこんな感じです」


 メッセージの後には、先ほど玲が見せてくれた写真が添付されていた。


「ファンになりました! ってストレートだけど嬉しいな」


「ですよね~、私も嬉しかったです。で、写真の投稿の件なんですけど」


「ちゃんと事前に確認取ってくれてるし、悪い人じゃなさそうだね。バンドの宣伝にもなるだろうから、別に許可して良いんじゃないかな。琴さんはどう思います?」


「ええんちゃう? これがヘタクソな写真やったらあれやけど、良い感じに撮ってくれてるみたいやし」


「師匠にも確認した方が良いですかね?」


「あんま気にせんとは思うけど、見つけたら一応聞いとこか」


「了解です」


 朝食を食べ終え、俺は先ほどのtakuと名乗る人物のアカウントを覗いてみた。趣味というだけあって、そこにはたくさんのライブ写真が投稿されており、そのどれもがクオリティの高いものばかりだった。特に目当てのバンドを決めずに、ライブハウスに頻繁に通っている人の様だ。きっと根っからライブハウスが好きなんだろう。

 写真と一緒に投稿されている文も、撮影したバンドに対する好意的なものばかりで読んでいてストレスを感じない。フレンドの数も3,000人を超えている。その界隈ではそこそこ有名人らしい。


「こんな人に目をつけられるなんて、めっちゃラッキーじゃん」


 11時過ぎにようやく起きてきた京太郎は、taku氏のアカウントを見てそう言った。


「で、写真を投稿するのはオッケー?」


「オッケーオッケー問題無いね。何故なら俺がイケメンに見えるから。女性ファン増えちゃうかもな~」


「今の発言、録音させてもらいました」


「なん……だと……?」


「帰ったらみはるんに聞かせてみよう」


「待って。マジで待って。後生だから。何でもするから」


「じゃ、京太郎のオッケーも取れたって玲に伝えとくわ」


「だから待って」


 追いすがる京太郎を振り切って、俺は寝泊まりしている部屋がある2階から1階へと降りる。階段を降りたあたりには皆が集まれる休憩スペースのような場所があり、そこにある大型のテレビで誰かが持ち込んだ映画の鑑賞会が行われていた。上映されているのはジャパニメーションの金字塔、「もの○け姫」だ。玲もそこに混じってそれを観ていた。


「もの○け姫か。30回は観たな」


 俺は歴戦の兵の雰囲気を醸し出しながら、低い声で玲に告げた。


「私も負けませんよ」


 意外にも玲から好戦的な言葉が返ってきた。こうされては、もうバトルしかない。


「ほほう……ならアレ、やるかい?」


「アレ?」


「どっちが多く次の台詞を言えるか勝負」


 玲は不敵な笑みを浮かべていた。


「いいですよ。負けた方はジュース奢りで良いですか?」


「あぁ、オッケーだ。それじゃ、次のシーンからスタートするぞ」


 こうして、俺と玲のガチンコ対決が始まった。そう言えば、ここに来た当初の目的は何だったっけか。


「この水をゆっくりかけておやり」


「鬼だ……」


「雅な椀だな」


「決して火薬を濡らすな」


 一進一退の攻防。


「やるじゃないか」


「朔さんこそ」


 思った以上に玲ができるので、俺は嬉しくなっていた。だが、その戦いは唐突に終わりを告げる。


「ちょっとお前ら」


 四年生の宏樹さんの手で、俺と玲は休憩スペースからつまみ出されてしまったのだ。


「私たち普通に迷惑でしたね」


「じっくり観たい人もいるからね。仕方ないね」


「そう言えば、師匠は起きましたか?」


「あぁ。写真の件もオッケーだってさ」


「良かった。それじゃあtakuさんに返信しときますね」


 玲はtaku氏に写真を送ってくれた謝辞と共に、投稿を許可するメッセージを送った。そしてそのすぐ後、taku氏のアカウントでライブ写真を添付した書き込みが投稿された。その内容はこうだ。


「先日渋谷のSHAKERで初めて見たcream eyesというバンドです。楽曲ももちろん素晴らしかったんですが、ボーカルとドラムの女の子二人がすごく可愛くてそこも推せます! 次のライブは9月に下北沢SILVETなんで皆さん是非!」


