第3話 開かれた扉

 生き残った上級生と、一部の新入生合わせて20名ばかりが、二次会会場のカラオケ屋にやってきたのは18時を回ったころだった。


「お前さぁ、げふぅっ、何で俺を巻き込んだ……」


 カラオケ屋の入っている雑居ビルの非常階段で、京太郎が手すりに顔を突っ伏しながら、恨めしそうな声で俺を非難した。


「その件は悪かったと、ぅっぷ、思ってるよ」


 俺は京太郎と同じ体制で謝罪した。しかし、一人で退治などできるわけがない。あのままでは新入生に被害が及んだかもしれないと考えれば、必要な犠牲だったと言えるだろう。


「俺はもうちょい外の風に当たらせてもらうわ。朔は、戻るのか?」


「あぁ、そろそろ行くよ。新入生達引いてたし、フォローしなくちゃ」


「まったく、無茶しやがって……」


 俺は京太郎を残して建物の中へ入っていった。


「サラダのみんなは3階の11、12、14号室にいるよ。ちなみに琴は12号室だから。よろ~」


 三年生の奈々子ななこさんから、携帯電話にメッセージが入っていた。サラダとは、サークル名「サラダボウル」の略称である。12号室がどんな惨状になっているのかは、考えたくもない。


「ごめんなさい」


 奈々子さんにそれだけ返すと、ドリンクバーの機械でお茶を一杯作り、一気に飲み干した。いくらか気分がマシになる。今日はもう、琴さんに近づくのはやめよう。返信してすぐ、携帯電話のバイブレーションが止まらなくなった。鬼電である。が、気にしないことにした。


 受付のある5階から階段を下る。何でこういう雑居ビルのお店って、受付が一番下の階じゃないんだろう。そんなことをぼんやり考えていた。部屋に入る前にトイレに寄る。もう何度目か分からない。エアータオルで手を乾かし、フラフラとした足取りで店の廊下を歩く。


「これ明日、二日酔いとかになるのかなぁ」


 噂には聞いている。どんな感覚なのかはまだ知らないが、京太郎は初めて二日酔いになった時、死んだ方がマシと思ったと言っていた。両親はけっこうな酒飲みなので、自分は大丈夫だろうと楽観視してみるも、やはり不安は残る。そんな半ば朦朧とした意識のまま、俺は部屋の扉を開けた。





 そこで初めて彼女の歌声を耳にした。





 一歩も動けなかった。全身に稲妻が走ったような、否、全身を柔らかな羽毛で包まれたような、心地良い衝撃。酔いと疲労と眠気で、半分も開かなくなっていた瞼がこじ開けられる。細胞の全てが覚醒したようだった。瞳に映ったマイクを握る華奢な少女が、誇張抜きに輝いて見えた。


 美しい? 繊細? 透き通っている? 力強い? 俺の貧弱なボキャブラリーでは表現が追い付かない。歌うために産まれたとでも言えばいいのか、とにかく「すごい」、そんな幼稚な表現しかできない、心揺さぶられる歌声だった。


「あの~、どちら様ですか?」


 ドアを開けたまま立ち尽くしていた俺に、入り口付近にいた化粧の濃い女が声をかけた。部屋の中にいた女性たちの視線が突き刺さる。歌っていた女の子も、きょとんとした表情を浮かべて、歌うのを止めてしまった。永遠のように感じられた一瞬の時間は終わり、俺は我に返った。


「え? え~と、あれ?」


 慌てて奈々子さんからのメッセージを見なおす。そして、自分が開けた扉に書かれた番号を確認した。そこにあったのは、金具に安っぽいメッキが施された「13」の文字。


「し、失礼しましたー!」


 笑い声を背中に聞きながら、慌てて外へ飛び出し、後ろ手で扉を閉めた。

 深呼吸をしてみても、まだ胸の高鳴りが収まらない。もちろん、入るべき部屋を間違えたという、恥ずかしさから来るものではない。

 歌っていた女の子の姿が、脳裏から離れない。色素の薄い白い肌、栗色で滑らかな細い髪の毛、小柄で華奢な体躯……何よりもあの歌声。


 何とかして、もう一度聞くことはできないだろうか。だが、この扉を再度開けることは、酔いの回った頭でも変質者的行為だということはわかる。

 それなら、ここは一旦引いて、接触する機会を探った方が良いのではないか。うん、そうしよう。それがいい。落ち着いた、良い判断だ。だが、自分一人で、見知らぬ女子に声をかけるなんてことができるだろうか。俺は深く息を吸い込んで、先刻入った部屋の、左隣の扉を開けた。


「あら、朔。今日はもう相手してくれへんと思うてたけど」


 琴さんの周りには相変わらずの死体の山。充満するアルコールの匂い。堪えていたものが逆流してくる。だが、そんなことを気にしている場合ではなかった。俺は喉まで登ってきていた胃酸を飲み込んで、靴を脱ぎ、テーブルの上に乗って、その場で見事な土下座を繰り出した。


「琴さん、折り入って相談があります」


 パズルのピースがはまった様な、確信めいた何かを感じていた。

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