第56話 Walk this way
「あぁ~涼しい~」
ライブハウスの空調の風が一番当たる場所を陣取り、500mlのスポーツドリンクを一気飲みした。汗に冷風があたり、体温を奪っていく感覚が心地良い。ライブ前にこんな風に汗をかくという経験は初めてだった。
「お疲れさん。マジで全部配ってきたんだな」
京太郎が追加の飲み物を差し入れしてくれた。
「みはるんにあんな姿見せられたら、頑張らないわけにはいかんでしょ」
「勝手に動いたのは悪かったって。もうあんまりいじめないでくれ」
「あはは、別にもう怒っちゃいないよ」
みはるんは物販スペースで玲と琴さんと談笑していた。話している内容は聞こえないが、当初のぎこちない雰囲気は無くなり、三人の自然な笑顔がそこにはあった。
「俺ちょっと着替えて来るわ」
「了解」
控室に替えのTシャツを取りに行くと、BELLBOY'sのメンバーが集まって何やら話し込んでいた。
「お前何でそんな汗だくなの?」
俺の姿を見た晴馬の頭にクエスチョンマークが浮かんで見える。
「あぁ、ちょっと色々あって」
「まぁ何でもいいけどさ」
思い出したように興味なさげな表情を見せる晴馬。きっと今日は俺と慣れ合わないようにと思っているのだろう。だけど、本当は俺に聞きたいことがたくさんあるはずだ。晴馬は隠し事ができるタイプではないので、そのくらいはすぐにわかる。
「新しいベーシスト決まってたんだ。あれからライブは
「今日が2回目」
BELLBOY'sの新しいメンバーは、猫背の姿勢で椅子に座ったまま頭を下げた。長い前髪の奥にある表情は、やけに幼く見えた。
「
「ん? あぁ、そうだけど」
「……いや、何でもないです。すんません」
「お。おう」
気になる。絶対に何か言おうとしていたのに、それを途中で引っ込められると気になってしょうがないじゃないか。
「透は朔のベースラインがえらく気に入ってるみたいだよ」
「え?」
「ちょ、要さん……」
要が半笑いで放った台詞で、透くんの顔は真っ赤になっていた。あれ、かわいいぞ。
「なぁ、透くん? って、男だよな?」
晴馬にそっと耳打ちで尋ねる。
「は? 何言ってんだお前。見ればわかんだろ」
「だよな。うん。見ればわかる。見ればね。当たり前だ」
「お前、何かやばいハーブでもキメてんじゃないだろうな?」
「馬鹿なこと言うな。んなわけあるか」
「ま、たしかに朔はそんなもんに手を出せるほど肝が据わっちゃいないか」
「うるせー」
晴馬も要も笑っていた。だが、すぐに表情を元に戻した。やっぱり、今日はそういう風に接すると決めているようだ。
「新曲とかやんの?」
「教えない」
「なんだよケチ」
「お前は裏切り者だからな」
「まぁ、見てりゃわかることだけどさ」
「で、結局お前は何しに来たんだよ」
「そういえば着替えに来たんだった。って、別に控室はお前らだけのもんじゃないだろ。この後うちの女性陣も着替えに来ると思うから、そん時は部屋空けてくれよな」
「馬鹿か。そんなこと聞かされたら余計に出ていくわけにはいかないだろ」
「馬鹿はお前だ馬鹿。また一段と肥えやがって」
「うるせー裏切り者」
俺は大量の汗を吸ったTシャツを脱ぎ捨てて、バッグの中から着替えを取り出した。先日見に行ったJJDのライブで購入した、お気に入りのバンドTだ。上半身の裸体を晒すことに本来抵抗はないのだが、透くんに見られるのはなぜだか少し恥ずかしかった。少しだけ。
JJDのTシャツを目にした晴馬と要は何か言いたげだった。二人ともJJDの大ファンなのだから無理もない。だが、二人とも何も言わなかった。気まずい沈黙の中、俺は着替えを終えて二人に告げた。
「そんじゃ、ライブ楽しみにしてるから」
「ちゃんと見てろよ、裏切り者」
裏切り者。あの二人からすれば俺の存在はそうなんだろうし、それを否定するつもりも無い。それに、晴馬は軽口のつもりで言っているんだろうということもわかる。
それでも、裏切り者という響きは重たかった。
「ぷっ」
「ぷ?」
その場を立ち去ろうとしたその時、背後から何かが聞こえた。振り返ると、透くんが笑っているではないか。
「晴馬さんも要さんも、何でそんな素直じゃないんすか?」
「え?」
「おい、透」
「朔さんにガツンと言われて、目が覚めたって言ってたじゃないっすか。今度会ったらお礼が言いたいって」
「おい!」
一瞬、透くんが何を言っているのかわからなかった。だが、晴馬が慌てた様子で透くんの口を塞いだので、そこでようやく状況を理解した。要は観念したように困り顔で笑っていた。
「さっさと行けよ」
晴馬はバツが悪そうに、目を合わせずに言った。俺も思わず笑ってしまった。
「あぁ、また後で」
これで肩の荷が下りたとは思わない。俺が背負うべき責任はまだ先にあるのだから。二人へのケジメは、ちゃんと果たさなければならない。
それでも、気持ちは随分軽くなった。ありがとう、透くん。
「待ちくたびれたわ」
物販スペースで琴さんは大きなあくびをしていた。リラックスしすぎではなかろうか。