 曲よりも女子二人のビジュアルに寄った内容な気がして一瞬モヤッとしたが、好意的な投稿な上に次のライブの告知までしてくれていたので、特にそれ以上気にしなかった。玲はその投稿をすぐに自分のアカウントでもシェアしていた。


「俺はこの後メシ食ったら秀司たちとスタジオ入るから」


 食堂からは既に食欲をそそる匂いが漂ってきていた。この刺激的な香り、間違いない。カレーだ。


「朔さん」


「ん?」


「今日の夜、cream eyesでもスタジオ入りませんか?」


「いいよ。琴さんと京太郎にも予定聞いてみよう」


「実は、昨日の夜にギター弾いてたらいい感じのフレーズが思い浮かびまして。本当はすぐにでもバンドで合わせてみたいんですけど」


「玲が作った曲? そりゃ楽しみだ!」


 プロのミュージシャンでも、曲作りの際に環境を変えるという人は多いらしい。今ここでしか作れない曲が生まれるなら、それはきっと素晴らしいものになる予感がした。


「朔、その白Tシャツお気に入りの奴じゃなかったっけ?」


 食堂に入ると、ケンさんが俺の着ていたJJDのバンドTシャツを見て、心配そうに声を掛けてきた。


「めっちゃ気に入ってます。でもそれがどうかしたんですか?」


「今日の昼食のメニューがなんだかわかる? 悪いことは言わないから、お気に入りなら着替えた方が良いぞ」


「この匂い、カレーですよね? 朝着替えたばっかりだし、汗もかいてないし、面倒だからこのままで良いっすよ」


「そっか。まぁ、忠告はしたから」


 ケンさんの態度を不審に思いながらも、俺はそのまま別のサークル会員と話をしながら昼食が運ばれてくるのを待っていた。そして運ばれてきた料理を見て、ケンさんの忠告の意味を理解した。


「カレー……うどん……」


 それは白いTシャツにとって天敵、いや一方的な殺戮者だ。汁が跳ねないように食することは不可能であり、かつ一度服に着いたカレー染みは二度と落ちることは無い。


「……慎重にお願いします」


 俺は周りの人たちに配慮を求めたが、無駄であった。お気に入りのTシャツは茶色の汁に蹂躙され、見るも無残な有様となってしまった。


「しゃあないなぁ。ほら、はよ脱ぎ」


 落ち込む俺に声を掛けたのは琴さんだった。


「はい……」


「どこ行くんよ。ええからはよここで脱ぎ」


 部屋に戻って着替えようとした俺を、琴さんは強引に引き止めた。


「ちょちょちょ」


 海でもないのに、女子もいるこの場で裸体を晒すことは恥ずかしく思え、俺は抵抗した。


「昨日あんだけ晒しものにされといて、今更何を恥ずかしがっとんのや」


「そういう問題では……ひゃん!」


 抵抗の甲斐なく、琴さんは羅生門の下人が如く俺のTシャツを剥ぎ取った。俺は乙女の様に胸を隠してその場にへたり込んだ。


「うぅ、あんまりだ……」


「おばちゃーん。ちょっと洗剤借りてええ?」


「好きに使っていいよ~」


 手際よくTシャツに台所用洗剤を塗り、置いてあったブラシで染みを擦る琴さん。すると、絶望的と思われたカレー染みがみるみる目立たなくなっていくではないか。


「おぉ、すごい!」


「こいつは処置するまでのスピードが大事なんよ。よし、あとは洗濯機で洗えば大体落ちるやろ」


「ありがとうございます! 琴さんって意外と家庭的なとこあるんですね」


「意外とは余計や」


「痛てぇ!」


 予定調和の突っ込みが入ると、食堂の皆からドッと笑いが起こった。俺は、心の底からこの時間が楽しくて、サラダボウルと言う居場所が大好きだと感じていた。

 レースカーテン越しに窓から差し込む光が、9月に入った今も夏の暑さを感じさせ、そこにエアコンの冷たい風が当たるのが心地よくて、ずっとこの合宿が続けば良いのにとさえ思った。

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