第55話 日輪は高く、紺碧は低く

 目が合った二人に対して、俺は何と声を掛けたら良いかわからず、ぎこちなく右手を上げた。「久しぶり」の意味を込めたつもりだったが、上手く伝わらなかったようだ。


「あれ」


 京太郎が晴馬と要の存在に気づき、こちらに視線を寄越してきた。何か言いたげだったが、俺はリハの続行を優先した。

 今日の対バン相手にBELLBOY'sがいたことは皆知っているはずだが、cream eyesのメンバーでBELLBOY'sの二人と面識があるのは俺を除けば京太郎だけだ。琴さんは過去に一度だけライブを見に来てくれたことがあったが、特にメンバーと接触していないので顔を覚えてはいないだろう。玲はそもそも二人に会ったことが無い。

 だから、気づいたのは俺と京太郎だけ。他の二人に、今は余計な気を使わせる必要は無いと判断した。琴さんは感づいている気もするが。


「ほな、やろか」


 琴さんがカウントを取ると、晴馬と要は演奏を聴くことなく控室へ入っていった。そして少し遅れて、見知らぬ男がその後を追っていく。おそらく、俺に替わって加入したベーシストなのだろう。

 バンドを抜けると言ったのは俺なのに、新しいメンバーを迎えたBELLBOY’sを見ると心がざわついた。身勝手だとはわかっているが、虫が這いあがるように沸き上がるぞわぞわとした感情は、抑えようとしてもどうしようもなかった。

 だが、俺はcream eyesを選んだことを後悔しているわけではない。むしろ、そんな後悔の念を抱いている方が二人に対して失礼だろう。だから胸を張って、堂々と彼らに接すればいい。


 リハを終えてステージを降りるとき、晴馬と要とすれ違った。


「久しぶり」


 身振りではなく、改めて声をかける。機材を抱えた晴馬は、「おう」と無表情で返事をした。


「久しぶり。まさかここで朔と会うとは思わなかったよ。言ってくれればよかったのに」


 要は少し寂しそうな笑顔でそう言った。


「悪い。何か気まずくて連絡できなかった」


「京太郎くんがギターなんだ。女の子、ふたりとも可愛いね」


「お前そんな軟派なこと言うキャラだったっけ?」


「さぁ、朔が抜けてから変わったのかも」


「何だそれ」


「とにかく、今日は楽しみにしてるよ」


 新しく入ったベーシストは、俺に会釈だけして通り過ぎていった。MUSIC MANミュージックマンSTINGRAYスティングレイSANSAMPサンズアンプBASS DRIVERベースドライバーというゴリゴリのセッティングで、俺とは随分キャラクターが異なる様子だ。俺がいなくなってからどんな音を奏でるようになったのか、聴きたいような、聴きたくないような、そんな気分だった。


「朔」


 BELLBOY'sのセッティングをぼんやりと眺めていたら、琴さんに尻を叩かれた。


「はよ行くで」


「行くって、どこへですか?」


「決まっとるやろ。みはるんのとこや」


 どうやら飛び出していったみはるんと合流するつもりらしい。琴さんにしては珍しく不用意だった、先の発言の尻ぬぐいをするつもりなのだろう。


「場所はわかってるんですか?」


「今京太郎に連絡してもらっとる」


「了解です。機材置いてきますね」


 新体制のBELLBOY'sの演奏はライブ本番までお預けとなるが、それで良いと思えた。そもそも、みはるんが飛び出していったのは俺にも責任の一端がある。


「みはるんモヤイ像のあたりにいるって」


「それじゃあ皆で行きましょう!」


 なぜか一番やる気満々なのは玲だった。空調の効いたライブハウスから真夏の炎天下へ出た瞬間、体から汗が滲み出る。


「あっちぃ~。みはるんマジでこんな中でフライヤー配ってんの?」


「今日の最高気温36度らしいですよ」


「体温と同じやん。そんなん死人出るわ」


 玉川通りを横切る歩道橋を渡った先に、みはるんの姿はあった。バスロータリーの手前あたりで、コンタクトレンズの試供品を配るアルバイトの人間と並ぶようにして、声を張ってフライヤーを配っている。


「この後そこのSHAKERでライブやりまーす! 見ていってくださーい!」


 本当にフライヤーを配っていた。紙袋ごと全部どこかに捨てて来たって、どうせバレやしないのに。正直、そうするんじゃないかと思っていた。


 でも違った。マジメに、バカ正直に、みはるんはフライヤーを配っていたのだ。顔は汗でぐちゃぐちゃになり、目の周りは黒く滲んでいた。だが、その姿は紛れも無く尊いものだった。今のみはるんを馬鹿にする奴がいるなら、京太郎でなくても殴りたくなるだろう。