「私たちも着替えてきますね」
「あぁ、もし控室に三人組の男がいたら追い出して構わないから」
「? わかりました」
女性陣二人を見送って物販の椅子に腰かけると、控室の方向からBELLBOY'sの三人が出てくるのが見えた。あんなこと言っておいて、あっさり追い出されている晴馬がなんだかおかしかった。
「何笑ってんの」
飲み物を片手に、京太郎とみはるんが相席する。それと同時にライブハウス内にお客さんが入ってきた。開場の時間だ。
「ちょっとね」
「さっきベルボのメンバーと少し話したよ。何か、思ってたより普通だった。もっと険悪なのかと期待したのに」
「期待してんじゃねーよ」
「喧嘩別れしたって聞いてたから拍子抜けだよ」
「ついさっき裏切り者って言われたけどな」
「何それ詳しく」
茶化してくるのは、多分京太郎なりに気を使ってるんだろう。らしくないことをするものだ。いや、これが京太郎らしいのか。馬鹿だけど、何だかんだで情に厚いところがあるし。
「え、さっくん誰を裏切ったの?」
「さっくん……?」
「だって、朔くんって言いにくいんだもん」
「まぁ何でもいいけど」
「よくわかんないけど、裏切りはダメだよ。信じてた人に裏切られるって辛いんだよ?」
みはるんはいつになく真剣な表情だった。誰かに裏切られた経験があるのだろうか。
「そうだね」
「謝った?」
「いや」
「ダメじゃん!」
「結果的に裏切ったと言われても仕方ないけど、俺は正しいことをしたと思っているから。謝ったりする方があいつらに失礼になるんだよ」
「は? 馬鹿じゃないの?」
「え?」
いきなり強い口調で罵倒されたので何事かと思ったが、みはるんの顔は変わらず真剣だった。こちらを非難する意図は感じられない。
「みはるん、朔にも事情が」
「京くんは黙ってて」
「はい」
「あのね、そういう男のプライドみたいなのに拘ってたら、直せる関係もこじれるだけなんだよ? 詳しい事情は知らないけど、さっくんはあの人たちを傷つけたんでしょ? だったらパッと謝って仲直りしなきゃダメだよ。さっくんはあの人たちとずっと喧嘩したままでいいの?」
怒涛の勢いでまくし立てられて、俺は面食らってしまった。
「いや、ずっとこのままってのは……」
「でしょ? 仲直りしたいんでしょ? じゃあ謝ってきなよ。今すぐ」
「え、今?」
「今!」
みはるんは非常にシンプルな思考回路を持っているようだ。決して馬鹿にしているわけではなく、それは羨ましくも思えた。京太郎が彼女を選んだ理由がわかる気がする。
俺は、BELLBOY'sを辞めたことを後悔していない。間違ったことだとも思っていない。それを証明するために、今のバンドで、cream eyesで成功することが晴馬と要に対するケジメだと思っていた。でもそれは、みはるんに言わせれば「つまらないプライド」でしかないのだろう。いや、もしかしたら第三者から見れば誰でもそう思うのかもしれない。
「謝ったら、あいつら許してくれるかな」
「友だちなんでしょ? なら許してくれるよ」
友だちなんだから、相手を傷つけてしまったら謝る。謝られた方は、その誠意を受け入れて相手を許す。ただそれだけのこと。小学生でもわかることを、
「何か俺、馬鹿みたいじゃん」
「だからさっき言ったじゃん。馬鹿じゃないの、って」
「あはは、そういやそうだった」
晴馬と要と友だちのままでいたい。今までみたいに、ファミレスのドリンクバーで粘りながら好きな音楽のことを語り合いたい。誰かの家で夜通しテレビゲームをしたい。それは、cream eyesの活動に何か支障をきたすことだろうか。メンバーの誰かが否定することだろうか。
「俺、二人に謝って来るわ」
「それがいいよ。絶対」
「ありがとう、みはるん」
「私は京くんの彼女だからね」
「惚れてねーわ」
BELLBOY'sの面々は物販スペースとは対角線上の壁際に寄りかかっていた。本日三度目の接触に、晴馬は少し呆れた顔を見せた。
「今度は何の用だよ」
「やっぱりライブ前に話しておこうと思って」
俺は頭を下げて、これまでのことを謝罪した。バンドを抜けるという結論ありきで話し合いの場所を設けたこと。玲と出会った時の感情と衝動を黙っていたこと。そして何より、二人を傷つけたことを。
晴馬は黙って話を聞いていた。謝罪が終わった後も、何も言わなかった。否定も拒絶もしなかった。
要は「ありがとう」と言った。こっちこそ謝らなきゃいけなかったのに、と。
元通りになるにはまだ時間がかかるんだと思う。もしかしたら、昔と同じ関係にはもう戻れないのかもしれない。
それでも、俺の中で止まっていた何かが、また動き出したのを確かに感じた。
「朔さーん」
着替えを終えた玲と琴さんがフロアに戻ってきた。ニコニコと手を振る玲に応え、俺はまた物販スペースへと戻る。今はここが俺の居場所だと、改めて自分の立ち位置を踏みしめた。
ようやく、前だけを向いて歩くことができる。
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