「あ、京くん!」


 京太郎の姿に気づいたみはるんは駆け寄ってきた。だが、琴さんの顔を見るなりさっと京太郎の影に隠れてしまった。


「あんた、阿呆やろ」


 琴さんはそう言って、みはるんからフライヤーの入った紙袋を奪い返した。中を見ると、100枚のうち半分くらいがすでに無くなっていた。みはるんが飛び出してから30分ほどしか経っていないのに。


「い、今から本気出すつもりだったんですー! コツ掴んできたし。あと半分くらい、ソッコーで配り切ってやりますよ!」


 誰が責めているわけでもないのに弁解するみはるんを見て、琴さんは大きくため息をついた。


「京太郎」


「はい」


「みはるん連れてSHAKERに戻り。ほんで、冷たい飲み物でも飲ませたって。熱中症にでもなってもうたらかなわん」


「了解っす」


「え?」


 みはるんはキョトンとしていた。この期に及んで、何で俺たちが全員でこの場に来たのか理解していないらしい。


「ごめんなさい」


 俺は今、信じられない光景を目にしている。あの琴さんが、みはるんに頭を下げて謝罪しているのだ。


「あんたのこと誤解しとった。まったく、そんな根性見せられたらこっちが悪いことしたみたいになるわ」


 素直じゃない。でも琴さんらしい言葉だった。


「それじゃあ私がスタッフやること認めてくれるんですか?」


「それはこれから全員で決めることや。なぁ、朔」


「そこで俺に振りますか。ねぇ、玲」


「え、私? ええっと……」


 全員の視線が玲に集中する。


「みはるんさん、実は私も謝らなきゃいけないことがあって……」


「謝る?」


「初めて会った時、みはるんさんのこと苦手だって思っちゃいました。しかも、それを陰口みたいに朔さんたちに話したりして……すいませんでした」


「なんだ、そんなこと?」


 みはるんはケロっとした様子で応えた。


「私見た目こんな感じだし、初対面で拒否られるとか割とあるから気にしないよ。ってゆーか、あの時は私の方が玲ちゃんに対してピリピリしてたから、こっちこそごめんね」


 色々心配したが、結局のところみはるんはただの良い子だったのだ。スイーツ系だろうが、ニトログリセリン系だろうが、もうどうでもいいじゃないか。


「それじゃあ良い感じに収まったところで、残り半分のフライヤー配りやっちゃいますか」


「せやな。はよ終わらせな開場に間に合わんし」


「よーし、頑張りますよ~!」


 ライブハウスへと戻っていく京太郎とみはるんに手を振って、俺たちは炎天下の中、街行く人に声をかけはじめた。


「この後渋谷SHAKERでライブをするcream eyesでーす! 音源ダウンロードできまーす!」


 ほとんどの人が受け取ってくれない。それどころか、目を合わせてさえくれない。実際に自分たちでやってみて初めてわかった。30分で半分を配り切ったみはるんが、どれだけ頑張っていたのかを。


「しんど……」


 俺たちは汗だくになりながらフライヤーを配り続けた。白い目で見てくる人もいた。フライヤーを受け取った直後、グシャグシャにして捨てる人もいた。暑さにやられて膝が折れそうになった。だけど、ものすごくしんどいはずなのに嫌な気持ちにはならなかった。


「SHAKERってどこにあるの?」


 そんな中、一人のサラリーマン風の男性がフライヤーを受け取って尋ねてきた。


「えっと、そこの歩道橋を渡った先あたりに……」


「へぇ、そんじゃ仕事が遅くならなかったら見に行くよ」


「あ、ありがとうございます!」


「俺も昔バンドやってたんだよ。頑張ってね」


 ライブで褒めてもらうよりも嬉しい気がした。あぁ、俺は今とんでもなく青春らしいことをしている! そう思うと、声掛けに力が戻ってきた。


 一人20枚にも満たないノルマなのに、全てを配り終えたのは開場ギリギリの17時。真夏の太陽はまだ高く、群青の空に低い積乱雲がゆっくりと近づいてくるのが見えた。夜には雨が降るかもしれない。

 ライブ前だというのに、ヘロヘロになりながらSHAKERへと戻る三人。だが、その顔は全員晴れやかだった。


 今日のライブは、きっと今まで以上の出来になるに違いない。

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